寺檀の思想 大桑斉 教育社歴史新書

pikarrr2017-01-02

1 寺檀関係の形成

十七世紀前半の半檀家的寺檀関係は、十七世紀後半、農民の家が広汎に形成されてくると、その家結合の精神的紐帯としての祖先崇拝を生み、その菩提寺として特定寺院との関係が固定化することによって、一家一寺制の寺檀関係が形成され、それらを基盤に、道場から発展した近世的な寺院が全国の村々に整理することになる。P86




2 寺請体制

寛文〜延宝期(一六六一〜八一)はすでに見てきたように、寺檀関係の展開・近世的寺院の広範な成立を基礎にして、寺檀制度=宗旨(しゅうし)人別帳・寺請制度が成立した時期であった。寺請制度が、宗旨人別帳によって確定された百姓・町人の身分を証明するものであるとするなら、その証明書はそれにふさわしい権威をもつものでなければならないし、またそれは、証明される民衆と区別される存在でなければならない。権威をもち、民衆と区別される存在ということであれば、まず第一に想起されるのは武士であろうが、実際には武士がこの権限を行使せず、寺がキリシタンでないことを証明するという形で身分証明を行う寺請制をとったところに、近世の国家=幕藩制国家というものの大きな特色があった。逆にいえば、幕藩体制というものは、武士の世俗的権威による支配のみで成立しえないのであって、宗教的権威がその支配の正当性を保証しなければ、国家として完結体となりえないような性格をもっているということである。封建社会=封建的思惟の世界は、人智を超えた絶対なるものを前提にしなくてはならない世界であり、これが否定されたとき近代という世界が開ける。・・・寺院は幕藩制国家の内で特殊な身分として確定されなければならないのであり、そのために寺社台帳の作成と新寺禁止令によってこれを固定しなければならなかったのである。特殊身分として固定された寺院のうち、特に支配階級の安泰を祈祷する役をもった寺は、その代償に寺領を与えられるし、それ以外のものは、民衆をして支配に従わせる役をあたえられて、その代償に檀家を附けられる。檀家制度とはこのような本質をもつものであり、寺請は、このような任務をもった寺が、幕藩制国家の敵であるキリシタンでないことを証明することにおいて、その民衆が、幕藩制国家の支配に従う領民であることを証明するものであった。P199-121




3 寺請体制の思想原理

農工商と、民衆の最上位に位置づけられながら、一方で賤しき業とさげすまされた農業を、心のもち方において煩悩をかりとる仏行となるとし、この農業に従う民は、天が授けた世界養育の役人であるから、農業そのものは清浄の業であり、天への報恩にほからなない、と(鈴木)正三はいう。心の持方によって職分は全て仏行になるという点に注目して、職分仏行説をいう名で呼ばれてきたけれど、それが役人であるという点に注目しなければならない。ここに正三の思想の特色があるからであって、職分役人説という方がより正しい。・・・

職分仏行役人説は、このように寛永八年頃から表明され始め、やがて僧侶も民衆教化の役人であるという考えに至る。冒頭に示した「仏弟子は煩悩業苦を治する役人」という文句は、この寛永八年の「四民日用」を増補した「三宝之徳用」章にあらわれているのであり、そのような僧侶の役人化は「公儀の御下知」なくしてはありえないというのが同じ慶安五年増補の「修行之念願」の章であった。ここに、寛永八年に始まった正三の仏教治国策は天草の実験をへて公儀の下知による僧侶役人化策、つまりは寺請制の思想の原型として成立したのである。P150-151




4 民衆仏教と教団仏教

唯心弥陀思想と名づけたこの思惟、つまり仏という絶対真理は、自分の心のうちにしかないのであって、自分をはなれて別個に存在して、外から自分にかかわるものではない、という思惟が、近世民衆の思惟の基本であり、民衆信仰のうちに様々な形で見い出されることをみてきた。唯心弥陀・己心浄土とストレートに表現するもの、身は仏になるという表現で仏との一体というもの、衆生の往生と仏の正覚は同時であり、その故に一体であるというものなど、その表現形態は様々であっても、仏と人間の本来的一体性の主張であることにはかわりがない。このようにいうとき、それは何も近世民衆信仰をもち出すまでもなく、大乗仏教の根本精神である一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)=あらゆる生きとし生けるものは、みなことごとく仏性を本来内在せしめている=という思惟ではないかといわれそうである。そうであるが故に、本来成仏主義が近世において民衆信仰の基本となって定着したことの意味を問わなければならないのである。そしてまた本来成仏主義は以下にみるように真宗では異端とされたこと、禅の正三、真言の慈雲など、どちらかといえば教団正統教学の場をはなれて、民衆教化をその立場とした人々に見出されたことのもつ意味を問わなければならないのである。いいかえれば、唯心弥陀思想=本来成仏主義は、近世では正統教団教学とならなかったところに、近世仏教の民衆と教団への二元分裂があるように思う。P184-185

民衆は、自己と仏との本来的一体性の信仰によって、その主体性の思惟を基礎づけた。唯心弥陀思想とはこの意味で民衆の主体性に権威の基盤を用意するものであった。しかし教団は、それによる民衆の主体的行為が、定まった方向性をもたない危険なものとみなし、その主体的行為をひたすら弥陀へ向かってたのむという方向づけをあたえることによって規制し、収斂したのである。・・・教団教学=蓮如イズムといわれるものは、無限の可能性・方向性をもつ民衆の主体的実践を、弥陀への帰命・報謝という信仰的世界にとじこめてしまうことを本質としたのである。従って教団教学は、方向規制としてあったけれど、民衆の主体性そのものを基礎づけるものではなかったから、民衆の主体的思惟が発展途上にある十七世紀前半から中期までは、成立しにくかったのであり、十七世紀末期をさかいとして、早くも民衆の主体性が危機にさらされ、自立を獲得しながらその限界性・弱さが自覚されてくるとき、それらに方向性をあたえてゆくことにおいて、教団真宗として強力に形成されていくことになったのである。・・・

十八世紀中期は以降になると民衆の主体性は強さよりもますます弱さの側面を露呈してくる。そのとき、強さの回復を求めて、唯心弥陀思想は「心の哲学」という形で民衆道徳に再編され、石門心学二宮尊徳の通俗道徳になって民衆にうけ入れられる。P204-206