なぜ日本は一人あたりのGDPが低くても豊かなのか 日本人は商品の中で祈っている


一人当たりGDPがイタリア並みでも日本経済は素晴らしい
塚崎公義 (久留米大学商学部教授)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/7677?layout=b


イタリアというと、「ローマ帝国の歴史は素晴らしいが、今の経済は低迷している」、という イメージが強いのですが、なんと2014年の一人当たり名目GDPは、日本とほとんど同じなのです。夏のバカンスを充分楽しみ、それ以外の時も「難しい顔をせずに」働いているイタリア人と、いつでも難しい顔で働いている日本人の年間GDPが同じだなんて、兎小屋に住むワーカホリック(日本のサラリーマンを指す昔の流行語。狭い家に住む働き中毒という意味)には、到底受け入れ難い統計です。

しかし実際には、日本人とイタリア人の豊かさは異なりますので、過度に悲観する必要はありません。今回は、日本とイタリアの経済の差について、考えてみましょう。はじめに、現在の日本人はイタリア人よりも豊かに暮らしているので、カリカリしなくても大丈夫、という話をしましょう。第一に、為替レートの話、第二に、品質の比較の話です。2014年は、円安ユーロ高でした。その時の為替レートで換算すると日本とイタリアの一人当たり名目GDPが同じだったという事は、その後に円高ユーロ安が進んでいることを考えると、今の為替レートで換算すると、一人当たり名目GDPは日本の方が遥かに大きい、という事になります。このように、為替レートが動くと「一人当たり名目GDPの国際比較」 が大きく変化するので、注意が必要なのですが、そのあたりの話は別の機会に譲りましょう。

いまひとつ、「日本人とイタリア人が同じものを使っている」という場合に、品質をどう比較するのか、という問題があります。たとえば日本の電車は非常に正確に動いています。5分遅れると社内放送でお詫びが流れます。そんな国はどこにも無いでしょう。少なくとも、イタリアは絶対に違います。その違いを無視して、「イタリアでも日本でも一人の乗客を100キロメートル運んでいるから同じGDPだ」といった計算をする事が問題なのです。豊かさという点では、電車が定時運行している国の方が豊かでしょう。その分がGDPの計算には織り込まれていないのです。


電車を定時運行するためのコストは、おそらく非常に大きいでしょう。たとえば、何かあった時のために交代要因が各駅に待機しているかもしれません。簡単な故障なら自分で修理できるように全員が講習を受けているかもしれません。

「30分までなら遅れても良い」ということだと、交代要因や修理工が30分以内に到着すれば良いですから、もしかすると会社全体の仕事量が1割減るかも知れません。そうだとすると、日本の鉄道はイタリアの鉄道より、1割多いサービスを提供しているということになるはずです。その分だけ日本のGDPが大きくなっても良いのでしょうが、実際のGDP統計にはその違いは反映されていないのです。

「5分遅れるとお詫びするのは過剰サービスだ。30分までの遅れは認める代わりに、運賃を10%引き下げるべきだ(あるいは鉄道職員は1割早く帰宅すべきだ)」というのは簡単ですが、問題は消費者が正確性を求めていることです。「頻繁に30分遅れるが10%安い鉄道会社」と「滅多に遅れないが料金が高い鉄道会社」があったとすると、イタリア人消費者は前者を、日本人消費者は後者を選ぶのでしょう。だから、両国で異なるサービスが提供されているのでしょう。なにしろ、製造業の世界でも、「日本の消費者は世界一うるさい。うるさい消費者に鍛えられたから日本製品は故障しにくいと世界で評判なのだ」と言われているくらいですから。




GDPにカウントされない無償のサービス


「日本の鉄道はイタリアの鉄道より、1割多いサービスを提供しているということになるはずです。その分だけ日本のGDPが大きくなっても良いのでしょうが、実際のGDP統計にはその違いは反映されていないのです」。「なにしろ、製造業の世界でも、「日本の消費者は世界一うるさい。うるさい消費者に鍛えられたから日本製品は故障しにくいと世界で評判なのだ」と言われているくらいですから」。貨幣価値化されなければGDPにカウントされない。日本人にはGDPにカウントされない非貨幣価値が高いために、実際のGDPでは評価されない豊かさがある、ということだろう。

