日本人の「慈悲ゲーム」の起源

pikarrr2016-02-26

仏教の活用法  祈祷、葬儀、出家


現代の日本人の多くは自らが仏教徒であると考えていない。仏教は葬式のときにお世話になるぐらいで、仏教本来の教義をあまりよくしらない。仏教の本来の目的は救済にある。しかし日本では仏教は本来の目的よりも、便利な道具として活用されてきた面が大きい。

たとえば仏教伝来以降、奈良・平安時代には主に祈祷術として活用された。日本では無念に死んだ人が怨霊として現世に災いを与えると考えていた。仏教では輪廻転生するこの世とあの世を世界として考える。このために成仏できない魂をあの世へ送ることができる新たな技術として活用された。

またあの世へアクセスする技術ということで葬儀をつかさどった。奈良・平安時代天皇など権力者が死んだ後にあの世へ送るように葬儀に活用された。さらに鎌倉時代以降に葬式仏教として庶民に広がった。

その他仏教の活用として出家がある。権力者が引退したあと、失敗した責任をとって、あるいは家督を継げなかった兄弟たちがもう権力争いに加わらない表明として、あるいは夫が死んだ後の妻などが出家し仏門に入った。出家することはこの世の積極的な活動から退くことの表明であり、そのような人々の受け皿、余剰人員のバッファー装置として機能した。




穢れ(けがれ)忌む日本人


仏教がこれら祈祷、葬儀、出家などで、日本人に活用されてきた大きな理由は、日本人の穢れ(けがれ)を忌む文化がある。日本人は皇祖信仰としての神道を清いモノとする。そのために穢れを災いを与えるモノ、そして伝染するとして排除してきた。その穢れの中で最悪のモノが死である。たとえば死期が近づいた時点でその人を家から人気のいない川原や山へ置いてくる、あるいは自ら死にに行く風習が一般的にあった。有名な「うばすて山」はその一例だろう。

弥生時代水田稲作が伝わり、日本人社会は余剰の富をえた。そしてその富を独占する権力者が表れた。これを日本の起源として語る「古事記」や「日本書紀」では、水田稲作とその日本列島への急激な普及は、日本列島に光臨した天皇の祖先として太陽神(天照大神)とその後の皇祖の日本統一神話として語られる。そしてそれ以前に日本列島にいた土着の神々と狩猟採取文化は相対化された。ここに皇祖信仰=陽とそれを相対する陰の考えが表れている。




「清浄の戒は汚染なし」


陽を扱う神道に対して、仏教は祈祷、葬儀、出家など「陰」を扱うための技術として活用されてきた。それは、宗教としての教義であるよりも、神道と相対化するかたちで日本人の慣習として組み込まれて来たのである。

仏教はあの世へ影響を与える技術として有用であったが、さらに穢れに対応する方法としては仏教の教えの核心である「慈悲」が重要であった。慈悲の清らかさが穢れを相殺する。「清浄の戒は汚染なし」という考えが、穢れを扱う正当性を担保した。

葬儀としての仏教は庶民が豊かになった鎌倉時代以降から広がり、江戸時代前に葬式仏教として国教化した。またこの時代、村の単位として、祖先から子孫へと繋がる「家」が成立するが、葬式仏教は「家」の成立を補完する役割も担ったのだろう。

本来、インド仏教には葬儀に関する技術はないが、中国で儒教と融合することで葬儀技術を発展させた。そもそも儒教は葬儀儀礼から発展したと言われる。祖先礼拝、招魂再生、そしてお墓、位牌などは儒教の葬儀儀礼が活用されている。この葬式仏教を経由した儒教の影響が日本人での「家」の形態に影響を与えたといえるだろう。




清らかさの実践としての「慈悲」


葬式仏教とともに慈悲も庶民へ広がっていく。仏教の倫理とは因果応報である。因果応報は輪廻転生する世界において、この世が終わりではなく、この世で良いことをすればあの世で良いことが帰ってくる。この世で悪いことをすれば、あの世で悪いことが帰ってくる。これは祈祷と同じように世界を死後まで拡張し得る仏教だから可能になった強力な倫理である。そして仏教において良いこととは「慈悲」である。

キリスト教では神は絶対的な存在として最初からいる。しかし仏教では、釈迦しかり、仏(神)になるには修行が必要だ。だから仏教の慈悲は単に仏(神)からの恵みではなく、仏(神)になる方法でもある。たとえば仏が行う慈悲は大慈悲と言って、修業中の僧や庶民が行う慈悲とは区別される。

