日本人の慈悲エコノミー論

pikarrr2016-01-08


1 資本主義経済と3つの交換様式
2 日本人の慈悲のエコノミー
3 慈悲のエコノミーが格差を緩和する
4 IT産業における慈悲エコノミーの弊害



1 資本主義経済と3つの交換様式



1−1)3つの価値交換様式  互酬(贈与と返礼)、再分配、等価交換


まず価値交換の経済学について説明する。価値交換の様式には大きく3つあると言われる。互酬(贈与と返礼)、再分配、等価交換だ。この中でもっとも交換の基本になるのは贈与交換である。等価交換は価値が同じものを交換することだが、何をもって価値が同じとするか、難儀がある。等価とはなにか?たとえば現在の等価は需要と供給のバランスとしての市場価格で決まるなどと言われているが、かなり大がかりな仕掛けだ。欧州では地域連動した物価は14世紀頃からあると言われている。

基本は互いに必要なものを必要なときに交換しあうのが必要だ。たとえば資本主義経済前の農業社会では、人々は土地に埋め込まれていて周りは顔見知りだ。基本は自給自足で困ったときに助け合う。このような場合には贈与交換が働く。贈与交換とは貸し借りだ。交換の価値は非対称で、返礼の時期も問わず、清算することはなく、どちらかが儲けることがない。。逆に清算してしまうと失礼となる。贈与交換は長期的な信頼関係を支えているので清算すると関係を切ることを意味する。それもあって農業社会では商人は嫌われていた。彼らは共同体に等価交換を持ち込む。すなわち利潤を持ち込む。

農業社会では、贈与交換とともに再分配が行われている。再分配とはいまでいう税金だ。みんなから金を集めて公共的事業に支出する。実際は農業社会では階級社会であり、集められた金に権力が巣くうことで搾取されるわけだが、公共事業費として支出されていたことも確かである。




1−2)農業生産→重商主義重農主義自由主義


農業社会では等価交換は都市部を中心に行われていた。土地から離れた見知らぬ人たちが集まる場では、贈与交換しても見返りがある保証はなく危険であり、等価交換ならばその場限りの清算になる。農業社会は自給自足、再分配、贈与交換が主で、全体に占める等価交換の比率はわずかだ。しかし等価交換もまた必要なものではあった。山の人は海のものを海の人は山のものを求めるからだ。この知らないもの同士、すなわち共同体間の交換を仲立ちするのが商人であり貨幣だ。

農業社会で金持ちと言えば、やはり地主(土地持ち)だろう。再分配によって農業生産から金を吸い上げる。そのような経済の潮目が変わるのが、大航海時代の遠洋貿易後だ。等価交換が地域の山と海の交換から、遥か海を越えた交易となり、商品の希少価値が向上し、交易額は飛躍的に向上する。商品等価交換は途端に、土地からの収益(再分配)より大きな利益を生むようになる。

その流れが、農業生産→重商主義重農主義自由主義だ。単に商品を交換する重商主義から、国内の生産物を重視した交易へ転換していき、さらに生産性を向上する分業による工業化として自由主義へ向かった。これによって経済規模は飛躍的に向上していった。そして農業経済から資本主義経済へ移行した。人々は効率的な分業体制に組み込まれて、労働力を売り賃金をもらう。賃金と商品等価交換して、生活品を手に入れる。こうして商品等価交換が社会の中心となる。




1−3)資本とは時間延滞した等価交換


ただしここで重要なことは資本とは何か、ということだ。資本はたんに金ではなく、金を生むために活用される金のことだ。等価交換は瞬時に清算するといったが、資本は違う。原理的に言えば、資本は時間延滞した等価交換と言える。その場で等価交換せず、一方が交換を延滞する。すなわち借りる。そのかわり返すときに利子が付く。なぜ利子が付くのかの一つの説明は、贈与交換と違い相手は見ず知らずの他人だから返ってこないリスクがある。その埋め合わせとも言える。

その場で清算されなくても、延滞時間、利子など明確な契約により擬似的な等価交換が成立する。資本主義とはこのような資本の力で多くの人が大きな金を借りて動かせるようになり、経済活動が活発化して発展した。




