日本人のハイコンテクスト社会 (2010) 2/2

 1 文化のリズム
 2 日本人の民主主義と資本主義
 3 日本人の「和」と「他者回避」
 4 ハイコンテクスト社会の甘えと礼儀
 5 超ハイウェイ社会

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3 日本人の「和」と「他者回避」

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言語で思想を伝えなければならない極限的な状況

日本人に思想が無いわけでなく、わざ、習慣、身体訓練として伝承されて言語化されていない。実は思想の在り方としてはこちらが一般的だ。太古から民族はそうして思想を伝承してきた。「理解しないといけないこと」=言葉による思想伝達法はほぼ使いものにならない。
たとえば会ったことも見たこともない民族がいて彼らの思想について書いた本を読んで何がわかるだろう。実際に一緒に生活してみないとなにもわからない。言語信仰に毒された現代人にはこれを理解することがまずできない。
たとえば旨いザーサイを食べたリボーターはいかに読者にその旨さを伝えるか。日本人同士は親しげに「食べてみなよ」と勧める。西洋哲学者はそれをメタファーや造語を駆使して伝える方法を模索する。時に文学として実際に食べるより素晴らしくみなを魅了することもあるが、正確な伝達とは別だ。
言語で思想を伝えなければならない状況はとても極限的な状況だ。その状況の一つが他民族に自らの思想の正当性を訴えかける弁論術です。日本人が日本人論を書き始めたのは明治入り知識人が留学を始めてからだ。島国日本では、思想はわざ、習慣、身体訓練で伝承されて、他者に自らの思想を訴えることは少ない。当然、うまく言語化できない。そして思想もない国民と揶揄されることが近代日本知識人の劣等感だったわけだ。
いまでもよく日本人は明確な言語思想をもち外国に主張しなければならないというが、本当だろうか。言語思想を語りあえばわかりあえるのだろうか。そもそも西洋の近代思想はいかに発展してきたか。それは資本主義化と密接な関係がある。すなわち西洋の貿易先を広めるために、海外に向けては植民地化の正当性を巧みに訴えるためだ。たとえば日本人もアジアへ侵略した時は珍しくその正当性の思想を懸命にしゃべった。

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日本人の外来

日本人は辺境島国に棲み言語思想の習慣を持たない。だから海外から伝わる言語思想が入ってきても、対立する言説がなく寛容ですぐに「かぶれ」る。日本人はいままでの日本人はダメだといいつつ、世代ごとに到来する渡来思想にかぶれている。しかしこれは習慣としての日本思想にすぐに影響がないからできる、うわっつらだ。たとえばラップミュージックは日本に輸入され30年近く経ちやっと歌謡曲レベルにまで浸透してきましたが、日本人に「YO!」とか言われるとお尻がくすぐったい。
外来思想が真に日本人の思想に影響を与えるには時間をかけて習慣化することが必要だが、人が一度覚えた習慣は簡単に変わらないことを考えると、世代を変えないと新たな習慣は吸収されない。そして習慣化される長い過程で外来思想はいつの間にか日本風にアレンジされている。ここに日本人の伝統的な成功法則がある。
近代化の過程で日本人は、護送船団型資本主義のように独自のアレンジをしながらも資本主義によく順応した。これは産業技術が実践的で習慣訓練化しやすかったからだろう。それに対して民主主義はうまく修得ていない。これは民主主義思想が多分に理念的な言語思想だからだろう。
左翼の本質は主知主義であると言われる。主知主義とは、知性、理性、悟性による理解を重視する思想だ。言語化できない習慣は重視されない。人の知性によって世界は設計できると考える。現代日本がこれだけ世界に誇る技術大国になっても、日本では、西洋哲学思想という言論術は中二病者の屁理屈としてしか受け入れられていないのが現状だ。
現代日本人の問題は言語思想を持たないことよりも、あまりに資本主義に順応しすぎていることにあるのかもしれない。資本主義、すなわち貨幣価値を基本とする社会システムへ順応しすぎると、「形式的合理性」の問題に陥る。予測可能性が高く、コンビニエンスで安全な社会の中で人々が無気力あるいは、漠然とした不安に陥っていく。現代の日本人が「自分たちの言葉を持ちたい」と思うことの背景には、異文化に向けて自己の正当性を主張したいというよりも、あまりに資本主義に順応しすぎたことによる閉塞からの反動があるのかもしれない。

