贈与交換論(案)

1)ミクロレベルの贈与交換 集団内のエコノミー

贈与は、贈られる者に心理的負債と返礼の義務を負わせる。逆に捉えれば、贈与者になるということは、相手の上位にたつことなのである。・・・モースにとってそれは、交換の原因をなす精神的な基礎、すなわち優越性への欲望と、引き続き生ずる負債感である。
かつてデリダは「時間を与える」において「純粋贈与」とでも呼びうるものに言及した。モースの言う贈与は、交換・交易を必然的に引き起こす。すなわち含んでいる/予定している契機であるがゆえに、真の、無償の、つまり純粋なそれではないのである−それはむしろ、「贈与交換」と呼ばれるべきものである。・・・「純粋贈与」とは究極の無償贈与であり、たとえば神や自然の人間に対する贈与、自然の恵みのようなものを想定すれはよいだろう。
純粋贈与と、贈与と、交換の差異とはいったい何だろうか。それは、「負債感」の相殺にかかる時間の差異である。交換において負債感は生じない。というよりも正確には、負債感の持続時間がゼロである。商品Aと商品Bを本当の意味で等価交換したならば、双方には心理的な貸し借りの感情は、生じるとしても瞬時に、その場で相殺されるだろう。これに対して贈与では、返礼をするまでのあいだ負債感が持続する。そしてむしろ、その持続する負債感が返礼の原動力となる。・・・さらに純粋贈与にあっては、それに対する返礼は人間業では用意できない。すなわち負債感の相殺は永遠にできないことがはっきりしているので、負債感は永続的なものとなる。

中野昌宏 「貨幣と精神」(ISBN:4888489785) 第7章 聖なるものと構造

贈与交換は、マクロレベルとミクロレベルで考える必要がある。ミクロレベルの贈与交換は、人間の間に働く公平感をもとにしたエコノミーであり、マクロ的な経済様式に関わりなく働く。簡単には、人は集団で生きるということ。集団はミクロレベルの贈与交換により統合されている。たとえばポランニーは未開社会での面白い贈与交換の例を挙げている。もらった物を時間をおいてそのまま返すという儀礼がある。ここでは贈与交換することそのものが目的化している。これはミクロレベルの贈与交換の本質を表している。ミクロレベルの贈与交換とは負債感のバランスをもとに、集団内の信頼関係を維持する役割を持つ。
このようなミクロレベルの贈与交換は、負債感の解消により、等価交換、純粋交換と連続的な関係にある。

・商品等価交換……交換により負債感がその場で解消される。不特定多数との交換。
その場で、互いに等価であると納得して交換が成立し、負債感は一瞬で解消される。このためにその場であった不特定多数の人々と交換が可能であり、市場という大きな集合が可能になる。


・贈与交換……返礼まで負債感持続する。知り合いとの信頼関係。
贈与は返礼を求める。返礼があるまで負債感は持続される。返礼を期待できる顔の見える信用できる者にしか贈与しない。そして信用は1対1で成立するよりも仲間内のような集団内で機能する。集団内の信頼関係を維持する役割を持つ。


・純粋贈与……永遠に負債感は解消されない。神の贈り物。
無償の贈与では返礼する相手がおらず負債感は解消されない。純粋贈与の代表として「天の恵み」があげられるが、「天」という言葉にすでに神性を帯びている。人は解消されない負債感に耐えられない。このために神を創造する。逆に神の成立条件にとって純粋贈与が重要である。宗教の成立に機能している。




2)マクロレベルの贈与交換 社会と統合する経済過程


マクロレベルは、カール・ポランニーが示したように社会を統合する経済過程の一つ。

生産の形態と主となる経済過程


狩猟採取社会……互酬制(贈与交換)
農業社会……再配分
資本主義……商品等価交換、資本制

wiki カール・ポランニー

経済の定義
人間は自分と自然との間の制度化された相互作用により生活し、自然環境と仲間たちに依存する。この過程が経済だとした。また、経済は社会の中に埋め込まれており(Embeddedness)、経済的機能として意識されないことがあると主張した。ポランニーは、「経済的」という言葉の定義について2つをあげる。
1. 実在的な定義。欲求・充足の物質的な手段の提供についての意味。
人間とその環境の間の相互作用と、その過程の制度化のふたつのレベルから成る。
2. 形式的な定義。稀少性、あるいは最大化による合理性についての意味。
前者の経済過程の制度化は、場所の移動、専有の移動という2種類の移動から説明できる。従来の経済学では後者が重視されているが、それは狭い定義であると指摘した。


交換のパターン
経済過程に秩序を与え、社会を統合するパターンとして、互酬、再配分、交換の3つをあげる。互酬は義務としての贈与関係や相互扶助関係。再配分は権力の中心に対する義務的支払いと中心からの払い戻し。交換は市場における財の移動である。ポランニーは、この3つを運動の方向で表しており、互酬は対称的な2つの配置における財やサービスの運動。再配分は物理的なものや所有権が、中心へ向けて動いたあと、再び中心から社会のメンバーへ向けて運動すること。交換は、システム内の分散した任意の2点間の運動とする。




ミクロレベルとマクロレベルによって、社会は成立する。


3)狩猟採取型社会・・・互酬制

・天の恵み/天災
狩猟採取を基本とする社会でもっとも大きな影響が持つのは純粋贈与/暴力である。すなわち天の恵み、天災である。自然と密着して生きるために天候の影響は生存に直結する。


