なぜ日本人の真理は慈しみの先にあったのか 智慧の完成(般若波羅密多)

ニュートンの真理の民主化革命


この世界の真理があるとして、真理とはなにかということとともに、それが真理であるということをいかに判定するかが重要になる。古来からその方法は神の使いによって行われてきた。人知を超えた能力をもつ者がいうことが真理である。それとは別に、より客観性を持たせるための考えられたのが反復性である。真理であるなら、いかなる状況において同じことが起こるはずだ。それが論理性である。しかし論理による真理の判定は、ほとんど使われなかった。

それが一変させたのが、ニュートンである。ニュートンが論理性によって、神の領域であったはずの天体を説明したときに、論理による真理判定法が衝撃をもって人々に受け入れられた。その衝撃は、いままで神の使いという選ばれた者だけに認められた真理の発見が、誰でも可能になったことにある。真理探しに人々が殺到した。真理の民主化が起こった。




論理化する真理

論理による真理判定法とは、
1 最小の単位に還元する
2 単位間の関係性を論理的に記述する
3 反復によって真理であることを確認する


重要なことは最初にありきは、修辞(レトリック)だったということ。論理(ロジック)はかなり特殊な交換であった。近代に論理(ロジック)が全面化した。単位は単語。論理は真理である。

重要なことは最初にありきは、贈与交換だったということ。等価交換はかなり特殊な交換であった。近代に等価交換が全面化した。単位は貨幣。等価交換による自由競争は真理である。

重要なことは最初にありきは、不平等だったということ。平等はかなり特殊な交換であった。近代に平等が全面化した。単位は主体。平等は社会の最終形態=真理である。




空観 言語認識の向こうへ

「それだから 、スブ ーティ(須菩薩)よ 、求道者 ・すぐれた人々は 、とらわれない心をおこさなければならない 。何ものかにとらわれた心をおこしてはならない 。形にとらわれた心をおこしてはならない 。声や 、香りや 、味や 、触れられるものや 、心の対象 、にとらわれた心をおこしてはならない 。スブ ーティよ 、たとえば 、ここにひとりの人がいて 、 その体は整っていて大きく 、山の王 スメ ール山のようであったとするならば 、スブ ーティよ 、どう思うか 。かれの体は大きいであろうか 。 」

スブ ーティは答えた 「師よ 、それは大きいですとも 、幸ある人よ 、その体は大きいですとも 。それはなぜかというと 、師よ 、如来は 、 『 体 、体 、というがそんなものはない 』と仰せられたからです 。それだからこそ 、 〈体 〉と言われるのです 。師よ 、それは有でもなく 、また 、無でもないのです 。それだからこそ 、 〈体 〉と言われるのです 。 」

金剛般若経


仏教の「空」とは、言葉認識を離れるところに始まるだろう。言語認識の特徴は、世界を「存在」として記述することだ。たとえば有/無。無は有でないこと。有は無でないこと。空は、有でも、無(有でないこと)でもない。有無という言語認識を超えたところにある。すなわち言語認識を超える。

たとえば動物は言語を話さないが、認識としては「存在」を基本としているだろう。有でない=無はかなり高度な認識で、言語がなければ至らないだろう。だから空は植物の認識に近いのかもしれない。それは有を超えた境地である。しかし当然、空は植物の境地などではない。あえて言葉で表すこういうことかな、ということだ。

そもそも人間が言語認識を解体することは可能なのか。言語は人間のOSのようなものだ。OSが抜けたパソコンはただの箱ではないのだろうか。特に西洋ではそのように考えるだろう。精神的な病の状態であると。




言語の向こうに善はあるか?


仏教では空において智慧が完成されてる(般若波羅密多)。有無の先にあらわれるのは、清浄心であり、この世界の縁起である。この世界のすべては関係し合って成立しているということ。そして生きとし生けるものの慈しみが生まれる。言語認識の解体まではなんとなくわかるが、そのさきに精神の崩壊ではなく、「善」が立ち上がってくるという性善説は、仏教という宗教的ドグマではないだろうか。

たしかに人間の言語認識の向こうにも、身体智とでもいうべき智はあるだろう。実際は人が生活の中で多くの行為は言語認識を超えて行われている。しかしそれに善があるのか。むしろ身体の野蛮な本能のように思える。それとも言語認識の解体の仕方に仏教的なこつがあり、善へ向かうのだろうか。