芥川龍之介はたくさんの短編小説を書いていますが、素材から見て、主に、明治の文明開化期、十六世紀のキリシタン平安時代の「今昔物語」などに依拠しています。それらの選択は恣意的に見えます。しかし、よく見ると、芥川に、彼が生まれる以前の日本人が、外国の文化や思想をどのように受け取ったかという問題を検証しようとする一貫した意思があったように思われるのです。
それを明確に示すのが、「神神の微笑」という作品です。これはいわゆるキリシタンものの中で最も重要な作品です。ここには特に筋のようなものはありません。主人公、イエズス会の宣教師オルガンティノは、日本の風景を美しく思い、キリスト教の広がりにも満足しているのですが、漠然と不安を覚える。「この国の山川に潜んでいる力と、多分は人間に見えない霊と」戦わなければならないと、彼は考える。彼はしばしば幻覚におそわれるのですが、そのなかに老人があらわれます。彼は日本の「霊の一人」であり、日本では、外から来たいかなる思想も、たとえば儒教も仏教も、この国で造り変えられる、と語ります。《我我の力と云うのは、破壊する力ではありません。造り変える力なのです。》P62
「日本精神分析」 柄谷行人 (ISBN:4061598228

文の構造、すなわち言葉の秩序が、具体的で特殊な状況に超越し、あらゆる場面に通用しようとする傾向は、中国語にくらべても、西洋語とくらべても、日本語の場合、著しく制限されている。そういう言葉の性質は、おそらく、その場で話が通じることに重点をおき、話の内容の普遍性(それは文の構造の普遍性と重なっている)に重点をおかない文化と、切り離しては考えることができないだろう。この文化のなかでは、二人の人間が言葉を用いずに解りあることが理想とされたのであり、主語の省略の極限は、遂に、文そのものの省略にまで到ったのである。またおそらく文の構造が特殊な状況に超越しない言語上の習慣は、価値が状況に超越しない文化的傾向とも、照応している。P19-20
本来日本的な世界観の構造を叙述することは、明示的な理論体系の特徴な列挙するほど容易ではない。神道の理論的な体系は、ト部兼倶から平田篤胤に到るまで、儒・仏・道、またキリスト教の概念を借用している。外来思想の影響をうけない神道には理論がない。そこで儒・仏の影響の少ないとされる記・紀・風土記から土着的と想像されるものの考え方を抽象するほかないだろう。P36-37
「日本文学史序説」 加藤周一 (ISBN:4480084878

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日本人の「和」と「他者回避」

日本の大衆音楽史を語る場合には日本音楽史のみを語っても意味がないだろう。西洋音楽史と平行して語る必要がある。連続性を持つのは西洋音楽史で日本の音楽は各時代ごとに西洋から輸入され改良される。だから日本大衆音楽史は非連続的である。
これはそのまま明治以降の日本の思想史、そして精神史にも当てはまるのではないだろうか。「日本人とは」という日本人像のとらえにくさの理由のひとつがそこにある。多くにおいて日本人論が世代論として語られるのはそのためだ。
それでも、連続性を見いだせる日本人の特徴もある。たとえば「和を重んじる」。集団を重視し主体性が低いという特徴は、どこに帰属意識の重点を置くかの違いだけで今もかわらないのではないだろうか。
たとえば最近の若者の特徴である「他者回避」は、日本人が自立した主体として西洋化しつつということではなく、逆にいまも「和を重んじる」帰属意識の引力働いている故にそれを回避しようという特徴だと言える。
グローバル化した商品貨幣交換社会であるが、日本ではより洗練された形態になっている。たとえばファーストフード、ファミレス、コンビニなどのような「マクドナルド化」が全国に展開されている。
どこでも誰でも24時間、等しい価格という平等を実現している。これは商品交換では当たり前だと思うかもしれないが、世界的にはいまだに市場(いちば)での定価のないその場の交渉による商品交換が一般的だ。日本のような高度に発達した消費社会を実現するには全国に高度な商品ネットワークシステムが張り巡らされている必要がある。
日本では、このような高度消費社会によって、安価で「他者回避」しながらそれなりに快適な生活ができてしまう。そして若者は快適な環境の中で、日本人の集団圧を感じていることの裏返しとして、「他者回避」を望む。その反動として、若者はネットで「コンビニエンスな他者」とのつながりを過剰に求めている。
明治以降は西洋に対抗するための「和を重んじる」総力戦として進めてきた経済成長戦略の帰結として、世界に例を見ないコンビニエンスな社会を作りあげた。そして継続する「和を重んじる」ことへの裏返しとして「他者回避」をする。あるいは儀礼的無関心を消費社会の倫理であるとすれば、「他者回避」は高度消費社会おける「和を重んじる」ことの一つの成熟した形態といえるだろう。

