武士と世間 なぜ死に急ぐのか 山本博文 中公新書 ASIN:B00LMB0A5Q
近世以前
世間
「世間」は仏教的な世界の意味か世の中一般を指すことが多い。
「万葉集」の中に「世間」を作った歌が45首。漠然と社会全体をあらわす。
中世から近世
世間
個人に対して圧力をかける厳しい「世間」が形成されてきた。
統一政権が成立し流動的な社会が固定してきた。
日本全国どこであってもそれぞれの「世間」がついて回る。
武士の外聞
武士が命を惜しまず戦うのは、主君のためと同時に恩賞のため。ただし名か利かと言えば名を取るのが武士の習い。
義理あるいは義務としての主君への忠誠心のためではなく、武士として生まれた自分の名自体を惜しむ意識からであった。誇り高い武士の身分意識そのものだった。
武士として立っていくため、なにより名誉を大事にした。世間の評判、「外聞」。
戦国時代から統一政権へ移る時代に、個々の戦国大名やその部将、配下の武士を見つめる「世間」があった。
武士は、自分の感情よりも、自分の行動を世間がどう見るかに重きを置いた。
豊臣政権期の兵農分離を経て、いやしくも武士身分になった者は、武士としての厳しい倫理を要求された。
江戸時代
殉死
1392 病死した主君への殉死
戦国時代 敗北して滅亡する主家に殉じて腹を切る家臣
江戸時代 次第に流行。範囲を広げていく。
武士の一分
「一分」・・・武士の内面的規範。道徳より個人に即した心の動き。
「義理」・・・武士の道徳の規範。
赤穂藩旧臣の復讐は世間から当然視されていた。討ち入りは武士の「一分」。幕府の裁定に従う「義理」に反する。
「世間」は、法的に問題がないこと、「義理」よりも厳しい倫理を要請した。「一分」を重視することが求められた。
17世紀後半 武士も激情から刀傷沙汰を繰り返すのではなく、「義理」を重んじるようになる。
世間
「世間」が人の行動の是非を判断するものとして立ち現れてくる。元禄期には一般に成立。
藩は事件の処置について世間の評価を神経質なまでに気にしていた。
世間を騒がせたこと自体が重い罪状になりえた。
武士の名誉が世間が認めるものだった。
武士は戦闘者であり、支配者階級であったため、死を怖れない強い精神力が必要とされ、武士にふさわしくない行動をした場合は自ら死を選ぶ倫理と能力をもつとされていた。
支配身分である武士には、その身分に伴う厳しい倫理が必要であり、威厳が保てない。
社会が安定してくると、幕府の権力者や将軍までもが、世間の評判を気にするようになる。
配慮しなければ悪い評判がたち、ひいては自らの権力や地位・立場を左右する可能性があった。
町人は「世間」に背を向けて利欲や恋愛に生きることが許されたが、武士にそういう自由はない。
「世間」の評判こそが「武士道」の規定となった。武士の「世間」は、他の階級の「世間」に比べてはるかに厳しい倫理を要請した。
自分の親や子供までが武士社会から爪弾きにされる。先祖の名字は傷つき、家は断絶することになる。
古代から中世の日本では 、この 「世間 」の語を 「よのなか 」という意味で使うことが一般的であった 。すでに 『万葉集 』の中に 、 「世間 」という語を使用している歌が全部で四十五首あるが 、たとえば作者未詳の和歌 「世間は空しきものとあらむとぞこの照る月は満ち闕けしける 」 (巻三 ・四四二 )のように 、「よのなか 」と読んで 、漠然と社会全体 、すなわち現世を指す場合が多い 。
近世の厳しい 「世間 」は 、中世末期から近世に至る長い間に形成されたと考えられるが 、最大の要因は 、統一政権が成立し流動的な社会が固定化されてきたことによると考えられる 。そのなかで 「世間 」が 、現在の我々が使う 「世間 」とほぼ同じものになってきたのだろう 。武士にとっての藩社会や 、町人や農民にとっての町や村といった共同体社会が成立するだけでなく 、幕藩体制のもとで 、日本全国どこであってもそれぞれの 「世間 」が付いて回るのが近世社会の特徴だった 。阿部氏は無視されているが 、武士にこそ 「世間 」が最も大きな重圧としてのしかかっていた 。武士には名があるからである 。
応仁の乱から戦国時代にかけて武士階級の裾野が広がる 。名もない雑兵は 、主君への忠義よりも利や命を惜しむ存在であった 。しかし 、依然として 、城主レベルの武士は 、厳しい自己規律を維持し 、敗北した時は兵卒の身代わりとなって切腹した 。彼らを支えていたのは 、武門の家に生まれた名を惜しむ意識であった 。豊臣政権期の兵農分離を経て江戸時代に入ると 、武士と農民や町人の境界にははっきりと線が引かれる 。いやしくも武士身分となった者は 、武士としての厳しい倫理を要求された 。もし武士にふさわしくないとみなされた場合は 、自己の属する藩社会から排除されることになる 。武士の狭い 「世間 」が成立したのである 。
これまで 「世間 」の研究は 、井原西鶴の浮世草子などにより 、町人のものとしてなされることが一般的であった 。しかし 、町人は 「世間 」に背を向けて利欲や恋愛に生きることが許されたが 、武士にそういう自由はない 。本書で見てきたように 、武士たちこそ細心の注意をはらって 「世間の批判 」を受けないよう行動していたのである 。
言い換えれば武士が構成する 「世間 」の評判こそが 「武士道 」の規定となった 。その武士の 「世間 」は 、他の階級の 「世間 」に比べてはるかに厳しい倫理を要請したのである 。武士は 、武士道に背いたと思われた場合は 、もはや武士社会で生きていくことができない 。武士の 「世間 」が 、厳しい制裁を行うからである 。そういうなかで武士は 、他の階級の者とは比較にならないほど厳しい倫理観を身につけざるをえなかったのである 。
冒頭に掲げた 「サムライはなぜ 、これほど強い精神性がもてたのか ? 」という問いに対する解答は明らかであろう 。個々の武士は 、自らの内面的な倫理観だけでそういう精神性をもちえたのではない 。本書で述べてきたような厳しい 「武士の世間 」があったからである 。強固な意志で自らの行動を律していたと思われる武士こそが 、最も 「世間 」に左右されていたのである 。