老子 岩波文庫 ASIN:B01BD3DLOE

pikarrr2016-05-25


本当の言葉は華美ではなく 、華美な言葉は本当ではない 。本当の弁論家は弁舌が巧みではなく 、弁舌が巧みな者は本当の弁論家ではない 。本当の知者は博識ではなく 、博識な者は本当の知者ではない 。聖人は何もためこまない 。なにもかも人々に施しつくしながら 、自分はますます充実する 。なにもかも人々に与えつくしながら 、自分はますます豊かになる 。天の道は恵みを与えるだけで損なうことはなく 、聖人の道は何かを為しても争うことはない 。

なにも為さないということを為し 、なにも事がないということを事とし 、なにも味がないということを味とする 。小さいものを大きいものとして扱い 、少ないものを多いものとして扱う 。怨みには徳でもって報いる 。難しいことは 、それが易しいうちに手がけ 、大きいことは 、それが小さいうちに処理する 。世の中の難しい物事はかならず易しいことからおこり 、世の中の大きな物事はかならず些細なことからおこるのだ 。そういうわけで聖人は 、いつも大きな物事は行なわない 。だから大きな物事が成しとげられるのだ 。

世の中の人々は 、みな美しいものは美しいと思っているが 、じつはそれは醜いものにほかならない 。みな善いものは善いと思っているが 、じつはそれは善くないものにほかならない 。そこで 、有ると無いとは相手があってこそ生まれ 、難しいと易しいとは相手があってこそ成りたち 、長いと短いとは相手があってこそ形となり 、高いと低いとは相手があってこそ現われ 、音階と旋律とは相手があってこそ調和し 、前と後とは相手があってこそ並びあう 。そういうわけで 、聖人は無為の立場に身をおき 、言葉によらない教化を行なう 。万物の自生にまかせて作為を加えず 、万物を生育しても所有はせず 、恩沢を施しても見返りは求めず 、万物の活動を成就させても 、その功績に安住はしない 。そもそも 、安住しないから 、その功績はなくならない 。

心と身体とをしっかり持って合一させ 、分離させないままでいられるか。精気を散らさないように集中させ 、柔軟さを保ち 、赤子のような状態のままでいられるか。玄妙な心の鏡を洗い清めて 、傷をつけないままでいられるか。人民を愛し国を治めるのに 、知恵によらないままでいられるか。目や耳などの感覚器官が活動するとき 、女性のように静かで安らかなままでいられるか。あらゆる物事についてはっきり分かっていながら 、知恵を働かさないままでいられるか。万物を生みだし 、養い 、生育しても所有はせず 、恩沢を施しても見返りは求めず 、成長させても支配はしない 。これを奥深い徳というのだ。

心をできるかぎり空虚にし 、しっかりと静かな気持ちを守っていく。すると 、万物は 、あまねく生成変化しているが 、わたしには 、それらが道に復帰するさまが見てとれる。そもそも 、万物はさかんに生成の活動をしながら 、それぞれその根元に復帰するのだ。根元に復帰することを静といい 、それを命つまり万物を活動させている根元の道に帰るという。命に帰ることを恒常的なあり方といい 、恒常的なあり方を知ることを明知という。恒常的なあり方を知らなければ 、みだりに行動して災禍をひきおこす 。恒常的なあり方を知れば 、いっさいを包容する。いっさいを包容すれば公平である 。公平であれば王者である 。王者であれば天と同じである。天と同じであれば道と一体である 。道と一体であれば永遠である。そうすれば 、一生 、危ういことはない。

人は地に法り 、地は天に法り 、天は道に法り 、道は自然に法る。

柔弱なるものは剛強なるものに勝つ 。

天下の物は有より生じ 、有は無より生ず。

無という道は有という一を生みだし 、一は天地という二を生みだし 、二は陰陽の気が加わって三を生みだし 、三は万物を生みだす。万物は陰の気と陽の気を内に抱き持ち 、それらの気を交流させることによって調和を保っている。

そこで聖人はいう 。わたしが何もしないと 、人民は 、おのずとよく治まる。わたしが清静を好むと 、人民は 、おのずと正しい。わたしが事を起こさないと 、人民は 、おのずと豊かになる。わたしが無欲であれば 、人民は 、おのずと素朴である 、と。

そもそも絶対的正常などはないのだ。正常はまた異常になり 、善事はまた妖(まがごと)になる。

そういうわけで聖人は 、欲を持たないということを欲とし 、珍しい財宝を尊重しない。学ばないということを学とし 、誰もが過ぎさってしまった素朴なところに復帰する。そのようにして万物の本来のあり方に任せているのであって 、自分から何かをすることはないのだ。

わたしには三つの宝があり 、しっかりと保持している。第一は慈悲 、第二は倹約 、第三は世の中の人々の先頭には立たない 、ということである。慈悲深いから勇敢でありうるし 、倹約であるから広くなりうるし 、世の中の人々の先頭には立たないから万人の長になりうるのだ。もし今 、慈悲をすてて勇敢であろうとし 、倹約をすてて広くしようとし 、人の後になることをすてて先頭に立とうとすれば 、死んでしまうであろう。いったい 、慈悲によって戦えば勝ち 、慈悲によって守れば堅固である 。天が人を救おうとすれば 、慈悲深い人を守るのだ。

なにごとにも進んで果敢に行動する者は殺される。なにごとにもぐずぐずと尻込みする者は生かされる。この二つの生き方には 、利益があったり損害があったり。天がなにを嫌うのか 、だれにその訳がわかろうか。そういうわけで 、聖人でさえ 、自然の道理を知ることはむずかしいとしたのだ。天の道は 、争わないのにうまく勝ちを占め 、なにも言わないのにうまく応答し 、招かないのにおのずと到来し 、はてしもなく大きいのにうまく計画されている。天の法網は広々と大きく 、目はあらいが 、なにごとも見逃すことはない。