禁欲主義の系譜 (2012)  2/2

 1 環境と欲望
 2 「個の純粋性」の誕生
 3 西洋禁欲主義の起源
 4 西洋の台頭

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3 西洋禁欲主義の起源

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算術から数学への狂気的な飛躍

ピタゴラスはエジプトで学んだと言われている。天文学的な周期や建築・設計的な算術を学んだだろうが、その後、純粋に抽象的な数学、幾何学という分野を探究した。その抽象的な数学の探究の動機は学問的な探求心などではなく、それがこの世界に埋め込まれた神の(真実の)言葉と考えたからだ。ピタゴラスはどこまでも神秘主義者だった。
重要なことは、数学がいかに神秘主義的な狂った考えか、ということだ。エジプトなどで発展した天文学的な周期に根ざした算術ではなく、より抽象的な数学という分野で発見した法則性をなんの根拠もなく、世界の真実として神秘主義的に受け入れた。その異常性がピタゴラスの特徴だ。現代では当たり前の数学の抽象性がこのような狂った飛躍からしか生まれなかった。具体的な算術から抽象的な数学への飛躍は普通の考えでは生まれない。
ピタゴラスが抽象的な数学的調和を重視したとすれば、その弟子のプラトンソクラテスの倫理を取り込んでイデアへとつなげる。イデアとはそれぞれの真実の姿、役割。イデア的世界ではみなが正しい姿、役割=善に配置される。そのために刺激を抑えた道徳教育によって、人々に正しい役割を想起させる。
キリスト教としてピタゴラスプラトン系の神学は東ローマで継承された。西ローマはアリストテレスの現実主義へ傾き、理論より信仰が重視される。ご託並べるよりもまず祈れ!が、西ローマ=ローマ教皇側で継承される。近代になると、再びプラトンピタゴラス的な数学原理主義が台頭してくる。

まず、われわれがいましがた、完全な哲学者となるために必要な資格として要求したような諸条件を、全部残らずそなえた自然的素質というものは、人間たちのなかにきわめてまれに、少数しか生まれてこないということ、この点は、すべての人がわれわれに同意するだろうと思う。
では、そのまれにしか生まれない自然的素質を堕落させるものが、どれほど数多くあり、どれほど大きなものかを考えてみたまえ・・・恵まれた好条件と一般に言われているもののすべてが、堕落と逸脱の原因となる。すなわち、美しさ、富、身体の強さ、一国において勢力をもつ親族関係、およびすべてこれに類するものがそうだ。
植物にせよ動物にせよ・・・そのすべての種子、あるいはそれから生じるものについて、われわれは次のような事実を知っている。すなわち、もしそうした種子が、それぞれに適した養分や、季節や、場所などに恵まれなかった場合には、それが力強いすぐれた種子であればあるほど、それだけいっそう多く、自分が本来必要とするものに不足することになる。なぜならば、悪いものは、善くないものに対してよりもむしろ善いものに対してこそ、つよい反対関係にあるからだ
では、・・・われわれは魂についてもこれを同じように、最善の自然的素質に恵まれた魂は、悪い教育を受けると、特別に悪くなると言うべきではないだろうか?・・・こうして、われわれが規定したような哲学の自然的素質は、思うに、もし適切な教育を与えられるならば、成長して必ずやあらゆる徳性に達するであろうが、逆に、もしふさわしからぬところに蒔かれ植えられて、育てられるならば、たまたま運よく神の助けでもないかぎり、およそまったく正反対の結果にならざるをえないだろう。 P40-42
国家(下) プラトン (岩波文庫)  ISBN:4003360184

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現代のピタゴラス的精神

ピタゴラスプラトンの流れは現在も基本的に継承されている。ピタゴラスが発見(発明)したのは、それまでエジプトなどで建築、天文術などで発達した算術を抽象化して数学。このような抽象化を行ったのは、世界が数学でできているという神秘主義的な核心である。
そしてこの神学的な興奮は現代もかわらない。この世界が数学によって記述できること、そして数学を使うことで、人間の認識を超える、神になることができる。この世界の真理に到達できる。超弦理論によるとこの世界は11次元らしいが、数学による認識があってこそ到達できる世界である。
これは物理学の話しだけではなく、人間社会にも適用されている。近代の基礎を作った啓蒙主義とは、ようするにニュートン力学に触発されて、人間社会の大統一理論を探す運動である。啓蒙主義自体はそうそうに失敗するが、その精神は続く。たとえば第二次科学革命と言われる統計力学をもとに、人間は全体としてみれば、美しく正規分布に従うという核心が生まれる。
いまの経済学はこの流れから生まれてきた。そして近代の政治は、功利主義、リベラルとか、リバタリアンなど、基本は経済学による富の分配議論である。現代の社会の根底には、ピタゴラスを継承して、いまも世界は数学的法則性によって成立しているという神秘主義的な核心によって運営されている。

