なぜロックジャズは語れないのか

pikarrr2015-09-22

1 なぜボクはFunkJazzが好きなのか

音楽の難易度


 童謡
 ポップス
 ロック
 ソウル
→インスツルメンタルの壁
 ジャズ
 クラッシック
 現代音楽

童謡を聞かされると退屈なのは単調だからですね。音楽に求めるものが身体の快感ならば、フロー理論が適用できる。7割の予定調査と3割の予測不能。難解さとは、7割の予定調和に関係する。リズム、メロディ、楽器構成など反復体験すればより複雑なものを求めるようになる。

何を予定調和、予測不可能と考えるかは人それぞれだ。あくまでイメージだが、ボクの場合は、SoulMusicが比較的予定調和でジャズが予測不能ということだろう。特に歌詞のある音楽は聞きやすい。歌詞を主としてとらえることができる。ただし音楽の自由度は減る。歌詞はアドリブを入れにくい。声でも歌詞がなければ楽器のように自由度は増す。

FunkyJazz、AcidJazz、ClubJazzなどの最近の「Jazz」の意味は、Jazzという音楽ジャンルよりも、ロック、ソウルの歌詞中心を離れて楽器中心へという意味がある。歌が入ってもそれはあくまで副な存在である。そして楽器中心にすることでアドリブを入れることが容易になり、自由度が増す。ボクの場合、歌詞と主旋律は予定調和になっていて、そこにJazz、すなわち楽器によるアドリブが入ることで予定調和が生まれる。それが気持ちがよい。



ボクの好きなロックジャズ


★Down to the Bone - EFG London Jazz Festival 2013
https://www.youtube.com/watch?v=0m84V2KKMHQ&list=PLLVD7cXeKoq80PuJ5SKW5IzHh5Wc6i39K
Stevie Wonder - Higher Ground (Live)
https://youtu.be/QnbdXWvmysg
恋するフォーチュンクッキー / AKB48
https://youtu.be/dFf4AgBNR1E
Brecker Brothers Live In Barcelona - Some Skunk Funk
https://youtu.be/UIGsSLCoIhM
★the Jimi Hendrix Experience - Stone Free, Purple Haze and Hey Joe. German TV BEAT BEAT BEAT,1967
https://youtu.be/tSJbuqkptpQ
★THE BRAND NEW HEAVIES - Never Stop
https://youtu.be/iyRPfK-U0Oc
Soulive - Steppin' @ Brooklyn Bowl - Bowlive 5 - Night 6 - 3/20/14
https://youtu.be/DkrSOv6DFV8
Jazzanova Renumber Ian Pooley - What's Your Number
https://youtu.be/ACgZCZFD6nY
★SMOKEYROBINSON & the Miracles- I second that emotion
https://youtu.be/KI_0tQdEA5k
★Prince & The New Power Generation Perform 'Mutiny'
https://youtu.be/TMps1ue_024
★NICK PRIDE & the PIMPTONES - Come & Get It
https://www.youtube.com/watch?v=mJbSPrJ_mbU&list=RDmJbSPrJ_mbU#t=0
Michael Jackson - Jam Live at Royal Concert in Brunei *Best Quality*
https://www.youtube.com/watch?v=XC2Q6md9onA




2 ユダヤ教キリスト教黒人霊歌(賛美歌)→ロックジャズ


ロックでもジャズでもよいが、元は黒人霊歌から来ている。根底にあるのが、黒人のもつプリミティブな躍動感、そして精神性としては奴隷としての苦しみ、恨み、反発しての情熱。いまもロックジャズの根底にこれらは維持されている。

現代人はなにがそんなに溜まっているのか。ロックジャズはストレス解放、リラックスに働いている。ジャズにしろ、ロックにしろ、最初はモラルを問題にされた。あまりに熱く情熱的で、それは公共で表現されるには私的すぎた。逆にそんな保守的なモラルへの反動の意味がロックジャズには込められた。