私達の伝統的宗教がいずれも、新たな時代に流入したイデオロギーに思想的に対決し、その対決を通じて伝統を自覚的に再生させるような役割を果たしえず、そのために新思想はつぎつぎと無秩序に埋積され、近代日本人の精神的雑居性がいよいよ甚だしくなった。
・・・問題はむしろ異質的な思想が本当に「交」わらずにただ空間的に同居存在している点にある。多様な思想が内面的に交わるならばそこから文字通り雑種という新たな個性が生まれることが期待できるが、ただ、いちゃついていたり喧嘩したりしているのでは、せいぜい前述した不毛な論争が繰り返されるだけだろう。
「日本の思想」 丸山真男 (ISBN:400412039X) P63-64

なぜ、市場原理主義が貧しい形式的合理主義・マクドナルド的な再帰性に陥るのか・・・マクドナルド化における予測可能性とは、偶然性を排除することであり、計算可能性においては、質より量を重視する。
マクドナルド化は、形式的合理性の内部に留まり、実質的合理性を欠く事態を指す。ここから形式合理性の内部で反射的に振る舞う「マクドナルド的主体」という概念が導き出される。哲学者の東浩紀は、この「主体のマクドナルド化」と「動物化」という概念で記述している。「動物化」とは、・・・通常の主体と構造は変わらず、形式的合理性の論理で行動する「マクドナルド的主体」を指すものと考えられる。
ネオリベラリズム精神分析」 樫村愛子 (ISBN:4334034152

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日本人の国家依存

(日本人には)「人間」、「日本教」、「空気」、「常識」、こうした概念、その意味内容は、中性的で、無性格で、どこにでもあるという点で共通している。空気のように毎日それを吸っているのに感じないという点である。
つまり、法律として国家で決められようと、その条文を理性的に読めばそのとおりであろうと、その理屈の外、法律の外に、「日本教」は「人間」という観念を措定しており、それに抵触するような「非人間的」なこと、たとえば生きていけなくなる、あるいはそこまで行かなくても、人間らしく暮らせないようであれば、法は無視してもよいと考えられているのだ。
・・・日本では、神ではなく自分たち「人間」が最上の価値なのである。だから、その「人間」レベルにある「常識」は、「人間」が解釈して使いやすくすることに何の問題もない。・・・その「人間」自体も、観念として抽象化されてはおらず、常に生身の裸の人間という具体のレベルで捉えられ解釈され直すのであって、抽象化された言葉で書かれたりしてはならない。
というものの、そうした曖昧さと言い合いにもかかわらず、日本社会は壊滅することなく動いているし、むしろその安定さを指摘されることが多い。逆に言えば、「人間」や「常識」や「場の空気」を正しく認識するために、日本人は多くの時間を互いの考えのすり合わせのために費やしているということであり、かつ、結果としてはかなり程度まで、共通理解を獲得することに成功しているということである。これはまた、こうした共通解を会得しなければ、「日本人になれない」ということである。
「「日本人論」再考」 船曳建夫 (ISBN:4062919907)  P248-251

日本は明治時代以降、西洋の「常識」にさらされ、それまでの日本人の「常識」を懐疑した。しかしそれを回避したのが天皇を中心とする国家主義である。西洋の植民地化を避けるために、国家主義のもと、実質的に江戸時代から続く階級制度を維持しつつ、一丸となって経済発展を目指す。
西洋の産業技術をどん欲に取り入れながら、西洋から持ち込まれる民主主義、特に左翼思想は弾圧された。市民革命を回避するためだけではなく、日本人の連帯を疎外する「常識」への懐疑を排除するためである。
このような国家主義傾向は昭和を経て戦後になっても続く。なぜ米国が戦後も天皇制を継続したのか。その理由の一つがすでに始まっていたロシアとの冷戦構造において、日本を左翼化させないためである。天皇制を否定することで日本人が「常識」への懐疑に陥らないよう、継続して国家主義を維持するようにするに考えられた。
それまで国家主義を推進してきた軍部は解体され、制度的な民主主義は取り入れられつつも、天皇制は継続し、そして財閥は実質的には維持された。戦後、国家主義は財閥などの大企業を中心とした会社社会として生き延び、日本の経済復興を推進した。国家の庇護の元、大企業を頂点とした下請けへと広がるピラミット構造による護送船団である。これによって終身雇用を基本とした会社社会の中で、また日本人は懐疑することなく「常識」を信じ続けることができた。
いま、その会社社会が解体しつつある。それとともに近年、政府への要望、依存が直接的でヒステリックになりつつある。次々に首相の首を取り替え、政権政党を取り替える。そこにある関心は年金や事業仕分けを象徴とする国家による富の分配である。それでも人々は日本人の「常識」を信じるしかなく、その源を国家に求めている。会社が見捨てても、社会が見捨てても、まさか国家は日本人を見捨てるわけがないと。
それも限界だろう。自民党埋蔵金を隠し持ち、国民に分配されないと民主党も持ち上げた。だがそんなものはなかった。公約違反と鳩山首相の首を切るのもいいだろう。しかしいくら国家の財布を振ろうがないものはない。もはや国家への信頼だけでは生きていけないところに来てしまっている。
確かに日本人は「日常生活にひそむ英知」による「どこかの国の王様のような快適な生活に慣れ切ってい」たのかもしれないが、それも限界に近づきつつある。その快適さは「常識」を支える国家に深く依存して来たからだ。
この国家依存からいかに脱却するか。大きな曲がり角に来ていることは確かだろう。オタクやネットなどのサブカルチャーへ埋没することで日本人の「常識」を延命しつつ、省エネ型の生活で堪え忍ぶのも限界だろう。日本人も「常識」を懐疑し、市民社会としてのルールを組み立てていくか。海外へ積極的に出て行くときには当然必要になるものだ。

