禁欲主義の系譜 (2012) 1/2 

 1 環境と欲望
 2 「個の純粋性」の誕生
 3 西洋禁欲主義の起源
 4 西洋の台頭

禁欲主義とは、感性的欲望を悪の源泉、またそれ自体が悪であると考え、それを出来る限り抑圧し徳に進み魂の平安を得ようとする道徳上宗教上の立場。
Wikipedia)

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1 環境と欲望

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環境と切り離された人間

禁欲主義とはなんだろうか。欲望を禁ずるとは、簡単には自己コントロール術である。欲望のままの身体と、それをコントロールする精神。すなわち身体と切り離した精神が重視される。そこにあるのは心身二元論である。
禁欲主義以前は、心身一元論。心と体を切り離すような考えはない。心身一元論では、環境−心身であり、環境に埋め込まれている。主にあるのは環境であって、人は環境に従属して生きる。そして環境に従属することで、自然に欲望は抑えられざるをえない。
だから心身二元論では切り離されるのは心と体というよりも、環境と人である。環境と切り離された身体を心がコントロールするということだ。環境と人が切り離されるとは、環境に埋め込まれなくても生きていける。それは豊かさ、富の蓄積による。富が蓄積されていれば、環境が悪くなっても蓄積された富で生きることができる。環境の変化に左右されることが減る。
富を蓄積するとは農業の生産量が増えるということだが、蔵に貯蔵された富は商業を発達させて市場が発達する。貨幣は蓄積に優れた富である。腐らずに容易に貯めることができ、またいつでも必要なものに交換できる。禁欲主義と貨幣の普及は深い関係にある。

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精神の理想像とは

社会が富むと、富をめぐり闘争が生まれ格差が生まれる。そして裕福層は欲望を増幅させる。その反対に欲望こそが悪であると禁欲主義が生まれる。あえて欲望を抑えることは欲望をコントロールする心身二元論的精神を生み、理性的な精神がめざされる。
では精神の目指す在り方とはなにか。正しい精神、善、理性とはなにかが研究される。キリスト教は他者へ愛、仏教では悟り、儒教は君子としての礼、そしてギリシアではピタゴラスの数学的美をへてプラトンイデアという社会的な役割。特に西洋近代化ではプラトンイデア論は重要な役割を示す。それはキリスト教プロテスタンティズムも経由して、社会倫理の基盤となっている。

枢軸時代・・・自己の限界を自覚的に把握すると同時に、人間は自己の最高目標を定め・・・人間いかに生きるべきか・・・この世界史の軸は、はっきりいって紀元前500年頃、紀元前800年から紀元前200年の間に発生した精神的過程にあると思われる。
この時代には、驚くべき事件が集中的に起こった。シナでは孔子老子が生まれ、シナ哲学のあらゆる方向が発生し、墨子荘子列子や、そのほか無数の人々 が思索した、―インドではウパニシャッドが発生し、仏陀が生まれ、懐疑論唯物論、詭弁術や虚無主義に至るまであらゆる哲学的可能性が、シナと同様展開されたのである、―イランではゾロアスターが善と悪との闘争という挑戦的な世界像を説いた、―パレスチナでは、エリアからイザヤおよびエレミアをへて、第二イザヤに至る預言者たちが出現した、―ギリシャでは、ホメロスや哲学者たち、―パルメニデス、へラクレイトス、プラトンー更に悲劇詩人たちや、トゥキュディデスおよびアルキメデスが現われた。以上の名前によって輪郭が漠然とながら示される一切が、シナ、インドおよび西洋において、どれもが相互に知り合うことなく、ほぼ同時的にこの数世紀のうちに発生したのである。
歴史の起原と目標(1949) カール・ヤスパース

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2 「個の純粋性」の誕生

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仏教の抽象性

精神性の系譜を考えると、いくつかの跳躍、遷移点がある。たとえば仏教以前にすでにインド宗教は成熟していた。宗教の基本は豊穣を祈る呪術的な自然宗教である。自然宗教は強さがなく、人々の生活慣習の中に埋め込まれていた。その中からインド宗教は生活慣習を越えて精神性を求めて多くの人々が修練に挑む。ウシャニパッドの形而上学など世界的にも突出して高い抽象性をもった。
この時代に一般の人々が労働から離れて精神修養に専念できるということがすごい。インドの温暖で豊かな自然環境に支えられているのだろう。インド宗教の高い抽象性はその後のオリエントや西洋など世界中の思想に多大な影響を与えた。