たとえばトフラーは貨幣経済に対して非貨幣経済の富が同じだけあり、豊かにとって重要であると、指摘している。非貨幣経済とは、自給自足や主婦などの家事労働、DIYなど、あるいは最近では個人がネット上で公開している情報も個人が無償で作成して、社会に役に立っている。

今回の場合は、非貨幣経済の富でもポイントはサービスだろう。たとえば企業が個人へ提供するサービスは貨幣価値化された商品のはずであるが、日本では、サービスは「ただ」の意味があるように、「お客様のために」貨幣価値に還元できない以上に価値を提供しようとしがちだ。これは、おもてなし文化などと言われるように、日本人の習慣から来ているだろう。

日本人が、IT産業を上手く運営できない理由の一つも、IT産業の基本が、セルフサービスによるコストダウン、すなわち安いかわりに不親切、自己責任だからだ。そもそも日本人はサービス=親切が「ただ」なんだから、客はセルフサービスを手抜きとしか考えない。「世界一うるさい日本の消費者」は安価で高品質なサービスを求め続ける。(少し面白いのが、同族の日本企業には求めるが、アメリカ企業には求めない面がある。)

世界の富の創出の基礎にある・・・生産消費の価値が実際に、経済専門家が計測している金銭経済の総生産とほぼ変わらない規模があるのであれば、生産消費は「隠れた半分」だといえる。同様の推測を世界全体に適用し、とくに生産消費だけで生活している何億人もの農民の生産高を考慮すれば、おそらくは見失われている金額が五十兆ドルに達するだろう。

これらの点がきわめて重要なのは、知識革命がつぎの段階に入るとともに、経済のうち生産消費セクターが目ざましく変化し、歴史的な大転換が起ころうとしているからである。貧しい国で大量の農民が徐々に金銭経済に組み込まれていく一方、豊かな国では大量の人がまさに逆の動きをとっている。世界経済のうち非金銭的な部分、生産消費の部分での活動が急速に拡大しているのである。日曜大工やDIYの類に止まらない広範囲な分野で。この結果、まったく新しい市場が開かれ、古い市場が消えていく。生産消費の役割が拡大するとともに、消費者の役割が変化していく。医療、年金、教育、技術、技術革新、財政に大きな影響を与える。バイオ、ナノ・ツール、デスクトップ生産、夢の新素材などによって、過去には想像すらできなかったことが誰でも、生産消費者として行えるようになる世界を考えるべきだ。P294-296 


富の未来 アルビン・トフラー ISBN:4062134527




日本人は商品の中で祈っている


西洋では、電車で、老人や妊婦などに席を譲るのは当たり前。それに比べて、日本人はそういうことができない。シルバーシートなんかは日本人独特だろう。キリスト教は弱者救済が徹底している。社会福祉活動に参加するのは市民の義務。金持ちは必ず社会福祉団体へ寄付をする。このようなことが社会弱者を支える社会基盤になっている。だからアメリカの中間層の崩壊と言われているが、中間層が自由競争にさらされて厳しくても、貧困層の救済は手厚い。だから老後も安心な面がある。

キリスト教の弱者救済がこんな感じてわかりやすいのに対して、日本の場合は、仏教の慈悲から来ているので複雑だ。まず仏教では一切皆苦なので、みんなが弱者だ。だから慈悲は弱者救済ではなく、豊かさに関係なくみなが慈悲を施すことが求められる。さらに繊細なのは、みなが弱者なので、簡単に弱者と宣言できず、自己努力が強く求められる。そして助けられることが恥であるとう価値がある。

だから電車で席を譲るにしても、このような複雑な関係が生まれる。「譲って相手を弱者扱いして失礼でないか」、「周りから強者ぶってかっこつけていると思われないか」。様々な場面でこの慈悲の複雑さは、日本人の人間関係を複雑にしている面がある。

日本人の慈悲が、他者への直接働く場合に複雑であるのに対して、特に江戸時代以降に有効に働いてきたのが、職分主義だ。みながそれぞれ自分の仕事を世のために懸命にやれることで、世の中が豊かになる。間接的な慈悲行である。そしてこれが日本人の勤勉さへ繋がる。勤勉さとは自らのためにだけに懸命に働くのではなく、世の中のためになるよう働く。

