老荘と仏教 森三樹三郎 講談社学術文庫 ISBN:4061596136
荘子
万物斉同・・・知識を否定し、ありままの世界、自然世界ではあらゆる対立差別は消失し、すべてが斉しく、すべてが同じ。
万物の始め、根本は有と無を同時に包み込むもの、無限
生死を斉しくする。死が恐ろしく、いとわしいのは、人間が生の立場から死を見ているからである。
運命肯定の思想は中国民族のもの。
仏教の禅宗、浄土教
いかに万物斉同の境地に至るか
唐宋以降、禅や浄土に吸収。仏教の禅宗、浄土教に引き継がれる。
中国的な色彩の強い仏教。
禅宗 無数の不自然を積み重ねなければならない
浄土教 人間の力は微弱、微弱な努力はさまたげになる。
善導 自然は即ち弥陀国なり
親鸞 自然法爾
ただ一つ、荘子は重大なことを言い忘れたようである。それは「どうすれば万物斉同の境地に達することができるのか」という、具体的な方法の問題であった。荘子はいきなり万物斉同の境地から物を言っているのであって、そこに到達するための方法については何も述べていない。おそらく荘子は、差別の人為にさえ放棄すれば、そのまま無差別の境地があらわれる、と簡単に考えていたのではないか。
それは荘子のような達人か、それとも老子のいう無知の農民のようなものであれば、あるいは可能であったかもしれない。なまじ知恵の実の味を知った凡人にとっては、万物斉同の理を「知る」ことは可能であるにしても、その境地に「なる」ことは至難のわざである。自然に帰れと簡単に言うけれども、すでに深く不自然に陥っている凡人にとっては、それはたいへん努力を必要とすることなのである。自然になるためには、多くの努力という不自然を積み重ねなければならない。このことに荘子が気づかなかったとはいわないが、しかしきわめて不親切であったことは事実である。
この荘子の残した課題をとりあげ、その解決にあたったのは、道家の後継者よりも、むしろ仏教の禅宗であり、浄土教であったといってよい。禅と浄土は、中国仏教のうちでも特に中国的な色彩の強い仏教だといわれている。それは宋元明清の時代に残った仏教が禅と浄土だけに限られているという、歴史的な事実によっても証明されている。その場合、禅と浄土の「中国的」な要素とはなんであるのか。ひとくちでいえば、それは荘子の思想である。禅と浄土は、インドの仏教に起源をもちながら、中国の荘子の哲学から深い影響を受けとった、いわば混血児の仏教である。この禅と浄土が解決しようとしたのは、荘子が言い忘れた「いかにして万物斉同の境地を実現することができるか」という、方法論の問題であり、実践の問題であった。
禅宗の場合は、自然になるためには無数の不自然を積み重ねなければならないことに気づいた。つまり自然の境地に達するためには、精進努力という不自然が必要だというのである。行住坐臥(ぎょうじゅうざが)を仏法とし、坐禅を仏を行ずる道であるとするのは、この考え方のあらわれであろう。しかし、このような自力の道に絶望するところに浄土教が生まれた。人間の力は、しょせん微弱なものでしかない。その微弱な努力が、かえって自然境地に達することの妨げとなる。弥陀(みだ)の常寂光土(じょうじゃっこうど)は――万物斉同の自然の境地は、ただそれへの思慕の念を強めることによってのみ得られる。「自然は即ちこれ弥陀国なり」といった善導、自然法爾(じねんほうに)を説き「無上仏とまうすは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆえに自然とはまうすなり」「かたちもましまさぬようをしらせむとて、はじめて弥陀仏とまうすとぞききならひて候。みだ仏は自然のようをしらせむれう(料)なり」と語った親鸞など、浄土教の極地を説いたものは、そのまま荘子の道に通ずることをしめしている。P36-38
前三、四世紀 春秋時代
・民間信仰、神仙説
・政治闘争に職能をもつ知識階級 孔子、儒学の道は仁義忠孝
・職能的地位に望みを絶っ、超越した批判的態度 老子
老荘思想、死を憎まないので神仙説ではない
四世紀初 東晋、永嘉の乱
・仏教が爆発的に広がる
・格義仏教、老荘思想と結びつけて理解
心無義
即色義 支遁
本無義 道安五世紀
・鳩摩羅什の訳経、格義仏教は後退、真の仏教理解
六朝隋唐
・仏教はめざましい発展、すべての宗派が出揃う
・禅宗 文字言語を媒介とした理論を退ける、真理の体験的直感を重視
・浄土教盛ん 曇鸞、道綽しゃく、善導唐末
・会昌の排仏 仏教致命的な打撃、禅宗だけ隆盛