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数学的調和を人間に適用する欲求

「抽象的な数学的調和」というのは、具体的な算術との対比になっている。天文学や建築設計のために外部の対象との関係を記述するのが算術である。これは、バビロニアにしろ、エジプトにしろ、古くからある。それに対して、数学・幾何学は、具体的に外部の対象とどのような関係があるかを超えて、数字の法則の体系化をめざす。すなわち数字の法則性そのものが目的化する。これを抽象化という。
数学は抽象的な学問である。具体的な世界との関係を超えて、独自の世界で試行されて発展している。それにもかかわらず、物理学などで適用されると現実の現象を記述できる。これが不思議なところである。ピタゴラスは現代にも続く、神の言葉としての数学を初めて見つけた人だろう。それは神秘主義である。
では数学は本当に、神の言葉なのか。現代では、数学は発見ではなく発明であることがわかっている。数学は新たな定義を追加して進歩する。それはこの世界の真理とは関係がない。にもかかわらず、いまでも物理学などで世界を記述できることが不思議である。
物理学などの成功があるがまた失敗もある。数学を信仰し拡張しすぎて人間科学へと拡張しすぎることである。数学と道徳をつないだプラトンはすでにその間違いを起こしている。人間の倫理に数学的な明確さを求めすぎる。そしてニュートン力学からの啓蒙主義、そして統計学からの優生学社会進化論などが生まれた。数学的な調和を人間にも適用したいという過剰な欲求は現代もかわらず継承されている。

A・N・ホワイトヘッドの有名な表現によれば、西洋哲学史は、要するにプラトン哲学に対する一連の脚注にすぎない。宗教思想の歴史においても、プラトンは同様に重要であり、古代後期、とくに四世紀以降のキリスト教神学、イスマーイール派の霊知、イタリアのルネサンスなどはすべて、程度の差はあるもののプラトン派の宗教的なヴィジョンの痕跡をとどめている。
プラトンが、ときにはイデアの世界を現実の世界のモデルとして語り、またときには、感覚的現実の世界がイデアの世界に「参与する」ことを認めたりしたことは問題にならない。しかし、この永遠のモデルとなる世界がいったん正しいものと仮定されれば、人間がいつ、どうやってイデアを知ることができるのかが、説明されなければならない。プラトンが、魂の運命に関する「オルフェウス派的」、ピタゴラス派的理論を踏襲したのは、この問題を解決するためにほかならない。・・・みずからの体系にあわせて、魂の輪廻と「想起」(アナムネーシス)の理論をとり入れた。
プラトンは、知ることは、要するに思い出すことに帰着すると考えている。地上での生と次の地上での生とのあいだに、魂はイデア観照し、純粋で完全な知識にあずかる。しかし、転生の過程で魂はレテの泉から水を飲み、イデアを直接観想することによって得た知識を忘却する。しかしながら、この知識は転生した人間に潜在化しており、哲学の働きによってよびもどすことができる。P265-266
世界宗教史3 ミルチア・エリアーデ (ちくま学芸文庫) ISBN:4480085637

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ニーチェの反禁欲主義

道徳の系譜」でニーチェキリスト教的禁欲主義の不純さを負け犬根性と非難し、自立した強さとして「超人」を対立させる。これがニーチェの基本の構図だ。「悲劇の誕生」では、アポロン的とディオニソス的を対立させる。静的、禁欲的、道徳的な社会秩序の象徴アポロンと、動的、欲望的、力の思想の象徴ディオニソスの対立。
当然、プラトンの禁欲主義も前者になるわけだが、おもしろいのがプラトンピタゴラスディオニソス系の「オルフェウス教」の影響を受けていると言われる。ニーチェが非難する禁欲主義ももとをただせば、ニーチェが信仰するディオニソスから来ている。禁欲的と欲望的は同じ根を持つ。
より根元的な正しい対立構図は、素朴さと禁欲だろう。この素朴さとは、簡単に言えば、土地に根ざした農耕生活にもとづく。豊作を祈る土着的で素朴な信仰。そこにある宗教は日々の生活慣習や豊作の儀式(呪術)と密接に結びつく。個の精神性を求めるような強い禁欲さはなく、多神教で他の宗教にも寛容である。
これと対立するのが、ユダヤ教キリスト教、仏教などの一神教である。土地、農耕、生活慣習と切り離され、人間主義的、禁欲的な教義、強い1神教による他宗教への不寛容。
強い宗教が生まれてきた背景にはいろいろ説はある。ユダヤ教に強い戒律を生まれたのは、バビロン捕囚のあとと言われる。戦争に負け、捕虜としてつれられ、またバラバラになり、どこにいてもつながっているために強い1神教、強い戒律が求められた。さらにキリスト教ユダヤ人を超えて、都市層の流動民を取り込むことで広まっていった。人々が土地から切り離されて社会の流動性が上がり、民族対立、民族征服が生まれる。
このような強い禁欲主義の宗教の台頭の一方で、逆の強い欲望の信仰も求められる。もともとディオニソス的な信仰は、日本でいうハレのように土着的で素朴な信仰の中で、豊作を祝う祭りとして生まれたのだろうが、土地から切り離され、比較的裕福な都市層の中で一つの強い宗教になったのではないだろうか。このような意味で、禁欲と欲望的は素朴な信仰との対立によって生まれる。だからニーチェの批判は強い宗教の中からでていない。