結局、現代の日本人もこの複雑な人助けを継承している。老人や妊婦に席を譲るのは苦手だ。だからシルバーシートなんて義務化してもらえると助かる。一方日本人の本当の慈悲は、海外に比べて、電車の性能の良さ、清潔さ、快適さ、時刻に正確なシステム、そして鉄道員のお客様への対応の丁寧さの中に間接的に行われている。




日本人の慈悲とは「人に明るく優しい顔で接する」こと

慈悲は他者に対してのみあらわれるものであるから、その具体的な顕現のすがたは他人に対して何ものかを与えるということになる。「檀(dana 与うること)は慈相たり、よく一切を救ふ。」しかし他人のために何ものかを与え奉仕するということも、空の精神にもとづいて行われなければならない。したがって、ときには慈悲と施与とが殆んど同義に解せられていることがある。

後代の仏教においては、他人に対する奉仕に関して「三輪清浄」ということを強調する。奉仕する主体(能施)と奉仕を受ける客体(所施)と奉仕の手段となるもの(施物)と、この三者はともに空であらねばならぬ。とどこおりがあってはならぬ。(心地観経)もしも「おれがあの人にこのことをしてやったんだ」という思いがあるならば、それは慈悲心よりでたものではない。真実の慈悲はかかる思いを捨てなければならぬ。かくしてこそ奉仕の精神が純粋清浄となるのである。P128-129


慈悲 中村元 講談社学術文庫 ISBN:4062920220


宗教では「神の無償の愛」は珍しくないが、慈悲の特徴の一つに「三輪清浄」がある。たとえば見ず知らずの人から突然1億円上げるといわれたらどうだろう?なにか裏があるんじゃないか、怖くなる。これは贈与と返礼の関係で、人は贈与されると負債を感じてことからくる。だから無償の愛はすることも難しいが、受けることも難しい。だから神のみが可能な行為とされる。

仏教にそもそも神はいないので、慈悲は人がする行為だ。すると、慈悲を与える人はただ与えるだけでなく、受け取る側のことまで考慮して、はじめて慈悲となる。それが三輪清浄だ。与えるときに強者と弱者の関係が生まれないように、受け取る側が不安にならないような配慮が必要だ。

慈悲は単なる無償の愛ではなく、人が神にできるだけ近い「無償の愛」を与えられるようになるための技術であって、すなわち人が空観に至るための修行だ。だから神の領域「無縁の慈悲」までにステップが踏まれている。

キリスト教圏では、弱者救済は一つの意識的な行為だろうけど、日本人の慈悲は、日本人全員が行うよう慣習に埋め込まれた集団的な行為である。西洋人は勤勉に働くことや、「明るく優しい顔で接すること」、「温かい言葉をかけること」を、弱者救済、無償の愛とは呼ばないだろう。

大乗仏教の思想体系の理論的建設者であるナーガールジュナは、慈悲に三種類あることを認め、無縁の慈悲の究極者的性格を明らかにしていう。・・・恐らく現実の社会において、多くの個人と個人とが対立している場面を意識しつつ慈悲を及ぼすことが「衆生を縁とする慈悲」であり、個人存在或いはそれを関連がある諸種の物を個別的な要素に分析して、それらは独立な実体でないと思って、執着を去って他人に何らかの物を与えて奉仕すること、すなわち小乗仏教における慈悲行、が「法を縁とする慈悲」であり、諸法実相である空(=如来)を観じて行う慈悲が「無縁の慈悲」なのであろう。P112-116


慈悲 中村元 講談社学術文庫 ISBN:4062920220

布施 ふせ ほどこす
人のために惜しみなく何か善いことをする。善行には有形と無形のものがあります。有形のものを財施といいます。お金や品物などを施す場合です。

無形のものは、
● 知識や教えなどの法施
● 明るく優しい顔で接する眼施・顔施
● 温かい言葉をかける言施
● 恐怖心を取り除き穏やかな心を与える無畏施
● 何かをお手伝いする身施
● 善い行いをほめる心施
● 場所を提供する座施・舍施、などがあります。
施しは、施す者、施しを受ける者、施すもの、すべてが清らかでなければいけません。
欲張りのない心での行いを施しといいます。あえて善行として行うとか、返礼を期待してはいけません。
また受ける側もそれ以上を望んだり、くり返されることを期待してはいけません。