現代日本人おいて)何かしてくれる国家について国家論は盛んであり、そこに臣民意識が現れるが、国家主権といった国際政治における主体の問題としての国家とそれを動かす国民の議論はない。国債、年金、道路といった、「生活環境のインフラ」としての国家に関心があるのだ。もちろんそうしたインフラは、国家そのものである。しかし、それを動かす国民はどのようなものかは心底の関心にはなっていない。
・・・「市民」というモデルが、いわゆる「市民活動」にたずさわる人というのであるならば、それは社会に広く行き渡り、現実化している。・・・しかし、それは西洋型の市民というのとは違うだろう。・・・日本の市民は「社会」ではなく、「世間」に生きている。日本の「市民」は庶民と同義にとらえられ、使われている。「市民」のカッコはなかなかとれない。
「「日本人論」再考」 船曳建夫 (ISBN:4062919907)  P297-298

明治維新からまもない一八七一年に新政府は・・・指導者階層を二つに分けて、そのどちらかといえば若いそれ故に学習能力をもつ部分をヨーロッパと米国とに送って西洋の制度を勉強させました。
高級官僚の派遣団は西洋諸国の技術の発達とその能率から深い印象を受けます。彼らはまたその能率のある統治組織を推し進める宗教および倫理の信条をもうらやましいものと感じました。この故に彼らは能率の高い技術文明を支える力として、日本の神道の伝統を模様替えして取り入れる流儀を採用しようと考えました。こうして天皇崇拝は、日本においてそして日本だけに栄えるものになる技術文明の殿堂の思想的土台として据えられることになりました。
「戦時期日本の精神史 1931‐1945年」 鶴見 俊輔 (ISBN:4006000502) P58-59

(明治政府の)地租改正と殖産興業という2大原畜政策に結びついてもっとも巨大な利益をあげたのは、いわゆる政商であった。彼らは政府との特権的結合を基礎に活動する前期的資本家(商品・高利貸)であり、産業的基盤を得ることによって財閥に転化していく。
かかるものとしての政商は、歴史学的には、絶対王政期の初期独占と基本的には共通した性格のものとして把握することができよう。イギリスやフランスの場合、初期独占はブルジョア革命を通じて打倒され、その結果の条件を得た小ブルジョアブルジョアジーの競争のなかからやがて独占段階を特徴づける近代的独占が生み出されてくる。しかし日本の場合はこれと異なり、初期独占としての政商がなしくずしに財閥に転化し、その財閥が早くから近代的独占としての側面を帯びるようになるのであって、初期独占と近代的独占の間に系譜的断絶がない点に特徴がある。
「日本経済史」 石井寛治 (ISBN:4130420399) P136

日清「戦後経営」を通じて新しい「国家資本」が次々と作られた。産業革命期を通じて国家資本の比重がかえって増大しつつ、産業資本の確立を帝国主義への転化を推し進めていったことは、日本資本主義の大きな特徴であった。
巨大な国家資本とくに官営企業を維持・発展させるためには国家財政からの絶えざる資金投入が必要であり、そのことが農民その他からの租税収奪の強化をもたらし、農村の半封建的構造を下からのブルジョア的発展を通じて打ち破る動きを摘み取り抑圧したということであろう。
軍需に代表される国家市場の形成が民間重工業の発展を促す動きもとくに日露戦争後にはみられているとはいえ、その利益にあずかったのは主として財閥系企業にすぎず・・・「国家資本と財閥資本との関連(癒着)の仕方そのものの中に、日本型ブルジョアジーの序列的・重層的構成を決定づける契機が内包されていた」
「日本経済史」 石井寛治 (ISBN:4130420399) P243-246