現代人は、自由と平等を手に入れた代わりに孤独だ。マクロ思考世界では、自らがマクロ全体の1単位であることが倫理として求められる。絶えず周りの空気を読み、互いにプライバシーを守り合うというギリギリのセンシティブな日常を生きる。また労働では、マルクスの疎外がある。かつての農業では自らが生産手段を持ち、全体に自らがたずさわり生産の充実をえた。しかし資本主義では生産全体の一部を担うだけで全体を知らないし、労働力を売っているだけで生産の主体でもない。

初期のキリスト教の普及にもこれに近いものがあったのでないだろうか。キリスト教は、ユダヤ教の一派閥として始まる。ユダヤ人は砂漠の民である。その時代ほとんどの民が土地に根ざした農民であり、そして生活に埋め込まれた宗教というには素朴な自然信仰であったが、ユダヤ人は土地に定着せず物を売り歩き生計を立てた。そしてユダヤ人は、土地がないために、離れても維持される一神との契約という強い宗教を生み出す。

その後、ユダヤ教の一派閥としてキリスト教が生まれた。キリスト教が普及したのは、ユダヤ人でない都市層の人々や奴隷たちだった。アレクサンドルの遠征のあとに生まれたヘレニズムなコスモポリタンな人々は、土着な文化から切り離され、自由な反面、孤独であった。キリスト教は彼らを中心に広まっていった。

旧約聖書はいつできたのか。いろいろ議論はあるが、様々な時代に書かれたものが編集されているが、その精神性が明確になるのはユダヤ人のバビロン囚捕のあとである。そこにあるのはユダヤ人霊歌、ブルースである。さらに新約聖書はキリスト霊歌、ブルースである。それが土着から切り離された都市部商人や、奴隷たちに響いた。

そして黒人霊歌とはキリスト教に改宗した黒人が神に向けて歌った歌である。そこにはユダヤ人から流れるブルースの系譜がある。ロックジャズは体制批判からラブ&ピース!と楽観的な左派に振れやすい。しかし統治技術としては体制を維持するために人々の嘆き、ストレスを発散する装置を担っている。町にあふれるロックジャズは、現代の自由平等を生きる人々の嘆きのブルースである。当然、演歌もハイカラな洋楽ブルースである。




3 なぜ音楽は語れないのか


人の客観的な分析は無時間性で行われる。流れる時間を止めて観察する。この思考の特徴を表す有名なものが「アキレスのバラドクス」だ。客観的な分析は一見、連続性で考えられているようであるが、場面を切り取り切り取り、分析しているためにあのようなパロディがおこる。しかしあれが音楽だったらどうだろうか。無時間の中では音は何ものでもない。音は流れてこそ音だ。決して時間の流れから切り離せない音楽は決して客観的には語れない。

かといって、人が音楽のすばらしさを理解できないことではない。脳科学的に言えば客観的観察系の無時間の認識と、時間が流れる運動系の認識は使う脳の場所が違う。視覚は主に客観的観察系の認識につながり、聴覚は運動系の認識につながる。

そして人は近代まで運動系の認識が発達していた。視覚より聴覚の方が重要であった。近代に視覚重視にがらっと変わった。簡単に言えば、運動系の認識の時間依存は効率が悪いからだ。何か知識を学ぶ場合に、本を見て読んで学ぶのと、聞いて学ぶことを比べれば、聞く場合は理解度にかかわらず音が流れる時間に拘束される。だから近代教育は客観的観察系の認識が重視される。

しかしここで転倒が起こっている。観察系の認識による視覚的、客観的、そして言語的な知識が高等、真の知識であり、運動系の聴覚的、感覚的、音楽的知識は、低級な娯楽であると。運動系の知は繰り返し繰り返しの反復で体に叩き込まなければならない。時間がかかるし面倒だ。