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ユダヤ教の強い宗教

ユダヤ教は特殊な宗教である。豊穣を祈る呪術的な自然宗教を元にして、土地に根ざした豊かな人々に対して、その周辺で虐げられたユダヤ人という砂漠の民は、自然宗教を嫌い、独自の一神教、明確な律法という「強い宗教」を作り上げる。キリスト教はその後この強さを引き継ぐ。
しかし実際にユダヤ教がいつ「強さ」を手に入れたか、議論がある。バビロン捕囚により民族がバラバラになったときか、またヘレニズムの影響からか。ギリシア思想の抽象化の中から生まれたプラトニズム=1者などの思想の影響である。旧約聖書の成立はその時期まで続いている。
ギリシア思想は、その後ローマ時代に入って、ネオプラトニズムとして1者の思想をより明確にするが、ここには逆にユダヤ教キリスト教の1神教の影響があるとも言われる。すなわちその始めからギリシア思想とキリスト教は影響しあって発展する。

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ギリシア思想の抽象性への飛躍

ギリシア思想の特徴はその抽象性にある。その源泉のひとつであるピタゴラス教団は数理神学といわれるように数学を世界の理想像とした。ギリシア以前に算術は発展していた。高度な建築技術には高度な算術が必要だった。また自然を管理するために天文学などその周期性は法則化されていた。
しかしピタゴラス教団の特徴はこのような具体的な算術から数学という抽象性へ飛躍したことにある。数学という抽象化された世界は生まれる前の魂が知る理想世界である。現実世界は理想世界をモデルとした不完全な世界である。それは輪廻転生思想である。
抽象に理想を求める思想はその後、弟子のプラトンイデア論)に引き継がれ、西洋思想の一つの源泉となる。形而上学という抽象性の洗練は世界の根本的な原理に行き着く。たとえばニュートンが起こした革命はまさにピタゴラス教の回帰といえる。現代人もこの世界が抽象的な数学で記述されることに驚き、一つの真理として「信仰」している。このような具体性から抽象性への飛躍がどこから来たのか、わかっていないが、抽象性と輪廻転生からインド宗教の影響が考えられる。またオルフィック教の影響があるとも言われている。
現代では当たり前のように感じる抽象性であるが、世界的にもかなり特殊な思想である。建築など実用的な算術の発展からは決して生まれない。そこに美学が必要である。数学体系の美しさに魅せられ、のめり込むように信仰するエクスタシーの体験によってしか飛躍はなかっただろう。

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ヘレニズムのヒューマニズム

このような抽象性の思想はいくつかの精神性を生み出す。一つはプラトニズムに見られるように抽象化の先に理想の1者に到達する。このような考えはユダヤ教キリスト教などの1神教、さらにキリスト教神学へ大きな影響を与える。もうひとつは逆にいえば1者以下は同じであるという個の思想、ヒューマニズムへつながる。ギリシア時代は奴隷制の時代で現代のヒューマニズムとはかけ離れているが、これらの思想がアレキサンダーの世界帝国とともにヘレニズム文化として広まっていく。
キリスト教ユダヤ教の亜流として生まれてくる中でも、ヘレニズム文化の影響は大きいと言われる。隣人愛というキリストの愛の思想はユダヤ教選民思想を越えて、さらにギリシア思想のヒューマニズムさえ越えて、キリスト教的なヒューマニズムとして虐げられた奴隷や女性も救済する。

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キリスト教の正統論争

無数にある宗教の中で、ユダヤ教の亜流のキリスト教ローマ帝国の国教にまで上り詰めるのは簡単なことではなかっただろう。一つは多くの弱い自然宗教多神教、生活慣習に埋め込まれて、明確に戒律化していないなど)に対して、強い宗教(1神教、戒律による集団団結など)であったこと。割礼を排除しユダヤ民族に限定せず、広く信者を受け入れたこと。キリストの隣人愛のヒューマニズム。キリストの死と復活の物語によってパウロが生み出した贖罪の思想。すなわち人は存在そのものが罪深く終末に救われるという新たな救済思想。
どちらにしろ、キリスト教の成功は、ローマ世界帝国のチャンネルがなければ世界宗教になりえなかっただろう。ローマ帝国はこのヒューマニズムで強い宗教を、人々を教育し帝国を統一し続ける方法論として利用しようとした。
このような方法論とするために、コンスタンティヌス帝の時代以降、キリスト教は「正統」をめぐる闘争に入っていく。プラトニズムを継ぎ1者を重視するアレキサンドリア地域や、アリストテレスを継ぎ個別を重視するアンティオキア地域、ギリシア思想的方法論よりも実利な隣人愛を重視するローマなど。単なる机上の論争を越えてそれぞれ地域の宗派の闘争であり、ローマ帝国東西分裂の一因ともなる。