GHQの)財閥解体政策によって中枢の本社機能が解体され、特に持株会社は廃止された。・・・打撃を受けたのは、どちらかといえば「新興財閥」であって、「旧財閥」は分散はしたが復活の芽を多く残していた。傘下の大企業は残されたし、・・・財閥の中枢機構としての金融機関はまったくといいほど、手がつけられなかった。
しかも、冷戦体制が明らかになるにつけて、アメリ占領政策の転換が起こった。51年7月に持株会社整理委員会は解散したので、財閥解体業務は終焉した。この後、日本の財閥解体は急激に緩和されることになり、日本資本主義の発展には有利となった。したがって、戦後復興にこれら大企業がそのまま関与して、復活した。
「戦後日本経済の総点検」 金子貞吉 (ISBN10:4762006777) P11-12

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4 ハイコンテクスト社会の甘えと礼儀

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日本の良さが若者をダメにする レジス・アルノー
http://newsweekjapan.jp/column/tokyoeye/2010/04/post-158.php
・・・18歳になるまで日本で暮らしたフランス人の多く(いや、ほとんどかもしれない)が選ぶのは、フランスよりも日本だ。なぜか。彼らは日本社会の柔和さや格差の小ささ、日常生活の質の高さを知っているからだ。
日本とフランスの両方で税務署や郵便局を利用したり、郊外の電車に乗ってみれば、よく分かる。日本は清潔で効率が良く、マナーもいい。フランスのこうした場所は、不潔で効率が悪くて、係員は攻撃的だ。2つの国で同じ体験をした人なら、100%私の意見に賛成するだろう。
・・・日本の若者は自分の国の良さをちゃんと理解していない。日本の本当の素晴らしさとは、自動車やロボットではなく日常生活にひそむ英知だ。.
だが日本と外国の両方で暮らしたことがなければ、このことに気付かない。ある意味で日本の生活は、素晴らし過ぎるのかもしれない。日本の若者も、日本で暮らすフランス人の若者も、どこかの国の王様のような快適な生活に慣れ切っている。
外国に出れば、「ジャングル」が待ち受けているのだ。だからあえて言うが、若者はどうか世界に飛び出してほしい。ジャングルでのサバイバル法を学ばなければ、日本はますます世界から浮いて孤立することになる。「素晴らしくて孤独な国」という道を選ぶというのであれば別だが。

日本人の同期することへのどん欲さ

日本のCDの発売日はほぼ水曜日だ。なぜならオリコンの週間集計が火曜から次の月曜になっているからだ。CDは発売日前日火曜から店頭に並ぶので、水曜日を発売日とすることで、週間集計数が最も高くなり、チャートがより上位になる。
この作戦が成功している理由には経験的な前提があるだろう。まず日本では特に発売1週目にCDがよく売れるという現象だ。1週目で決まってしまうといってもよい。そして1週目を高くすることで宣伝となり2週目も高くなる。たとえばアメリカでも人気アーティストの話題作が1週目から高いチャートになることはあるが、基本的には発売後にラジオなどで流れ、人々に認知されることで売れる。
ここから分かるのは日本人の「あたらしもの好き」、ということだけではなく「同期すること」への欲求の強さだろう。発売日とは誰にとっても発売日であり、そこにカウントダウンが生まれる。この時間的な同期によって「みんながほしいものが手に入る」ということがもっとも実感できるようになるわけだ。このような流行ものによる「同期への欲求」はどの国でもあるだろうが、CDの購買の例からわかるように日本人ほどどん欲な人々はいないだろう。
このような日本人の「同期への欲求」の例として、他に上げられるのが家電製品のモデルチェンジである。日本ほど頻繁に家電製品のモデルチェンジが行われる国はないだろう。頻繁にモデルチェンジが行われる理由の一つは日本人の同期への強い欲求である。モデルチェンジのたびに時間がリセットされ再スタートされることで、同期が生み出され再度購買欲がかきたてる、という日本人用のマーケティング戦略である。
欧米では、冷蔵庫はたくさんはいる、よく冷えるというシンプルなものが売れる。それに対して、日本で販売される冷蔵庫はモデルチェンジが年輪のように積み重なった多機能な製品である。だからそれを海外で販売しても受け入れられない。
このよう日本の独自の閉じた進化の促進は「ガラパゴス化」と言われる。すなわち日本のガラパゴス製品とは、日本人の「同期への欲求」を満たすための血と汗の努力によって進化促進した形跡である。このような日本人の「同期への欲求」こそが日本人の勤勉さであり、世界的に優秀で高度な産業国家を生み出した原動力である。
同期への欲求の例として消費を例に挙げたが、生産においても同期への欲求は強く働いている。たとえば日本人の技術開発は独創的なものよりも改善的なものが得意と言われる。日本の技術開発を先導しているのは大手企業群である。彼らは同期への欲求の強い日本人消費者をターゲットにしつつ、他社を横目に開発競争を展開している。だからモデルチェンジ製品はどこも似たような製品が同じタイミングで投入される。このような運動が日本という閉じた領域でのガラパゴス化を生み出している。
またガラパゴス化は、冷蔵庫なら冷やすという目的超えて手段そのものが目的化する。独自に規律化していく傾向はスノビズムな傾向ともいえるだろう。その意味でとても日本人的であり、現代日本人の行動原理のすべてに及んでいると言っていいだろう。
なぜこれほど日本人の「同期への欲求」は強いのか。同期できるハイコンテクストな環境があるから同期してしまう、ということだろう。