現代は効率化から視覚情報に溢れ、瞬間の理解を求めるように押し寄せている。そんな中、音楽という運動系の知識は理解しろと強迫せず、やさしく語りかけてくれる。ただし人気がある音楽には歌詞がある。もはや人の運動系の感性は退化し、歌詞という観察系のガイドがなければ、感じることができない不感症になっている。

だから歌詞がない音楽を感じるには訓練が必要だ。それは現代のセックスとも近いかもしれない。セックスの気持ちよさも運動系であり、ジャズのように気持ちよくなる訓練が必要だ。AVを見て、AVと同じようなことを自分がしていることで興奮するのはまったく観察系で、視覚的で、本当の気持ちよさではない。童貞を卒業する、ABCの段階を踏むなどは全くの観察系で、歌詞を頼りに音楽を楽しむ歌謡曲のようなものだ。運動系を感性を訓練して野生を目覚めさせる。そこに真の快感がある。




4 なぜ日本人には哲学もロックジャズも青春小説の1ジャンルなのか

http://www.geocities.jp/deepbreathinghp/katarienu.htm

これをウィトゲンシュタイン的にいうと「われわれは語り得るものしか語ることができない。つまり、言語で語り得ることしか知ることができない」ということになります。そして彼の有名なマキシム「語りえぬものについては、沈黙しなければならない Whereof we cannot speak, thereof we
must be silent.」が示されるわけです。つまりわれわれが「神」を言説化しようとしても、それはわれわれが言語で神を語り得る範囲を決して超越することはできない(つまり、究極的な同語反復の範囲を決して超えることはできない)。しかし形而上学の問題は、それをごまかしていることである、と。

語りえないものを語り得ると思い込み、言葉を尽くし何かを得ようと試みるのが、形而上学(もっといえば、倫理・宗教・芸術)である、と。ウィトゲンシュタインとしては、そのような「言説化」に対しては「沈黙」しなければならないというのです。ただし、これは哲学的試みを完全に否
定するものではありません。むしろ、ウィトゲンシュタインの主張するところは、哲学のもつ役割を変えなければならないということを意味します。「語りえないことを無理に語りつくす」のが哲学の役割ではなく、「何が語り得ることであり、何が語り得ないかを明確にしていく」こと、この行為と探求自体が哲学が本来担うべき役割であると提唱するわけです。

ヒューム以来、哲学とは限界の思想である。すなわち語り得るものと語り得ぬものの限界を見極めること、それが倫理であり、哲学の存在意義である。

ユダヤ教は土地から切り離されて散らばる民を言葉(契約)により繋いだ。キリスト教はこの方法を取り入れるユダヤ人以外に展開することで、商業化して増えていく土地から切り離された人々を次々に吸収していった。しかしこの方法には厳密に言葉の意味を問うという病を抱え込んだ。そしてキリスト教から解放されたように見える哲学もまったくその構造は変わらない。キリスト教神秘主義を排除して、より厳密に意味を求めようということで、むしろ病は悪化している。

日本人にとって哲学とは、青春小説の1ジャンルでしかないので、このような差し迫った緊張感はまったく理解できない。日本人はこんな限界なくとも生きていける。ロックジャズも、日本では青春小説の1ジャンルの面が強い。これは哲学とも関係する。哲学にも求められる限界という日常の緊張感と、それを緩和するロックジャズはバランスをとっている面がある。だからむしろ大人ほど差し迫ったものとなる。だから西洋ではロックジャズは年齢に関係なく、空気のようにあって当たり前のものだ。

しかし日本人にとってこのような限界は生物学的な思春期にしかない。だからロックジャズや哲学は青春小説の1ジャンルとして受容される面が大きい。では大人の日本人には限界はないのか。彼らがのんきな馬鹿なわけではない。日本人には儒教がある。儒教というと拒絶反応があるかもしれない。中国仏教、すなわち儒教化された仏教がある。だから限界なんて病でなやむ前に、礼がある。礼を身につけているのでいわば線路みたいなもので、悩まずとも駅に到着する。

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