 強い宗教(禁欲/欲望的) VS 素朴な土着の信仰

禁欲主義的理想を除いては、人間は、人間という動物は、これまで何の意義も有しなかった。地上における人間の存在には何の目標もなかった。「人間は一体何のためのものか」−−−これは答えのない問いであった。人間および地上には意志というものが欠如していた。あらゆる大きな人間的運命の背後には、それよりも更に大きな「徒らに!」が折り返し文句のように響いていた。何物かが欠如していたということ。人間の周囲に一つの巨大な空隙があったということ、このことをこそ禁欲主義的理想は意味するのだ。−−−人間は自己自身を弁明し、説明し、肯定するすべを知らなかった。彼は自己の意義の問題に苦しんだ。彼はそれ以外にも苦しんだ。彼は要するに一つの病気の動物であった。
しかし苦しみそのものが彼の問題であったのではない。むしろ「何のために苦しむか」という問いの叫びに対する答えの欠如していたことが彼の問題であった。人はそれを欲する、かれはそれを求めさえもする。もしその意義が、苦しみの目的が彼に示されるとすればだ。これまで人類の上に蔓延していた呪詛は苦しみの無意義ということであって、苦しみそのものではなかった。−−−そして禁欲主義的理想は人類に一つの意義を提供したのだ!それがこれまで唯一の意義であった。何らかの意義を有するということは、全く意義を有しないということよりもましである。わけても禁欲主義的理想は、確かにこれまでに存在したかぎりでの優れた《間に合わせ》であった。苦しみはその中で解釈を得た。
巨大な空所は充たされたかに見えた。門扉はすべて自殺者的ニヒリズムの前に閉ざされた。この解釈は−−−それには疑いを容れない−−−新しい苦しみを持ち来たした。それは一層深い、一層内的な、一層有毒な、一層生命に喰い入るような苦しみであった。この解釈はあらゆる苦しみを負い目の見地のもとに持ち来たったのだ・・・・・しかしそれにも拘らず−−−人間はそのように救われた。彼は一つの意義をもった。それ以来、彼はもはや風の中の木の葉ではなくなった。無意義の「没意義」のお手玉ではなくなった。彼は今や何物かを欲することができた。−−−彼が差し当たり何に向かって、何のために、何によって欲したか、というようなことはどうでもよい。意志そのものが救われたのだ。
禁欲主義的理想によってその方向を与えられたあの意志全体が、もともと何を表現しているかを包み隠すことは絶対に不可能である。人間的なものに対する、それにもまして動物的なものに対する、それにもまして物質的なものに対するこの憎悪、官能に対する、理性そのものに対するこの嫌忌、幸福と美に対するこの恐怖、あらゆる外見や変化や生成や死滅や願望や欲求そのものから脱がれようとするこの欲求−−−それらはすべて、これを敢えて概念的に一括するならば、無への意志であり、生に対する嫌忌であり、生の最も根本的な前提に対する反逆である。しかし、やはりそれが一つの意志であるということに変わりはないのだ!・・・・・・そこで、私が最後にもう一度繰り返すならばこうである。−−−人間は欲しないよりは、まだしも無を欲するものである、と・・・・・P207-208
道徳の系譜 ニーチェ (岩波文庫) ISBN:4003363949

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4 西洋の台頭

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西洋が見いだした金と軍事力のスパイラル

そもそもギリシアにしろ、ローマにしろ、オリエント、エジプトの端として栄えわけで、現代の西洋が成功したのは、つい最近、産業革命前ぐらいだろう。それまでは中国圏、イスラム圏の方が発展していた。なぜ近代に西洋が台頭したの。軍事力の増強に成功したからだろう。火薬、銃、高炉は中国の発明だか、大砲や銃を活用した規律訓練された軍隊は西洋で発展した。兵器が強力になると、人海による軍事力から、兵器を手に入れる金と軍事力の相関が高くなる。
軍事力を誇示した海外貿易により金儲けし、儲かった金でさらに軍事力を増強する。この金と軍事力のスパイラルを最初に見いだしたのが西洋であった。