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日本人の習慣の破れに対する強迫性

ファーストフードではみなが淡々と注文し食事をしているが、たまにお年寄りが必死に店員と交渉しているのを見かける。はじめてなのか、注文のシステム自体を知らずに恥ずかしそうに懸命に注文している。しかしこのような場面は誰にでもあるだろう。初めての手続きに慣れなく回りから浮いていることが恥ずかしい。
日本人にとって習慣で処理できないこと、始めての場面に出くわしてフリーズしてしまうこと、は恐怖である。それは日本人でなくても恐怖だろうが、多くを習慣で処理できるハイコンテクストな社会を生きている日本人にはなおさら強迫的な恐怖である。
外国人は多かれ少なかれ異文化が身近にあり生まれながらに「習慣の破れ」を経験する。そして対処方法も訓練として身につけている。習慣の破れをいかに乗り越えるかといえば、簡単に言えば開き直りの自己主張しかない。そのために西洋人は笑顔と交えた社交性の技術を身につけている。
ハイコンテクストな社会を生き、習慣の破れに慣れていない日本人は慣れずキョドってしまう。自らを主張するとは慣習を越えて自らを曝け出すことであり、日本人にはとても不慣れな技術である。
日本人の高度な商品文化はクールジャパンとして有名である。生活の細部にわたるまで行き届いた商品群や、痒いところに手が届くようなサービス。粗雑、適当なサービスで生活する外国人には驚きである。これはまさに日本人の習慣の破れへの強迫的な恐怖心の裏返しではないだろうか。日本人は社会を習慣で満たすように懸命なのである。
 日本とは「舗装された道」が張り巡らされたようなものだ。それによって足下気にせずに習慣で歩ける。それに対して、海外にはいろんな道があって足下に気をつけながら歩かなければならない。
それでも西洋人は段差を歩く技術を身につけている。それに対して日本人は転げても仕方がないという開き直りことができず、転けることが恥なのである。だから懸命に道路を舗装しようとしているのだ。
日本人が資本主義世界で成功しえた理由のひとつ、特に近年の消費中心社会での成功は、資本主義の成功が習慣の断絶を回避する方法であるからだ。慣習の破れへの強迫性が必要以上に商品を高度に発達させる原動力になり、内需を成長させてきた。
日本のガラパゴス化と言われる現象もここからきている。日本製品特有の過剰な多機能性は「舗装された道」への強迫性である。だから海外製品に比べて日本製品は病的であり、海外で売れるわけがなく、ガラパゴス化することになる。

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他者回避という社会依存

しかし最近、内需が閉塞しているのはなぜか。経済の停滞だけでは説明できないだろう。その特徴の一つが「若者の〜離れ」に現れている。日本の「若者の〜離れ」のポイントは、「他者回避」にあると思う。社会的な他者と交わることからくる束縛=拘束を回避したい。他者と向き合うことで生じる社会的な責任を回避したい。一人でコンビニエンスな生活、ネット上のコンビニエンスな他者との会話を気楽に楽しみたい。
このような他者回避がとても日本人的であるのは、まったく他者を回避しているわけではなく、逆に社会に深く依存することで可能になっている。西洋のように、異文化の「他者」が身近にいて習慣が分断されている社会で、他者を回避することは、他者がなにを考えているかわからず、とても恐ろしいものになる。たとえば日本人は黒人がそばにいるだけで違和感を感じる。安心するためには積極的に社交するしかない。解り合えるということではなく、社交として安心を確認しあう。たとえば米国でエレベーターで一緒になると笑顔を交わし、安全を確認し合うようなことだ。逆に日本人のように無表情でいるのは西洋人には恐怖に感じる。だから多民族の西洋では日本的な他者回避は難しい。
日本人の若者の他者回避、必要以上に干渉しないで欲しいという関係は、真に他者と関係を絶つことではなく、日本人のハイコンテクスト、高い習慣の同期性によって可能になる。そしてそこにはある程度のお金さえあれば一人で生きられる「コンビニエンスな」十分に成熟した消費文化がある。