1−4)なぜ資本主義経済と近代国家が同時に立ち上がったのか 贈与交換は雑草、等価交換は温室栽培


贈与交換は、相手との信頼関係が重要で、だれでもかれでも交換しない。それに対して等価交換のよいところは、金さえ持っていれば相手を選ばないことだ。同じ価値を持っていれば、誰だろうが安いものが選ばれる。この自由競争の原理が自由と平等を生み経済を活性化して、自由主義経済を支えている。

しかし資本の場合、特に金が大きくなればなるほど、貸す相手が本当に返せるのかという「信用」を判断することが重要になる。「自由と平等に信用を評価する」ことはとても難しい問題だ。その場その場で見ず知らずの人と交換し精算することはリスクが伴う。また自由な競争では一回一回の勝負の博打であり、今日勝てても明日勝てる補償はない。

だから自由な競争をできるだけ回避して、何らかのコネクションを頼りに競争を優位に進めたいと考える。ここで金ピカの等価交換が贈与交換に変色する。実際は勝ち組同士が手を組むことが多いだろう。自由競争ができレースになり、互いに融通しあう。権力がなぜ必ず腐敗するのかの理由の一つがここにある。

贈与交換は仲間をつくるというレベルで働く雑草のような強さがある。それに対して等価交換は契約に守られなければ実現しない。そして契約の実行には国家権力のような強い統制がいる、という温室栽培のような弱い交換方式だ。なぜ資本主義経済と近代国家が同時に立ち上がったのかの理由の一つがここにあるだろう。等価交換による自由競争を実現するには強い国家が必要だ。

現に資本主義が十分機能していない途上国で問題になるのが、政治家など権力者の贈収賄だ。リスキーな自由競争を迂回し、権力を使って卑近な関係者に便宜をはかり、利益をえる。すなわち贈与交換の浸食だ。このために自由と平等を実行するには法の整備だけでなく、国民を教育し、法を徹底的して実施する強い国家、あるいは国家群が必要になる。



2 日本人の慈悲のエコノミー



2−1)贈与交換の円環


三つの交換様式について説明したが、実は先の説明は大きな前提がある。すでに交換し合う財をもつ主体が想定されている。そして主体と主体間で等価交換は完結する。しかし所有権もまた主体も、基本的には近代の発明である。すなわ等価交換が生み出した産物である。逆に言えば等価交換が、所有権と交換する主体を生み出した。だから近代以前の贈与交換を中心とした社会においては、所有権も主体も曖昧であり、異なる社会形態を考える必要がある。

たとえば贈与交換の発見は、モースの「贈与論」をはじめ、未開社会の分析においてである。農業社会以前の社会であるのは、農業社会においては富が生まれて階級が生まれて、王が富を集め、分配する「再配分」が起動する。

このような未開社会の贈与交換は、モース、レビィ=ストロースなど、円環の比喩によって全体として調和をもった交換構造が指摘されている。贈与を受けた者は負債感を感じ、返礼として誰かに繰り返す。そしてさらに贈与を受けた者はまた誰かに返礼するということで、全体として円環の構造が生まれている。

さらにこの美しい円環の駆動因としてデリダは外部からの純粋贈与の存在を指摘する。たとえば自然の恵み(純粋贈与)は見返りなく「贈与」される。これを受けた者は(天に返すことができないので)それを独占するのではなく、誰かに送り返す。これは天災(純粋暴力)の場合も負債を受けた者に対して誰かが援助することもあるだろう。そのようにして全体として交換の円環が駆動する。これほど美しく駆動するかは疑問であるが、自然に埋め込まれて生きる集団の生存のリスク分散の自然な知恵とも言える。そこでは一時的に富を独占することに価値はない。




2−2)慈悲と贈与交換


仏教の慈悲は究極的には純粋贈与に近い。悟りを開いた者=仏は空(無我無法)の境地に達して、無常、皆苦から生きとし生けるものものへ深い慈しみを持って、見返りなく人々へ「贈与」する。これはあたかも天の恵みのようである。また悟りを開くことは仏の領域であり簡単にできないが、そこまで行かなくても仏教に帰依する者は自分なりの慈悲を作動させる。

慈の所縁は一切の衆生なり。父母妻子親族を縁ずるがごとし、この義を以ての故に名付けて衆生を縁とする[慈]という。法を縁とする[慈]とは、父母妻子親族を見ず、一切法は皆縁より生ずると見る、これを法を縁とする[慈]と名づく。無縁の[慈]とは法相および衆生相に住せず、これを無縁と名づく。

