なぜ正社員は特権階級なのか 「日本人である故に日本人ではない」

ようするにボクが言いたいことは2つ。一つは、日本人の贈与交換は慈悲型であると言うこと。二つめ、慈悲型を更新しよう。「日本人である故に日本人ではない。」

モースの「贈与論」で有名なように、贈与交換は信頼を作り、集団を作り、闘争を生み、権力関係を作り、経済を作り、法(掟)を作る。人間関係形成の源泉であり、他者との交換(交渉)である故に、生存へ至る厳しさがある。

それが、慈悲型になると、慈悲する厳しさと、慈悲されるゆるさが生まれる。たとえば慈悲する厳しさの例が武士道。庶民のために律して仁政を進め、時には死をも贈与することを求められる。ゆるさの例が「渡る世間に鬼はなし」や義理人情など。西洋人から見ると「甘えの構造」と言われる。現代でも世間の恥で制裁を受ける、さらに自殺するは慈悲型の厳しさの例、自立できない若者などは慈悲型のゆるさの例か。

日本人の慈悲型贈与交換は、主に職を通して行われる。だから日本人には正社員は特別な意味を持つ。厳しく言えば、特権階級である。たとえば、江戸時代に農民でも自立し納税する者は平民階級。自立農民に仕えて自らは納税しない者は、格下だった。現代の正社員と非正規にはそれに近い感覚がある。

このような職を通しての慈悲型贈与交換はいまも日本経済を支えているし、法や政治で簡単に変わるものではない。その現実を知ること。単に知るだけでなく、自らもその一部であり、そこに充足して平安を享受していることを知ること。その上で正社員、非正規関係なく、慈悲2.0へ変わっていくつらい「修行」をする。すなわち「日本人である故に日本人ではない」へ。

・・・要するに、西鶴が(永代蔵で)いうには、この世にある願いは、人の命をのぞけば、金銀の力でかなわないことはない。夢のような願いはすてて、近道にそれぞれの家業をはげむがよろしい。人のしあわせは、堅実な生活ぶりにある。つねに油断してはならない。ことに「世間」の道徳を第一として、神仏をまつるべきである。これが、わが国の風俗というものだ、ということである。

そもそも商売は、町人にとって生涯の仕事であり、親子代々に伝える家業であった。西鶴は、自分と家業との関係において、家業にはげみ、諸事倹約をまもることの必要性を説くいっぽう、<家業>と<世間>との関係において、「世間」の道徳にしたがうことの必要性を説いているのである。P60-66


「世間体」の構造 社会心理史への試み 井上忠司 講談社学術文庫 ISBN:406159852X