たとえば最初、西欧諸国は東アジア周辺ではおこぼれにあずかるような取引しかできなかったのに、アヘンを売る非道を正当化するまでになった。なんといっても短期間で身につけた強力な軍事力のためである。アヘン戦争で負けるまで中国にしろ、たぶんイギリス自身も、ここまでの勝てるとは思わなかった。
このような軍事力による優位は戦争の時代を終えた現代でも変わらない。そもそも、市場経済と軍事力は強い関係にある。強い軍事力がなければ市場は育たない。商品交換より略奪の方が簡単だから、略奪を抑制する軍事力がなければ市場は育たない。そして強い軍事力の維持には金がいる。そのための金を生み出すには市場を活用する必要がある。

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軍事力はマンパワーから資金力へ

前近代に、なぜ封建主義から絶対主義国家へ権力の集中が起こったか。なぜ絶対主義国家がコロンブス達を支援し資本主義を後押ししたのか。金と軍事力だろ。軍事力とは兵器の能力だけではない。日本でも鉄砲が入って刀が廃れたわけではない。火縄銃を活用するには軍隊システムから見なおさないと意味がない。規律訓練化された軍隊が必要だ。それは大砲にしても同じだ。ナショナリズム、徴兵、規律訓練、国民教育が重要になる。それは兵器技術より重要なのではなくて、銃、大砲などの兵器を活用するために必要となる。
絶対主義と民主主義は国家という意味でそれほど遠くない。重要なことは富国強兵競争において民主主義の方が金が儲かる。儲からないと軍事力競争に負ける。だから重商主義から自由主義があり、絶対主義から民主主義がある。近代欧州はそういう競争の時代だった。変化に遅れたためにポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスと最強国が次々にかわった。
大砲技術はトルコの方が進んでいたし、欧州各国はトルコから買っていた。その後、差がついたのはやはり資本主義と軍事力の正のスパイラルを回した西洋と、資本主義化に失敗したトルコの違いだろう。欧州諸国は経済と軍事力を増やすために脱皮しつづけたことが重要だろう。経済では、重商主義重農主義自由主義・・・。政治では絶対主義、自由主義、民主主義・・・。より富を生むように西洋の資本主義は脱皮し続けた。そして富に比例して、軍事力も強化されていった。
ようするに人海のように国内でまかなえれば金はそれほど重要ではない時代から、他国と貿易することで金が入り、その金で最新技術が手に入る。近代は資本主義化に乗り遅れたら負ける。たとえば中国が近代化にのり遅れたのは、権力者が富を独占し資本主義化できなかったためだ。人海さえあれば戦争に勝てる時代ならそれでよかったが、国を解放して貿易を促進して資本主義化して国の富を増やさなければ勝てない。いま戦闘機一台いくら?

十六世紀のヨーロッパにおいて、どのようにして、また何故、富と軍事的能力が手をたずさえて進んだかを示した。すなわち、「金こそ戦争の活力」ということである。・・・ヨーロッパにおいて戦争を支え政治権力を維持する能力は、十七世紀においては、ヨーロッパ外から引き出された富か、あるいは商業によって作り出された富、これも結局はヨーロッパ外の富に由来する、を手に入れることにますます頼ることになった。P73-74
重商主義論全体は、その理論に優雅さと首尾一貫性を持ち、多くの優雅な経済論と違い、実践においても反駁されなかった。交易は実際富を生んだのである。もし政府が富をつかめば、それは艦隊と軍隊に変えられた。そして、艦隊と軍隊は、もし然るべき装備され指揮されれば、国家権力を現に増大させたのである。P89
十六世紀の末に、火力は衝撃というよりむしろ決定的要素であり、槍はマスト銃を守るものであってその逆ではない・・・火力を極大化する隊形と、統制されしかも不断の発射を確保する手順の双方を、工夫することが必要であった。・・・戦闘行為のこのような発展は、戦場それ自体における非常に高度な統制を必要とした。運動の統制、火力の統制、とくに兵士の自制である。このために訓練が必要であり、訓練以上に規律が必要であった。規律という考えはあまりに軍事生活についてのわれわれの考えの一部になっているので、それが十七世紀ヨーロッパの戦争に現れた新しい現象であることを知ることはむずかしい。封建騎士は全体として見事に無規律だった。P100
ヨーロッパ史における戦争 マイケル・ハワード ISBN:4122053188

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