なぜ日本人は「甘える」のがうまいのか  日本人の慈悲型贈与交換

1)「甘えの構造」と慈悲

甘えという語が日本語に特有なものでありながら、本来人間一般に共通な心理的現象を表わしているという事実は、日本人にとってこの心理が非常に身近なものであることを示すとともに、日本の社会構造もまたこのような心理を許容するようにできあがっていることを示している。いいかえれば甘えは日本人の精神構造を理解するための鍵概念となるばかりではなく、日本の社会構造を理解するための鍵概念となるということができる。P45

「「甘え」の構造」 土居 健郎 (ISBN:4335651295

義理も人情も甘えに深く根ざしている。要約すれば、人情を強調することは、甘えを肯定することであり、相手の甘えに対する感受性を奨励することである。これにひきかえ義理を強調することは、甘えによって結ばれた人間関係の維持を賞揚することである。甘えという言葉を依存性というより抽象的な言葉におきかえると、人情は依存性を歓迎し、義理は人々を依存的な関係に縛るということもできる。義理人情が支配的なモラルであった日本の社会はかくして甘えの瀰漫(びまん)した世界であったといって過言ではないのである。恩という概念と義理との関係を考察してみよう。「一宿一飯の恩」というように、恩というのはひとかけらの情け(人情)を受けることを意味するが、してみると恩は義理が成立する契機となるものである。いいかえれば恩という場合は恩恵をうけることによって一種の心理的負債が生ずることをいうのであり、義理という場合は恩を契機として相互扶助の関係が成立することをいうのである。P54-56

「「甘え」の構造」 土居 健郎 (ISBN:4335651295

日本人に特有の「甘え」とは、慈悲の裏返しである。慈悲型贈与交換が、見返りのない贈与だとすると、見返りなく贈与を求める期待が「甘え」である。通常贈与交換では返礼への負債感が生まれる。しかし日本人の慈悲文化では返礼ない贈与を「清い」とする。このために受け手は返礼の必要が無い贈与への期待も生まれる。日本では慈悲型贈与交換の普及によって、贈与に対して「ありがたく頂く」、「ご厚意に甘える」文化がある。




2)「ありがたく頂く」、「ご厚意に甘える」

贈与は、贈られる者に心理的負債と返礼の義務を負わせる。逆に捉えれば、贈与者になるということは、相手の上位にたつことなのである。・・・モースにとってそれは、交換の原因をなす精神的な基礎、すなわち優越性への欲望と、引き続き生ずる負債感である。かつてデリダは「時間を与える」において「純粋贈与」とでも呼びうるものに言及した。モースの言う贈与は、交換・交易を必然的に引き起こす。すなわち含んでいる/予定している契機であるがゆえに、真の、無償の、つまり純粋なそれではないのである−それはむしろ、「贈与交換」と呼ばれるべきものである。・・・「純粋贈与」とは究極の無償贈与であり、たとえば神や自然の人間に対する贈与、自然の恵みのようなものを想定すれはよいだろう。

純粋贈与と、贈与と、交換の差異とはいったい何だろうか。それは、「負債感」の相殺にかかる時間の差異である。交換において負債感は生じない。というよりも正確には、負債感の持続時間がゼロである。商品Aと商品Bを本当の意味で等価交換したならば、双方には心理的な貸し借りの感情は、生じるとしても瞬時に、その場で相殺されるだろう。これに対して贈与では、返礼をするまでのあいだ負債感が持続する。そしてむしろ、その持続する負債感が返礼の原動力となる。・・・さらに純粋贈与にあっては、それに対する返礼は人間業では用意できない。すなわち負債感の相殺は永遠にできないことがはっきりしているので、負債感は永続的なものとなる。

中野昌宏 「貨幣と精神」(ISBN:4888489785) 第7章 聖なるものと構造

商品等価交換・・・商品Aと商品Bの等価交換では、双方には心理的な貸し借りの感情は、生じるとしても瞬時に、その場で相殺される。

贈与交換・・・返礼をするまでのあいだ負債感が持続する。その持続する負債感が返礼の原動力となる。

純粋贈与・・・負債感の相殺はできず、永続的なものとなる。

贈与交換は人間の最も基本的な交換様式なわけだが、贈与交換は、贈与すると相手に負債が生じて返礼が帰ってくる。でも日本人には慈悲の文化があるから、日本人では贈与交換は慈悲型贈与交換として作動する傾向がある。要するに贈与する方は負債感を小さくして与えることを美徳とする。そして受ける方も負債感少なく受け取る。すなわち「ありがたく頂く」、「ご厚意に甘える」。ここで真面目に返礼してしまうと、清い贈与が穢れて失礼になる。

贈与交換の負債は簡単になくなるものではない。さらに慈悲型贈与交換は純粋贈与(無償贈与)に近く、さらに負債の相殺がむずかしい。大乗仏教ではみんなで解脱することを目指す。菩薩は一人で解脱できるところをこの世に残りみんなを救済する。それが大慈悲である。お地蔵さん菩薩は道の傍らに立ちつづけて人々の救済を祈り続けている。日本人はこのような慈悲文化圏の中で生まれてきた。

だから慈悲的贈与交換は負債なく与え、受けることが出来る。それはみんなで慈悲的贈与交換しあうからだ。「困ったときはお互い様」。それが「世間」という慈悲型贈与交換しあう美徳の経済圏だ。