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西洋人の心性 個の純粋性

たとえば親は自らの子を特別な気持ちで愛する。見ず知らずの子に同様の愛情を持たないことは当然である。しかし隣人愛の思想とは見ず知らずの子にも自らの子と変わらぬ愛を注げという考えである。こんなことが可能だろうか。キリスト教の神とはそういう存在である。信者一人一人に親子のような愛を注ぐ。このような偉大な神を敬い目指せということだ。
たとえばキリスト教の正統論争で重視されたのが、キリストとはなにものかということだ。神の子であるから神の下位の存在と考えがちだが、正統とされた「三位一体説」とは神とキリストと聖霊が同等であるということだ。そしてキリストとは「まったき人」であり、また「まったき神」であるという。キリストは人類のために自らの死を捧げる。それは神としてではない。「まったき人」としてである。だからキリストの死は尊く、人々はキリストに大きな負債をおったのだ。それが贖罪である。
では人であり神であるとはいかなる状態か。それが大きな問題だ。このアンビバレントは、隣人愛=人として子に特別に愛情を注ぐことと、また神としてすべての人々に等しく愛情を注ぐことにも現れている。キリスト教の根幹の教義である。
このアンビバレントキリスト教の正統論争の中で、ギリシア思想の抽象性を用いることで洗練されていった。アリストテレスプラトンイデア論を引き継ぎ、ある個人と人というイデアの関係、すなわち具体的な個々の多数の存在と、抽象化された1者との関係はいかなるものかを思考した。そして抽象化された1者はイデアのように別世界ではなく、それぞれの個の中にあると考えた。このような思考を用いてキリスト教教義の中で抽出されたのが具体的な多数それぞれの個に存在する「個の純粋性」である。
このような考えはヒューマニズムとなり、現代の西洋の倫理思想においても基本である。様々な民族、立場の他者といかに関係を築くか。それはいかなる他者に対しても等しく尊重すると言うこと。それは人では到達できない領域であるが、そこを目指して繰り返すことが現代の倫理である。ここには「個の純粋性」がある。
日本人は個人主義を個人の自由という実利的に考えがちである。西洋人が個人を重視するのはその根底に「個の純粋性」という思想が息づいている。それは自立した責任である。日本人には理解しにくい西洋人の心性だろう。

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イスラム教圏の台頭

ローマ帝国は俗に言うゲルマン民族の大移動、新たな民族が次々と南下して、混沌、崩壊していく。その後に台頭したのがイスラム教である。東西ローマ帝国を最後に統一統治したユスティニアヌス帝の死と、イスラム教の開祖ムハンマドの誕生が時期的に近いのは象徴的である。
ローマ帝国の崩壊を尻目にイスラム教圏は急拡大し、地中海貿易圏を支配していく。そしてイスラム教圏が拡大の方法論として選んだのがキリスト教圏からの略奪である。すなわち海賊行為はイスラム教圏の正統な布教活動、経済活動として組織的に行われた。資本主義社会となった現代では正統な経済活動といえば交換であるが、古くから略奪も一つの効率的な経済活動であった。
ローマ帝国崩壊後において、各所を統一する権威はローマカトリックだけとなった。そしてこのような絶え間ないイスラム教圏の脅威に対して、ローマカトリックがとったのが、ゲルマン人の新たな国、フランク王国神聖ローマ帝国として後ろ盾となってもらうことであった。しかしまだ混沌としたヨーロッパ地域は必ずしもローマカトリックの指示に従った訳ではない。有名な「カノッサの屈辱」など、国家権力と教皇権力は協力しつつ、競合していく。

