プロレタリア革命に変わる日本人の解決策としての「慈悲エコノミー」

柄谷行人の交換様式論


柄谷行人は、マルクスの経済的下部構造=生産様式論に対して、経済の根本は交換にあるとして、交換様式論を提唱する。それはカール・ポランニーが言った広義の経済活動(エコノミー)=「社会に埋め込まれた人と自然との相互作用」に通じる。また交換様式としては、ポランニーが経済のパターンとして上げた、三つ、「互酬(贈与と返礼)」、「再分配」、「等価交換」を、継承する。

さらに歴史的な社会構造は、どの交換様式が主流に対応するという経済的下部構造論を取る。また三つの交換様式は、どの社会においてもメビウスの輪のごとく相補的に働いていると考える。たとえば、現代の資本主義社会の基本の交換様式は、貨幣による等価交換であるが、資本ー国家ーネーションは、等価交換、再分配、互酬という3つの交換様式に対応する。

社会構造と経済下部構造として交換様式(柄谷)

 原始社会・・・互酬制(贈与と返礼)
 農耕社会・・・再配分
 資本主義社会・・・等価交換

資本主義社会  資本−国家−ネーション (等価交換−再配分−互酬(贈与返礼))




交換様式Xと慈悲エコノミー


さらに柄谷は、第4の交換様式として、交換様式Xの可能性を上げる。互酬(贈与と返礼)は小さな共同体である原始社会で主流であったが、それを世界全体へと展開するもので、現在世界へ展開する貨幣による等価交換では、交換時に利益が生まれ、それが格差を生み出すが、互酬(贈与と返礼)ならば、利益は生まれず格差もうまない、すなわち社会主義社会へ繋がる。また柄谷は交換様式Xは、世界宗教に近いという。キリスト教など世界宗教では、利益を求めず、互いに与えあう。また仏教の慈悲も同様に考えることができるだろう。

ボクは、日本では江戸時代にすでに仏教の慈悲もとに成熟させた交換様式Xに近いエコノミーがあり、また現代日本まで継承されていると考える。それが「慈悲エコノミー」である。そして慈悲エコノミーが作動するのが「世間」である。

柄谷が示す現代資本主義社会、そしてそれにならったボクの考えは、

資本主義(柄谷)  資本−国家−ネーション (等価交換−再配分−互酬(贈与返礼))

江戸時代   幕藩体制−世間−資本 (再配分−慈悲型贈与交換−等価交換)
現代日本   資本−国家−世間 (等価交換−再配分−慈悲型贈与交換)




身分と職分


ボクがいう「慈悲エコノミー」は、柄谷が考える交換様式Xのように美しいものではない。ボクがいう「慈悲エコノミー」は、擬似的な交換様式Xで現実的な泥臭いものだ。その特徴の一つ目は、互酬(贈与と返礼)を「日本人」に狭めるということで、島国日本人に閉じている。江戸時代は鎖国政策もあり、庶民にとって世界とは、日本人圏だった。そして日本人圏に閉じていた故に、擬似的な交換様式Xが実現されたと言える。柄谷が言う交換様式Xのように他民族全体を含めて=人類で互酬を展開するのは、神の領域だろう。

二つ目は、完全な慈悲は仏のみ可能である。だからできれば互酬を身近なものではなく、世間というより広くに展開しようと言う倫理だった。そこから理想と現実、すなわち日本人の本音と建て前が生まれる。柄谷いう理想の交換様式Xには至らないが、現実に世間の倫理として、「慈悲エコノミー」は作動していた。明治に「社会(ソサイエティ)」が入ってくる前は、「世間」は倫理だった。

具体的には、農民も将軍も職業であり、それぞれの職分を全うすることで、世間全体が豊かになるという、職分仏行論だ。世間では、自らの利益だけでなく、世間様のために懸命に働くことが善とされた。たとえば、武士道もまた「慈悲エコノミー」に深く関係する。世間に恥じない武士としての職分を全うする。それができないことは、死に値する恥であるというところまで、突き詰められる。このような職分仏行論的な思想は徳川家康も持っていて、幕藩体制構築に影響を与えただろう。士農工商は身分制という縦の関係にあるとともに、職分主義において横の関係であった。日本人という社会構造を支えた。

まず慈悲が万事の根本であると知れ。慈悲より出た正直がまことの正直ぞ、また慈悲なき正直は薄情といって不正直ぞ。
また慈悲より出た智慧がまことの智慧ぞ、慈悲なき智慧は邪な智慧である。中国ではこの大宝を智仁勇の三徳という。
忘れても道理や人の道に反したことを行なってはならぬ。
およそ悪逆(道に背いた悪事)は私欲より生ずるぞ。
天下の乱はまた思い上がりより生ずるぞ。人民の安堵(あんど)は各人が家の職業を勤めることにある。天下の平和と政治の永続は上に立つ人の慈悲にかかっている。慈悲とは仁の道である。思い上がりを断って慈悲を万事の根本と定めて天下を治めるようにと申さねばならぬ。