後代の仏教においては、他人に対する奉仕に関して「三輪清浄」ということを強調する。奉仕する主体(能施)と奉仕を受ける客体(所施)と奉仕の手段となるもの(施物)と、この三者はともに空であらねばならぬ。とどこおりがあってはならぬ。もしも「おれがあの人にこのことをしてやったんだ」という思いがあるならば、それは慈悲心よりでたものではない。真実の慈悲はかかる思いを捨てなければならぬ。かくしてこそ奉仕の精神が純粋清浄となるのである。P129

慈悲 中村元 講談社学術文庫 ISBN:4062920220




3)「負い目」を感じない日本人

しかしあのもう一つの「暗い事柄」、すなわち負い目の意識、「良心の疚(やま)しさ」なるものは、一体いかにして世界に現れたのであるか。・・・これら従来の道徳系譜論者たちは、例えば「負い目」というあの道徳上の主要概念が「負債」という極めて物質的な概念に由来しているということを、ただ漠然とでも夢想したことがあったろうか。

道徳の系譜 ニーチェ 岩波文庫 ISBN:4003363949

ニーチェの言う負債とは、贈与により受ける負債である。なぜニーチェがなぜ道徳の起源として負債を重視するのか。まさに道徳の系譜の主題であるキリスト教批判である。キリスト教徒はルサンチマンである。それは西洋人に架せられた贖罪である。キリストが西洋人のために死を捧げた。キリスト教の核心である。日本人にはわからない、西洋人が背負う呪いである。これは昔の話ではない。いまも西洋人はキリストへの贖罪により、自らを律し、すなわち道徳に従い社会秩序を維持している。

それに対して、日本人の道徳はどこから来ているか。慈悲である。「清らかなる」ことだ。日本人の贈与は負債に強迫されない。なぜなら慈悲は負債を与えないこと、そして負債を受けないことが美徳だからだ。「ありがたく頂く」。それが日本人の慈悲型贈与交換である。日本人はこの幸福を理解してない。

十九世紀中葉、日本の地を初めて踏んだ欧米人が最初に抱いたのは、他の点はどうであろうと、この国民はたしかに満足しており幸福であるという印象だった。ときには辛辣に日本を批判したオールコックさら、「日本人はいろいろな欠点をもっているとはいえ、幸福で気さくな、不満のない国であるように思われる」と書いている。ペリーは第二回遠征のさい下田に立ち寄り「人びとは幸福で満足そう」だと感じた。ティリーは一八五八年からロシア艦隊に勤務し、五九年その一員として訪日した英国人であるが、函館での印象として「健康と満足は男女と子どもの顔に書いてある」という。英国聖公会の香港主教ジョージ・スミスは一八六〇年に来日した人で・・・幻想や読み込みなど一切縁のない人物だったが、その彼ですら「西洋の本質的な自由なるものの恵みを享受せず、市民的宗教的自由の理論についてほとんど知らぬとしても、日本人は毎日の生活が時の流れにのってなめらかに流れてゆくように何とか工夫しているし、現在の官能的な楽しみと煩いのない気楽さの潮に押し流されゆくことに満足している」と認めざるをえなかった。

一八六〇年、通商条約締結のため来日したプロシャのオイレンブルク使節団は、その遠征報告書の中でこう述べている。「どうみても彼らは健康で幸福な民族であり、外国人などいなくてもよいのかもしれない」。また一八七一年に来朝したオーストリアの長老外務官ヒューブナーはいう。「封建制度一般、つまり日本が現在まで支配してきた機構について何といわれ何と考えられようが、ともかく衆目の一致する点が一つある。すなわち、ヨーロッパ人が到来した時からごく最近に至るまで、人々は幸せで満足していたのである。」オズボーンは江戸上陸当日「不機嫌でむっつりした顔にはひとつとして」出会わなかったというが、これはほとんどの欧米人観察者の眼にとまった当時の人びとの特徴だった。ボーヴォワルはいう。「この民族は笑い上戸で心の底まで陽気である」。

一八七六年来日し、工部大学の教師をつとめた英国人ディクソンは、東京の街頭風景を描写したあとで次のように述べる。「ひとつの事実がたちどころに明白になる。つまり上機嫌な様子がゆきわたっているのだ。群衆のあいだでこれほど目につくことはない。彼らは明らかに世の中の苦労をあまり気にしていないのだ。彼らは生活のきびしい現実に対して、ヨーロッパ人ほど敏感でないらしい。西洋の都会の群衆によく見かける新郎にひしがれた顔つきなど全く見られない。頭をまるめた老婆からきゃっきゃっと笑っている赤児にいたるまで、彼ら群衆はにこやかに満ち足りている。駆られ老若男女を見ていると、世の中には非哀など存在しないかに思われてくる。」むろん日本人の生活に哀しみや惨めさが存在しないはずはない。「それでも、人々の愛想のいい物腰ほど、外国人の心を打ち魅了するものはないという事実は残るのである。」P74-77

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー) 渡辺京二 ISBN:4582765521

確かに慈悲型贈与交換を生きる日本人は朗らかだったかもしれないが、来日した西洋人、彼らはまさにプロテスタンティズムの厳しさのなかにいた。まさにルサンチマンな人々だった。やがて日本人も感染していく。西洋人の陰鬱に巻き込まれていく。

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