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交易の拡大とキリスト教圏の反撃

このようなイスラム教圏の優勢の中で、キリスト教圏が再び反撃することになるのはなにがきっかけだろうか。一つあげられるのは民族大移動が一段落して、ヨーロッパ各国が国家または封建主義的な地域として成熟していったことがあげられるだろう。その象徴的な出来事が十字軍である。教皇の呼びかけに応えて、組織的にイスラム教圏へ遠征が可能であったのは、政治的、経済的な安定を得られつつあったためだ。
イスラム教圏との闘争を繰り返す裏では、確実に交易が発展しつづけたことがあげられる。特に十字軍の遠征はヨーロッパという田舎へイスラムの洗練された文化を紹介した。ヴェネツィア共和国を代表とするイタリアの海洋商業都市イスラム、そしてインドとの交易によって巨額の富を得るようになる。ルネッサンスがこれらの国々で発生したのは偶然ではない。ルネッサンスという文化革命は豊かな交易による富とキリスト教圏外からからもたらされるコスモポリタンな文化に支えられていた。
そして増大する交易の富に対して、ポルトガル、スペインなど各国家は新たなインドへの航路を開拓しようと必死になる。コロンブスアメリカ大陸発見や、ヴァスコダガマの世界一周などはその副産物でしかない。やがて増大する交易の富はイタリアの都市の許容をこえる。富の増大は君主を元にした国家単位の巨大な権力として成長していく。富の増大はより強力な兵器、軍事力競争を促し、国家権力闘争の時代に入っていく。これが近代国家の芽生えである。
イスラム教圏がこのような国家権力時代に乗り遅れていく一つの要因は、キリスト教圏ではすでに政治権力の国王と宗教権威の教皇が別であったこと、あるいは自由競争という富の最大化を進めたのに対して、イスラム教圏の略奪(海賊)は経済行為であり、ジハードという宗教活動であり、一体で切り離すことができなかったからだろう。

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隣人との交換と、隣人愛

そもそも交易、すなわち(貨幣)交換とキリスト教圏に芽生えた「個の純粋性」には高い相関性がある。ギリシアは地中海交易として栄え、その富に支えられて、労働と結びついて具体性から、非労働的な抽象性というギリシア思想が発展した面がある。ギリシア・ローマ圏、すなわち後のキリスト教圏は流動的な交易圏でもあり、ギリシア的なヒューマニズムにしろ、キリスト教ヒューマニズムにしろ、そして「個の純粋性」にしろ、交易における個の尊重、正確には貨幣(を持つ者)の尊重が背景にある。
交換とはそもそも個対個の関係である。取引相手との信頼関係は重要であるが、絶えず新たな交易相手を開拓することで富は得られる。すなわち隣人との交換である。貨幣交換による経済の発展には相手が誰であろうが、より高く買ってくれる人に売るという自由競争。それが経済を活性化し富を最大化する。すなわち交易が活発になることは社会の流動性があがり、従来の階級も飛び越える可能性が生まれる。
しかしこの隣人との交換を愛とすることで隣人愛は生まれる。しかし愛とは本来より身近な者に注ぐものであり、ここにアンビバレントが生まれる。すなわち飛躍が生まれるわけである。このような意味でキリスト教(圏の人々)はそもそも交易との相性がよい。現代で言えば自由主義を許容する背景をもつ。たとえキリスト教の戒律で金融業が禁止されていてもだ。

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「個の純粋性」の誕生

しかし交易が活発であった地域は西洋圏に限らない。中国でも、オリエントでも交易は活発であった。なぜ「個の純粋性」への飛躍は生まれなかったのか。その違いはなにかということは大きな疑問である。たとえば中国での宋時代に発展した交易は、新たなモンゴル民族国家元では管理、抑圧されることになる。イスラム圏においても交易が国家宗教権力と切り離すことが難しかった。
そもそも等価交換はとても繊細な行為である。少しでも社会的な関係の格差があれば、優位な条件で交換を進めるだろう。強い者はよい条件を強要する。すなわち暴力が介在する。むしろこちらの方が当たり前である。現代では当たり前の、金の前では誰でも平等であること、誰でも等しく交換すること=「隣人との交換」はとても特殊な行為である。

交易から「個の純粋性」には飛躍が必要になる。ギリシア思想から生まれた抽象性への飛躍、そしてキリスト教の隣人愛のアンビバレンツは単に具体性の延長で生まれるものではなく、美しさに魅せられるという熱い(エクスタシー)体験の1回性によって起こる。

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