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日本人に甘えが氾濫する

オタクのアイドルへの熱狂を見ていると、人の「愛したいという欲求」の強さがわかる。人は愛されたい欲求より愛したい欲求が強いんじゃないか。心底誰かに愛されるより心底愛せる人を見いだすほうが幸せですからね。たとえば宗教心しかり。
そもそも人を愛することは簡単なことではない。愛することは贈与することであり、贈与することには相手に返礼の義務を負わせる抑圧として働く。たとえば親しく人に高額な贈り物をもらうことを躊躇するのはそのためだ。ただほど高いものはない。そこに心理的は負債義務が発生しいつまでも負い目を感じる。あるいは有名なところではモースなどの未開社会分析では権力者が返せないほどの富を贈与することで権力を保持する方法がある。
では現代の愛することの困難とはなにか。二面性を考える必要があるだろう。一つは自由を尊重する現代では、子供であっても個人を尊重することが求められる。過剰な他者への干渉はさけられて、他者に対しては無関心であることが一つの儀礼である。
さらにもう一つの面として、「愛したい欲求」そのものが加速されているのではないだろうか。それは特に日本において顕著なように思える。誰もが必死に愛を注げる対象を探している。国民が総難民化して子供への過剰な愛情、アイドルへ殺到、ペットを溺愛、韓流へ、遼くんへと殺到する・・・

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「甘えの構造」と礼儀

土居健郎「甘えの構造」によると、日本人のキーワードは「甘え」にあるということだ。しかし本書での「甘え」の使い方はかなり広義である。幼児の甘えとともに、義理人情などの日本人の慣習も甘えがあると考える。しかしこれは一面で正しいが、一面で正しくないと思う。土居健郎精神科医である故に、甘えを心理的なものへと偏りってとらえ過ぎている。
 心理的な「甘え」=依存性は簡単には母の子供への想いである。母の愛は幼児ならば良いが、大人になって母が愛したい想いを抑止しなければ、子供は大人になれず社会秩序に参入できない。しかし「甘えの構造」でいう広義の「甘え」とは、単に依存的な「甘え」ではない。
日本人の特徴はハイコンテクストな社会ということにある。ハイコンテクストな社会とは強力な同調引力を持った振動圏といえる。このような同調引力はたしかに容易に心理的な「甘え」に転倒しやすい。しかし同調引力は心理的である前に行為的である。行為的な同調引力とは、たとえば協力して作業を行う場合の「息が合う」ということだ。日本人はこのような同調引力を単に心理的な甘えへ転倒しないように、反復訓練の中で様式化して、義理人情、忠義、お歳暮、年賀状などの社会的な礼儀にまで磨き上げた。日本人社会はこのような規律によって秩序立てて、円滑に運用されてきた。

甘えという語が日本語に特有なものでありながら、本来人間一般に共通な心理的現象を表わしているという事実は、日本人にとってこの心理が非常に身近なものであることを示すとともに、日本の社会構造もまたこのような心理を許容するようにできあがっていることを示している。いいかえれば甘えは日本人の精神構造を理解するための鍵概念となるばかりではなく、日本の社会構造を理解するための鍵概念となるということができる。P45
「「甘え」の構造」 土居 健郎 (ISBN:4335651295

義理も人情も甘えに深く根ざしている。要約すれば、人情を強調することは、甘えを肯定することであり、相手の甘えに対する感受性を奨励することである。これにひきかえ義理を強調することは、甘えによって結ばれた人間関係の維持を賞揚することである。甘えという言葉を依存性というより抽象的な言葉におきかえると、人情は依存性を歓迎し、義理は人々を依存的な関係に縛るということもできる。義理人情が支配的なモラルであった日本の社会はかくして甘えの瀰漫(びまん)した世界であったといって過言ではないのである。
恩という概念と義理との関係を考察してみよう。「一宿一飯の恩」というように、恩というのはひとかけらの情け(人情)を受けることを意味するが、してみると恩は義理が成立する契機となるものである。いいかえれば恩という場合は恩恵をうけることによって一種の心理的負債が生ずることをいうのであり、義理という場合は恩を契機として相互扶助の関係が成立することをいうのである。P54-56
「「甘え」の構造」 土居 健郎 (ISBN:4335651295