大般涅槃経


仏の「無縁の慈悲」に達していなくとも、「衆生を縁とする慈悲」として親族など身近な者へと無償の慈悲、さらには「法を縁とする慈悲」としてより広い人々へと無償の慈悲へ展開。これは先の未開社会の贈与の円環に近いのではないだろうか。ただし未開社会の贈与の円環の範囲の射程がかなり小さな集団に限られているのに対して、慈悲の円環は生きとし生けるものもの、また生死を超えた輪廻と、限りなく広い。贈与交換が信頼関係を担保にするために顔見知りの集団内で行われるのに対して、慈悲は原理的には卑近な信頼関係にこだわることを解体して、より広い範囲へと展開する。たとえば日本語では、お米、お箸、お金などモノに敬語を使う世界的にも珍しい現象がある。これはすべてのものを慈しむ日本人の慈悲の精神が表れていると言われる。




2−3)クールジャパンの思いやり


正月にNHKBSで「クールジャパン」の特番を行っていた。そこでサウジアラビアで、日本人の思いやりを紹介するテレビ番組が人気を博しているという話題があった。その例として、ガソリンスタンドの給油の際に車が汚れないような様々な小さな配慮が行われることや、デパートで店員がお辞儀をすること、公園でお菓子をこぼした場合に拾い集めて後片付けをするなど、日本人には当たり前のことが驚きをもって紹介されていた。番組に出演していた世界中の人たちも日本人の思いやりの特徴として感心していた。

海外の多くの国では、より合理的に行為が行われる。ガソリンスタンドは給油することが目的でそれ上ではない。店員は客に物を売るのが仕事で頭を下げる必要はない、公園の清掃は業者がやることが当たり前だ。サウジアラビアではこの番組で紹介された日本の小学校で小学生が自らで教室の掃除することが道徳教育として紹介されて、現在300校で取り入れられはじめたという。

ボクも前々から気になっていることがある。たとえば東京駅で新幹線を降りた場合に出口は2種類ある。一つは直接、駅の外へ出る改札口、もう一つは在来線へ乗り換えるための改札口だ。直接、駅の外へ出る場合は切符を自動改札に入れて出ればよいが、在来線への乗り換えの場合には、自動改札で特急券は回収されるが乗車券は受け取る必要がある。しかし乗車券を取らないでそのまま改札を出る人が多いのだろう。いつも自動改札の出口に職員が立って、乗車券を受け取るようにさけび続けている。最新の自動改札であるにも関わらず、人海戦術で叫び続けている光景は不思議だ。こんなことは海外でもあるのだろうか。海外だと取り忘れは自己責任だと放置されるのではないだろうか。特に若い職員が声を張り上げているが、海外ならこんなことのために入社したんじゃなきとブチぎれそうだ。

外国人が感心するこの日本人の思いやりの文化に大きな影響を与えたのが仏教、すなわち慈悲の文化だろう。面白いのは日本人が資本主義でも成功していることだ。いまの日本人の中心の交換様式は等価交換である。ではその中で慈悲文化はいかに作動しているのだろうか。


3 慈悲のエコノミーが格差を緩和する



3−1)西洋の「神の手」と日本人の慈悲のエコノミー


贈与は利益を生むことを目指すわけではないが、内部と外部を作り出し、内部が有利になるよう助け合い融通しあう。等価交換には内部も外部もない。合理的な主体が多数いるだけだ。そしてそれぞれの主体が自らの利益を目指して合理的な判断をする。だから資本主義において、等価交換の自由競争は厳しい故に贈与交換を呼び込む。贈与交換は小さな内部をつくり、特定の主体たちのみ有利にする。これは自由主義としては自由競争全体の活動を阻害する悪しきものだ。

たとえば日本の資本主義では慈悲はどのように働いているか。慈悲は、贈与交換に近いようだが、内部と外部がない。主体が多数いるだけだ。そしてそれぞれの主体が他の主体へ見返りのない贈与をする。大きな特徴としては、それぞれの主体が自らの利益を目指しておこなう競争を利己的なものから、社会貢献へと変換させている。しかしこれは自由主義思想の理念でもある。自由な競争は卑近では主体の利益を目指すが、また全体でみれば社会全体の豊かさを底上げし、人々を幸せにする。慈悲はこのような資本主義の理念を補完するよう作用している面がある。