慈悲のルールは、我を滅してどれだけ不特定者へ多くを与えられるか、ということだ。仏の大慈悲までは行かなくても、できるだけの慈悲行を行おう。そして清らかになる。

現代でも自愛や身近な人への愛に対して、身近でもない不特定者への愛を与えることは崇高な行為とされる。これは自愛や身近な人への愛が人間として一般的な愛に対して、身近でもない不特定者への愛は人間には困難な神の行為とされるためのだろう。だから慈悲はの「清い」のだ。とされた。

そして慈悲が庶民の慣習として根付いた形が「見ず知らずの他者へ配慮する」ことだ。これは現代でも日本人に特徴的な美徳とされる。たとえば「おもてなし」の精神もその一例だろう。




いまも「慈悲ゲーム」を生きる不思議な日本人


たとえば日本人には「世間」という考え方がある。儒教的な「天下」でもなく、近代的のネーション(国民)、ソサエティ(社会)でもない日本独特な「世間」という集合。「世間のみなさまにたいへんご迷惑をおかけしました。」というとき、そこにあるのは「見ず知らずの他者へ配慮する」慈悲の倫理であり、そして世間に対して「清く」あるべきという考えである。

現代は、平等、自由競争、合理性というルール(倫理)の「自由主義ゲーム」を生きている。そして世間の「見ず知らずの他者への配慮する」ことは建前としてマイナスに相対化されるようになった。しかし近代以前は「世間」は庶民が目指すべき倫理として機能していた。

そして自由主義ゲームを生きているにもかかわらず、西洋人から不思議な人々と見られる日本人の特殊性の多くは、いまも日本人が非合理的に「見ず知らずの他者へ配慮する」という「慈悲ゲーム」にも参加し続けているためだろう。

まず慈悲が万事の根本であると知れ。慈悲より出た正直がまことの正直ぞ、また慈悲なき正直は薄情といって不正直ぞ。また慈悲より出た智慧がまことの智慧ぞ、慈悲なき智慧は邪な智慧である。中国ではこの大宝を智仁勇の三徳という。

徳川家康 東照宮御遺訓

後代の仏教においては、他人に対する奉仕に関して「三輪清浄」ということを強調する。奉仕する主体(能施)と奉仕を受ける客体(所施)と奉仕の手段となるもの(施物)と、この三者はともに空であらねばならぬ。とどこおりがあってはならぬ。もしも「おれがあの人にこのことをしてやったんだ」という思いがあるならば、それは慈悲心よりでたものではない。真実の慈悲はかかる思いを捨てなければならぬ。かくしてこそ奉仕の精神が純粋清浄となるのである。P129

慈悲 中村元 講談社学術文庫 ISBN:4062920220

日本においては、例えば徳川時代の中期以降における近江商人の活発な商品活動には、浄土真宗の信仰がその基底に存するという事実が、最近の実証研究によって明らかにされている。ところで近江商人のうち成功した人々の遺訓についてみるに、かれらは利益を求める念を離れて、朝早くから夜遅くまで刻苦精励して商業に専念したのであるが、内心には慈悲の精神を保っていた。実際問題としては利益を追求しなかったわけではないはずであるが、かれらの主観的意識の表面においては慈悲行をめざしていたのである。
その一人である中村治兵衛の家訓によると、「信心慈悲を忘れず心を常に快くすべし」という。これは当時浄土真宗における世の中の商人に対し仏の慈悲を喜ぶことを教えていたことに対応するのである。P244

慈悲 中村元 講談社学術文庫 ISBN:4062920220

私がこの神話でもっとも重視するところは 、高天原の主宰神とされる天照大 (御 )神が 、高天原でみずから 「営田 」した 「水田種子 」 (稲 )を天降る 「天孫 」に「神授 」し 、粟 ・稗 ・麦 ・豆の 「陸田種子 」をこの世に生きている民の食物とする認識にもとづいて位置づけている点である 。神話構成上の認識としては 、水稲は支配者層の文化を象徴し 、粟 ・稗 ・麦 ・豆などの 「陸田種子 」は被支配者層の文化としてシンボライズされている 。
弥生時代以降 、稲作を中心とするマツリは支配者層においてまずひろがり 、水稲耕作の拡大によって 、民衆生活においても重要な意味あいをもつようになるが 、民衆の間にあっては 、粟や麦など焼畑耕作にうかがわれるような非稲作の文化のくらしを営んでいた 。

私の日本古代史(上)―天皇とは何ものか――縄文から倭の五王まで― 上田正昭 新潮選書 ASIN:B00D3WJ5NK


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*1:画像元 http://hakadoko.com/contents_04/千葉県:成田山新勝寺%E3%80%80祈願%E3%80%80護摩/