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礼儀が崩れて日本人に甘えが氾濫する

資本主義の産業化は技の集積であるから、日本人のハイコンテクスト=同調引力は生産性向上のために有用に働いた。効率重視の新たな様式を生み出され、技術立国としての成功に導いた。しかし貨幣交換を基本とした資本主義化によって、義理人情などの旧来の礼儀様式は解体されて行かざるをえない。
このような旧来の解体と、効率重視に再編されることによって、ハイコンテクストな日本社会の同調引力は心理的な甘えへと転倒されているのではないだろうか。
そして人びとは幼児化し、また「愛したい想い」への抑止が解放される。といっても、個人を重視する現代に子供にでも安易に「愛したい想い」をぶつけることはできない。だから現代の日本人は絶えず「愛したい想い」を自制し続けなければならない。
困っている人がいる。その苦しみがよくわかる。自分なら助けることができる。しかし助けることが抑止される。という複雑な状況におかれる。その回避方法として溺愛してもよい疑似対象が強く求められる。そこにアイドル、ペットなどの様々な商品が生まれている。オレオレ詐欺になぜにあんなに簡単に騙されるのかと思ってしまう。オレオレ詐欺現代日本人の抑圧された「愛したい想い」をうまく利用しているからだろう。
ちなみにローコンテクストな西洋社会では資本主義と並列に民主主義が訓練される。幼児の依存的な甘えは「去勢」されて、社会の中に自立した主体となるプログラムが組まれている。ハイコンテクストな社会=同調引力によって社会秩序を形成する日本人には、西洋的な民主主義のプログラムは遠いものだ。

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5 超ハイウェイ社会

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日本人の「ハイウェイ社会」とスノビズム

 日本人は雑学好きだ。知識とは目的のために体系化され、目的のための手段として学ぶ。しかし雑学は体系化されずただ散らばった知であり何に役立つものではない。西洋人からすると日本人の雑学好きの意味がわらないだけでなく、オタクでカッコ悪いものにうつるらしい。
 アメリカ人もくだらないこと好きだか、いつもどこかジョークであることを担保している。日本人はマジである。日本では雑学は一つの文化になっている。特徴的なのがクイズである。高校、大学にはクイズクラブがあり、日夜雑学を磨き続け、テレビ番組になるなどいくつも全国大会がある。
 手段は目的のためにある。しかし手段そのものを目的として一つの様式とするのがスノビズムである。そもそも日本人はスノビズム性が高いようだ。たとえば古くは武士道、茶道など。現代でも日本では「手段の目的化」が日常的に行われている。
 またスノビズムとは大局に関係しない細部にこだわることでもある。より細部へとマニアックに追求する。このような特性はもはや総オタク時代とも言われる現代日本人の特徴と言えるだろう。
 日本人がなぜスノビズムへ向かうのかは、ハイコンテクストな社会が一因としてあるだろう。同期しやすい日本人は誰かが何かをはじめると、同期して隣の誰かもはじめる。するとそとに競争が生まれる。他者よりも少しでも先へと「差異化の運動」が生まれる。やがて広がり反復されることで様式化され、文化へと成熟していく。
 日本人はハイコンテクストな「ハイウェイ社会」を生きている。みなが単一の価値を共有し、その価値で円滑に進行できるように社会環境が整備されている。だから日本に住む限りハイウェイのように鼻歌まじりに生活できる。海外では生活圏を抜けるととたんに多様な見知らぬ価値に出くわし、限界状況につまずいてしまう、いわば凸凹道である。だから回りに気を配り、鼻歌まじりに生活するわけにはいかない。
 多文化でローコンテクストな社会では、まず同期してもらうのに苦労する。しかし日本では同期は一つの基礎地盤であり比較的少ない労力で行われる。むしろ同期が基礎であるためにそれだけでは物足りない。ハイウェイでは誰もがどこに向かうだけでなく、ちんたら走るのが退屈でとばして競争してみたくなるものだろう。そして走るという手段が目的になる。
 さらに日本の「ハイウェイ」は近代化、特に資本主義経済においてよく機能した。日本人の差異化運動は西洋近代化の知識の吸収にどん欲に働き、瞬く間に日本を西洋に並び立つ近代国家へと成長させる原動力となった。現代では、ハイウェイは経済的な効率化、合理化によって強化され、日本は技術、情報、消費の発達において人類史にかつてないほど「超ハイウェイ社会」を実現している。

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