東照宮御遺訓 徳川家康




サービス残業は善が悪か

資本主義(柄谷)  資本−国家−ネーション (等価交換−再配分−互酬(贈与返礼))
現代日本      資本−国家−世間 (等価交換−再配分−慈悲型贈与交換)

資本主義的な倫理でいえば、サービス残業は、賃金も払わずに働かせる違法であり、また左派的には、資本家による労働者への搾取だ。しかし資本主義の倫理の徹底では、どうしても経済格差が生まれる。それに対する西洋的な解がプロレタリア革命だったわけだが、日本人は別の解をもっていた。それが、江戸時代に成熟させた世間の倫理=慈悲エコノミーだ。

慈悲エコノミーでは、サービス残業は、資本家による労働者の搾取ではなく、日本全体を豊かにするための慈悲行であり、美徳だ。経営者も従業員も、そして首相も、将軍様も、与えられた職分において等しく、それぞれが自らの職分をまっとうすれば、日本人全体が豊かになる。日本人は、資本主義の経済合理性の倫理による格差という縦の関係と、世間の倫理=慈悲エコノミーの横の関係によってバランスを取りながら一丸となり、世界的な経済競争に勝ち、経済成長させて、格差の少ない豊かな国を作ってきた。




サービス業と慈悲エコノミー


経営家族主義による終身雇用、年功序列、企業系列体制が維持されている時代は、サービス残業を美談としても問題にならなかった。従業員がサービス残業してまで働き、会社が発展すれば、給料が上がり、雇用も安定する。特に第二次産業では、仕事に熟練性が求められて、企業も従業員の終身雇用に価値があった。

しかし最近、急にサービス残業にうるさくなった。それは、第三次産業、サービス業へ産業構造がシフトしたことに関係する。サービス業では、第二次産業のように機械化による効率が難しくて、人件費の効率化、削減、すなわち労働時間の削減、雇用者数の調整を細かく行う必要がある。このために仕事も誰でもできるようにマニュアル化されて、非正規雇用が増えた。経営家族主義は崩れ、経済合理性が先行し、経済格差という縦の関係が強くなる。

日本人はサービス業の効率が悪い、ITの活用が下手だと言われる。その理由の一つに慈悲エコノミーにある。本来は慈悲エコノミーはサービス業に向いているはずだが、向いているが故におもてなしなど仕事を超えてしまい、西洋人のように、労働を収入を得るための手段として割り切れない。職業は日本人として全うすべき職分であり、日本人としてのアイデンティティを支える。このような慈悲エコノミーの倫理によって、サービス業に求められる、労働を時間単価で売り買いするという割り切りが経営者、労働者ともに苦手である。また同じくITの活用で、仕事を無人化して効率化することも苦手である。




サービスは商品か、オマケか


そもそもサービスとは何か。経済学的には「物体のない商品である。」なのに、日本人が「サービスする」というとき、オマケ、ただという意味である。まさにここに慈悲エコノミーが現れている。この誤読が日本人のサービスを混乱させている。西洋では、サービスは商品であり、価格に合わせて、ファーストクラス、ビジネスクラス、エコノミークラスと分けられるのは当たり前である。そしてもっとも安いものが、セルフサービスである、ここで、ITが重要になる。ITを使うことで、セルフサービスでも便利になる。

しかし日本人には、サービスはただという感覚がある。これはまさに慈悲エコノミーから来ている。おもてなしとは、価格に関わりない精一杯のサービスである。むしろ価格と相関させることは、おもてなしを、すなわち慈悲エコノミーに反する。このような文化の中で育っている日本人は、低価格だから低いサービスしか受けられない。ITを使いこなす努力をしろと言われて、納得するか。しない。彼らは開き直りモンスター化する。これで日本のサービス業の効率が上がるわけがない。ガラケーが技術を抱え込んだというが、それにはモンスター対応の意味がある。iPhoneのようにマニュアルも付けないで、日本人の消費者が許すわけがない。アップルは世間の外にいるからよいが、ドコモは世間の中にいて、袋叩きあう。

これはサービス残業にも言える。サービスとはただである。これは経営者の話ではない。従業員は、慈悲エコノミーから、労働時間をオマケする。それは、いまも、最近まで、いや多分いまも行われているだろう。これは経営者からの脅迫でもなんでもない。美徳なのである。そしてまさにその美徳が、明治維新から百年で世界のトップレベルの豊かさに日本を引き揚げたのだ。