たしかに人は修行においてとんでもない能力を発揮する。たとえばフラッシュ暗算などみていると、人間の潜在能力のすごさに驚かされる。あれは、頭を良くするというより、もはや運動能力に近いんだろう。身体に秘められた力。たとえば様々な苦痛は一度脳を迂回して「苦しめ!」という命令を身体にだす。ならばこの回路をコントロールするような訓練も可能なのだろう。そのようにして身体の能力を上げることで、感情をコントロールしたり、言語認識を薄めることはできるのかもしれない。




論理による真理判定法の限界


すでに論理による真理判定方法には様々な限界があることが明らかになっている。一つは、反復性によって真理を見極めると言うことは、反復しない現象では使えない。すなわち不可逆性な現象、たとえば歴史は繰り返さない。人をたくさんいるうちの一人と見た場合には反復検証は可能だが、個人のそれぞれの経験・成長による個性とみると反復されない。もう一つは、論理による記録によって反復を確認する。だから言語化できないものは対象外である。

これらのことから、かなり限定的な真理判定法であることがわかる。逆に現代の真理は、この論理による判定法によって判定される対象外は真理かどうかわからないというよりも、真実ではない臆見でしかないという扱いになる。

そしてさらには、論理による真理判定方法が、まったく普遍性がなく、単に人間が作りだしたゲームでしかないことが明らかになっている。それでも現代において論理判定法が真理を作り出しているのは、論理判定法である科学という方法によって豊かさを生み出しているという実績による。実際は、真理判定方法ではなく利便性判定方法なのだが、資本主義社会においては利便性が真理なのである。




慈しみの実践が真理を作る


そもそも空とは、言語認識の向こうなのだから、なにを言っても意味がない。そして仏教において、空に達することが目的ではない。心の平安が目的でありその結果が空である。だから実践が先行して、形而上学的な説明は事後的なものであり、完成を目指すモノでもない。だから空によって慈しみが生まれるのではなく、慈しみの実施が空というなにかを生む。

このような空への実践はまさに日本人の文化に染みついているのでないだろうか。それが西洋人からみれば日本人の特徴はジャパニズムとしての禅やわびさびなどにあらわれる。しかしこのような派手な美術ではなく、日本人は生活レベルですべてのものへの慈しみの実践が染みついている。お米、お箸、お百姓さん……そこに日本人の真理があったのだろう。

智慧の完成(般若波羅密多)のための6つの実践


1 与えること(布施 ダーナ) 積極的に他人になにものかを与えること
2 耐え忍ぶこと(忍辱 クシャーンティ)空の理を知って耐え忍ぶこと
3 努めること(精進 ヴィーリヤ)努め励むこと
4 心の統一(禅定 ディヤーナ) 心を集中して安定させること。
5 戒律を守ること(戒 シーラ) 禁戒を守ること
6 智慧の完成(智慧 プラジュニャー)先5つによって智慧を完成させること


中村元選集22巻 空の論理 ISBN:4393312228

師はこのように話し出された。
「スプーティよ、ここに、求道者の道に向かう者は、次のような心をおこさなければならない。すなわち、スプーティよ、「およそ生きもののなかまに含まれているかぎりの生きとし生けるもの、卵から生まれたもの、母胎から生まれたもの、湿気から生まれたもの、他から生まれたもの、みずから生まれ出たもの、形のあるもの、表象作用のあるもの、表象作用のないもの、表象作用があるのでもなくないのでないもの、そのほかの生きものもののなかまとして考えられるかぎり考えられた生きとし生けるものども、それらのありとあらゆるものを、わたしは、<悩みのない永遠の平安>という境地に導き入れなければならない。しかし、このように、無数の生きとし生けるものを永遠の平安に導き入れても、実はだれひとりとして永遠の平安に導き入れられたものはない」と。
それはなぜかというと、スプーティよ、もし求道者が、<生きているものという思い>をおこすとすれば、もはやかれは求道者とはいわれないからだ。それはなぜかというと、スプーティよ、だれでも<自我という思い>をおこしたり、<生きているものという思い>や、<個体という思い>や、<個人という思い>などをおこしたりするものは、もはや求道者とはいわれないからだ。」

金剛般若経