ただし西洋人にとって、あくまで先行するのは主体の利益をもとめた競争だ。社会全体の底上げはそれらの結果論でしかない。だから「神の手」なのだ。それに対して、日本人の慈悲エコノミーにとっては社会全体の底上げもまた目的となる。だから特定の主体のみが豊かになること、すなわち格差を必ずしもよしとしないところがある。




3−2)日本人の慈悲のエコノミーがピケティの格差論を回避する


ここから日本人の資本主義がピケティの格差論を回避する一つの理由が浮かび上がる。ピケティによると、経済成長率以上に資本による収益率が良い。そして資本は流動性が低くい。これらのことが資本主義の格差を広げているという。すなわち富をもつ金持ちは豊かになり続け、富を持たない貧しい人が豊かになりにくい構造がある。

資本は流動性が低く、収益性がよい理由の一つとして、先にあげた資本の贈与性があるのではないだろうか。資本の信用は容易に贈与に汚染する。金持ちは金持ちで内部(贈与の円環)を作り、貧しい人を排除する。それに対して日本人の慈悲のエコノミーは一見贈与に似ていながら、円環に閉じることをよしとしない力として働く。最低でも日本人内までは開こうとする。



4 IT産業における慈悲エコノミーの弊害



4−1)日本人の慈悲のエコノミーは無形商品(サービス)を通して働く


たとえば先の例からも具体的に日本人の慈悲のエコノミーがいかに働くかと考えると、有形の商品の等価交換は比較的自由競争を重視する。しかし無形の商品であるサービスについては、日本人は等価交換の対象とせずに、慈悲のエコノミーを働かせて、社会全体への奉仕として扱う傾向が強いように思う。有形商品ではガチガチに等価交換を進め、補完的に無形商品を純粋贈与することで社会全体の底上げを進める。

このような日本人のサービス商品の純粋贈与化は、第二次産業という有形商品が等価交換の対象である場合には、よく作用したのではないだろうか。あくまで利益を得るのは有形商品の販売であり、それを補完するためにサービス商品を無償の贈与として提供する。あるいはユーザが使いやすいようにサービスとして商品の品質を向上させる。またサービスの純粋贈与化は労働者にも働く。ベタにいえばサービス残業だ。労働力と賃金の等価交換を越えて、労働者が無償労働力を贈与する。それは単に愛社精神だけではないだろう。日本人としての社会貢献が働いている。




4−2)日本人がIT産業でアメリカ人に勝てない理由


しかし現在のように第三次産業に移り、商品が無形の商品、すなわちサービス商品に移ってきたときに、問題が起こっているように思う。たとえば日本人の消費者はサービスが無償の贈与であることが当たり前になってしまっている。このためにサービス商品から適正な価格を得ることが難しくなっている。その上でIT化により商品が複雑化する中で、消費者へのサービス商品へのニーズが増して企業負荷が増えている。あるいは企業の収益が悪化する中で、労働者のサービス残業が習慣して、過剰な責任や無償の労働を強いる傾向があるなど。

このような傾向は、特にIT産業での日本企業の遅れにでているのではないだろうか。たとえばIT産業を牽引する米国企業を見ると、ソフトにバグがあるのは当たり前、だからといってアフタケアーも不十分。文化として消費者の自己責任が当たり前に認知されている。自己解決できない人は能力の低い情報弱者扱いである。あるいはサービスには対価が必要だから自らマニュアルを買って勉強する。日本人の消費者も米国企業にはそのように対処している。

米国のIT産業はこれだけサービスに対してドライで身軽だからこそ、変化の早いIT産業を推進することができるのではないだろうか。これに対して、日本の消費者は、日本の企業に対しては、商品の販売の前に品質を上げるための改善を行うことをサービスとして求め、また販売後もアフターケアとして無償のサービスを求める。このために多大な費用がかかっている。

(つづく)

<参考図書>
 貨幣と精神―生成する構造の謎 中野昌宏 ISBN:4888489785
 贈与論 マルセル・モース ISBN:4326602120
 世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて (岩波新書) 柄谷行人 ISBN:4004310016
 21世紀の資本 トマ・ピケティ ISBN:4622078767
 中村元選集21巻 大乗仏教の思想 ISBN:439331221X


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