いまも世間は強力な力をもつ 慈悲型資本主義 その3

世間の強力な実行力


世間なんて倫理圏はいまだにあるのか、古くさいという考えはあるが、実際は日本人は法よりも、世間に訴えることが多い。世間に正義があり、法さえ超えて、日本人を正しく導くと考える。西洋の国家と市民もいう対立構図が日本にないのは、世間では一体だから。首相だろうが、世間の一員で、最後は世間のために働く。首相と言っても、一時期の職分で、おおもとは世間の一員で、世間に反すれば、家族、一族、さらに子々孫々に制裁を受ける。世間はこのような物理的な実行力を持つから強い。ベッキーは世間的に抹殺されて、家族も苦しい思いをしているだろうし、このまま結婚して子供を産めば、子供はずっと後ろ指を指されつづける。

その意味では、テレビは世間を日本人全体に広げて、倫理を調整するのに役立った。現代ではネットもしかり。ネットはグローバルのようでローカル。日本語圏で閉じている。でもネットは分散的で、共有性が低い。だから炎上させて、テレビなどマスコミに取り上げてもらい、また炎上する、それをテレビがネタにするというメディア圏として働く。




ネーションと世間


ネーションと世間の違いはなにか?ネーションは近代のグローバル化の中で、各国の富国強兵が目指される中で、国に生まれた「想像の共同体」。ナショナリズム。主に国の標準語、国語の教育で生まれたと言われる。

世間は日本人だけの独特な倫理圏。今でも、「世間体を考える」、「世間が許さない」、「世間のみなさまにご迷惑をかけて申し訳ありません」など、日本人は語る。世間とはもともと仏教用語で、世界のこと。外はない。仏教的な倫理が共有されているだろう世界。おそらく世間が今のように、日本人全体のように考えられるのは、近代のネーションの形成と混同されてからだろう。




極楽と地獄と世間


では、世間の倫理とはなにか?なにを基準に善悪を決めるのか。その基本は、近代以前に、日本人の倫理の基準だった仏教の無我であり、慈悲。世間とは慈悲圏。慈悲とはエコノミーであり、より身近でないものに多くを与えること。ミウチよりセケンのために。日本人が職場に家族の写真を飾らないのは、ソトにミウチを持ち込み自慢することだから。ウチよりソトを重視する姿勢が慈悲の善。ベタに言えば、武士がお家のために自分を、家族を犠牲にするまで、溯れる。

近代法と異なる倫理が、各国にもあるだろう。それぞれのローカルな倫理の中で、日本人の世間は特殊だ。すなわち日本人という特徴を最も表している。国の倫理には、国の倫理を統一することの難しさがある。多くの国は多民族、他宗教で、倫理統一が難しいから、国の中でも、バラバラだか、だからこそグローバルスタンダードな近代法が重要となる。

日本は、宗教なく、擬似的単一民族で、江戸時代からの日本人に共有された世間の倫利がある。だから近代法と並列に存在しても、みんな納得する。すなわち江戸時代から、仏教的倫理の慈悲が生き残っている。

世間とは慈悲のエコノミー圏だから、より知らない人により多くを与えることを善とする。このエコノミー圏が成立したのは、江戸時代。寺請け制度で、日本人は必ずどこかのお寺の檀家にならなければならない。キリシタン排除の、実質の戸籍制度。総仏教徒化。そして慈悲の倫理が教育されて、エコノミー圏としての世間が成立した。

これは江戸幕府の強制というより、日本人の死生観に関係する自主的なもの。人は死ねば、極楽か地獄かにいく。極楽に行きたければ慈悲を行え。現代と違いは、死んだらなにもないなんて考えられない時代。誰もが極楽、地獄を信じている。葬式仏教の普及。近代化で失われたが、江戸時代、日本人は仏教的価値観の中でも生きていた。仏教を信仰するか、どうか以前に、それしか考え方がなかったから。慈悲は常識だった。



「いつまでいっていても仕方のないこと 。早く早く殺して殺して 」と 、最期を急げば 、「承知した 」と 、脇差をするりと抜き放し 、 「サアただ今だ 、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏 」といっても 、さすがにこの年月 、いとしい 、かわいいと 、抱きしめて寝た肌に刃が当てられようかと 、眼もくらみ 、手も震えて 、弱る心を引きしめ 、取り直してもなお震え 、突こうとはしても 、切っ先はあちらへはずれ 、こちらへそれ 、二 、三度ひらめく剣の刃 、あっと一声だけ上げたお初の喉笛にぐっと通るや 、「南無阿弥陀 、南無阿弥陀南無阿弥陀仏 」とえぐり通し 、えぐりつづける徳兵衛の腕先も弱ってゆく 。弱りきったお初を見ると 、両手を伸ばし 、断末魔の四苦八苦 、哀れといってもいい尽くせない 。「自分とても遅れようか 。息は一度に引き取ろう 」と剃刀取って喉に突きたて 、柄も折れよ 、刃もくだけよとえぐり 、ぐりぐりえぐりつづけると 、目もくらみ 、苦しむ息も 、暁の死ぬべき時刻をむかえて絶えはてた 。誰が告げるとはなく 、曾根崎の森の下風に乗って噂が伝えられ 、広まりつづけて 、身分の高下にかかわりなく大勢の人たちの回向を受けて 、未来成仏疑いのない恋の手本になった 。


曾根崎心中 冥途の飛脚 心中天の網島 近松門左衛門 角川ソフィア ISBN:4044011036<<

要するに、西鶴が(永代蔵で)いうには、この世にある願いは、人の命をのぞけば、金銀の力でかなわないことはない。夢のような願いはすてて、近道にそれぞれの家業をはげむがよろしい。人のしあわせは、堅実な生活ぶりにある。つねに油断してはならない。ことに「世間」の道徳を第一として、神仏をまつるべきである。これが、わが国の風俗というものだ、ということである。そもそも商売は、町人にとって生涯の仕事であり、親子代々に伝える家業であった。西鶴は、自分と家業との関係において、家業にはげみ、諸事倹約をまもるこの必要性を説くいっぽう、<家業>と<世間>との関係において、「世間」の道徳にしたがうことの必要性を説いているのである。

・・・西鶴の作品には、「世間」を道徳基準のよりどころとするような表現がなんと多いことであろうか。たとえば「世間並に夜をふかざす、人よりはやく朝起して、其家の商売をゆだんなく、たとへつかみ取りありとも、家業の外の買置物をする事なかれ」、というふうにである。P60-66


「世間体」の構造 社会心理史への試み 井上忠司 講談社学術文庫  ISBN:406159852X