・集団の形成と、集団間の互酬制
純粋贈与/暴力を緩和するために集団のつながりとして、贈与交換が重要になる。天の恵み(純粋贈与)は成員に分配されて、天災(純粋暴力)の被害も分配される。贈与交換によって形成された集団は規模が限られ、集団間の秩序は互酬制によって維持される。


・市場はない
贈与交換が主になり、不特定多数との等価交換もほぼ機能しない。


・自然信仰
純粋贈与/暴力では返礼する相手がおらずに負債感は解消されない。しかし人は解消されない負債感に耐えられない。このために誰かを想定する。超越的な誰か=神。神に祈り、貢ぎ物(贈与)をする。「天の恵み」の「天」という言葉にすでに神性を帯びている。逆に神の成立条件にとって純粋贈与/暴力が重要となる。




4)農業社会・・・徴収・再分配

・富の蓄積
農業社会になると富が蓄積される。これによって、富は自然と人間との緩衝剤となる。天災(純粋暴力)がきても、蓄積した富を消費することで耐えしのぐことができる。


・中央集権化
贈与交換による集団内に富が蓄積されることで、集団間では互酬制による均等が崩れて、闘争が生まれる。そして勝った集団が負けた集団を支配する構図が生まれる。富を徴収・再配分することで大きな中央集権型社会は維持される。また富の蓄積によって人口は増加する。しかしマルサスの罠によって人口調整として戦争がおこる。


・市場の形成
大きな中央集権内の不特定多数による交換では、市場(いちば)として等価交換が生まれる。


・権力者の神話
呪術的な神は中央集権の権力を正当化するための神話となる。土着に根ざした信仰が生まれる。


儒教 仁政型再配分
孔子儒教で求めたのは、再配分によって集まった富を権力者が不当に独占しないこと。さらにはそれ以上に権力者は民へ奉仕(純粋贈与)すること。富、権力を独占する権力者への「清らかさ」である。権力者が率先して清らかであることで、再配分システムそのものが「清らかに」なり、人々が幸福な社会が運営されると考えた。


世界宗教の成立
商品交換の発達で貧富の差が生まれる。彼らは土地から離れ、国の再配分システムから切りはなされている。近代国家ではすべての国民へ再配分の機能が働くが、農業社会と資本主義社会の遷移期には貧困は悲惨なものになる。ここにキリスト教や仏教など世界宗教としての救済の思想、経済的には奉仕(純粋贈与)が機能する。日本では鎌倉仏教期である。キリスト教圏ではいまだに教会は重要な弱者救済(純粋贈与)の機能として働いている。




5)資本主義社会・・・商品等価交換

市場経済
商品等価交換が主要な交換として全面化するのは特殊である。人々は労働力を売って賃金を稼ぎ、その金で生存を維持する。農業社会のように自ら生産手段をもって生存に必要なものを確保するのではなく、生存を維持できるだけの商品がそろっていなければならない。


・近代国家の富国強兵
資本主義社会の維持において、国家は不可欠である。商品等価交換は基本的には契約である。このために契約を規定する法と法を行使するための暴力の独占が必要である。さらに商品交換は貧富の差を生むために、弱者救済のための再配分の機能は不可欠である。
農業社会ではマルサスの罠から国の人員はいつも過剰である。国民の数がそのまま国家の富と直結しないが、マルサスの罠を破った資本主義では国民の数が富と直結する。このために富国強兵が目指され土地、国民が抱え込まれる。そして資本主義は経済成長によって維持され、そして経済成長の単位が近代国家である。だから近代国家とは国家間のグローバルな関係によって成立する。


・流動化する共同体
資本主義社会では贈与交換による集団は、商品交換、再配分を補完するように、流動的で、多様になる。家庭から会社、お気に入りのブランド好き、そして市民、ネーション(国家国民)まで。


・資本制と贈収賄
資本主義の基本は商品等価交換と考えられるが、資本を考えたときにそこに贈与交換が見え隠れする。商品等価交換はその場で交換が成立するが、資本の場合は貸しと返済に時間差が生まれるという、贈与交換に近い構造になる。資本主義社会では貸しと借りは自由競争上の利益追求を元にした客観的な基準によって行われていることが原則とされ、仮に贈与交換のように閉鎖的な集団内の権益を求めることは禁止されている。しかしこの境界は曖昧である。資本制には資本・権力を持つ者たちの贈与交換による協力関係が働いているだろう。それが贈収賄の犯罪となるのは、ある定めた法基準を越えたと判断された場合のみである。


・宗教の終焉
資本主義社会において、純粋贈与/暴力の成立は難しくなっている。たとえば地震によって大災害は発生しても、それを天のせいにはできない。災害を予測し、予防できなかった人災とされる。科学技術が予測機能と働くことが期待できるまでに発展し、世界を埋め尽くし、脱魔術化した。

信用取引の出発点は・・・法律学者や経済学者によって興味なきものとして閑却されている慣習の範囲内に見出される。それは贈与であって、とくに、その最古の形態の複合現象であり、それは・・・全体的給付の形態である。ところで、贈与は必然的に信用の観念を生じさせる。発展は経済上の規則を物々交換から現実売買へ、現実売買から信用取引へ移行せしめたのではない。贈られ、一定の期限の後に返される贈与組織の上に、一方では、以前には別々になっていた二時期を相互に接近させ、単純化さすことによって、物々交換が築かれ、他方では、売買 −現実売買と信用取引− と貸借が築かれた。P113

「贈与論」 マルセル・モース (ISBN:4326602120