やさしい仏教入門  http://tobifudo.jp/newmon/etc/rokuhara.html




日本人の「清らかさ」へのフェティシズム


日本人の善人のステレオタイプに、人助けをして名乗らずに消えると言うのがある。まさに慈悲的だ。名乗らず消えるというのは、見返りを求めない。助けられた人に恥を欠かせないという、「清らかな」人助けだ。周りから見返りを求めていると思われるのをよしとしない。

2ちゃんねる発祥?の「やらない善よりやる偽善」はなかなか深い。これが日本人的なのは、やらない清い善より、やる汚い善、というユニークで、日本人の人助けへのナイーブを脱臼している。

日本人が無宗教であるというのも、何ものにも染まらない清らかさか、そして神道は宗教ではない日本人としての清らかさだ。この論理は明治に近代化による信仰の自由をうたいながら、国民を国家神道へ向かわせた原理だ。

日本人のこの清らかさがどこから来たのか。もともと日本は川の国だ。溜まる池や沼とは違う、また海とは違い、雨が山で浄化され流れる清らかな川は飲み水から食糧の源として大切だった。その意味で古くは、縄文時代から特別であってもおかしくない。また日本書紀には、日本土着の畑の土の文化と、弥生時代に伝来した水田稲作の水の文化の対比があり、いまの天皇に連なる神々は水の文化であり、清らかであることが神の特性の大きなものとなり、現代まで神道の基本である。

さらには仏教の伝来は日本人の清らかさへフェティシズムを加速させたと言われる。仏教も先の三輪清浄で上げたように清らかさの文化がある。これを受け入れるとともに、神道はより清らかさを過敏となる。それが「穢れ」の嫌悪である。「穢れ」の概念は日本書紀からあるが、伝染病のように怖がるぐらい過剰にさせたのは仏教の影響と言われる。その結果、神道は仏教よりも清いという、現代の神社とお寺の差異に見られるような、神聖で清らかな神道、そして濁りを清らかにする役割としての仏教という日本人独特の対比を生み出した。日本での仏教が葬式仏教であるのは、最大の穢れである死穢を清め成仏させたのは仏教のみが持つ力による。「死体穢れ観」から「死体往生者観」へ。




資本主義の精神と慈悲


そしてこの力が、江戸時代には、泥にまみれる農業や金を儲ける商業の卑しさを清めて、職分への勤勉さへ転倒させた。この勤勉さは日本近代へ繋がり、西洋における「資本主義の精神とプロテスタンティズム」と対比される。

ただし西洋における「資本主義の精神とプロテスタンティズム」が資本主義の黎明期のみであったと言われるのに対して、日本では現代まで続いていて、GDPにカウントされない非貨幣価値のサービスを提供し続けている。こんな日本人の特殊な資本主義経済って、経済成長率や、一人あたりのGDPで語ることができるのだろうか。

一人当たりGDPがイタリア並みでも日本経済は素晴らしい  つづき。
バブル後の長期低迷は、日本人の勤勉と倹約の結果
塚崎公義 (久留米大学商学部教授)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/7677?layout=b


バブル崩壊後の日本経済は、長期にわたって低迷を続けました。日本人がサボっていたなら諦めもつきますが、なんと「真面目に働いたので大量の物が作られ、倹約したので物が売れ残り、不況になった」のです。アリがキリギリスに負けたような、悔しい話です。詳しくは末尾に御紹介した拙稿を御覧下さい。

不況になれば、企業は物を作らないので、GDPは増えません。新しい工場も建ちません。企業が人を雇わないので、失業した人は消費をしません。つまり、物が売れないと、廻り廻って一層物が売れなくなる、という悪循環が20年以上も続いて来たわけです。

作った物が1割売れ残るのであれば、日本人が働く時間を1割減らしてバカンスに行けば良いのですが、働き中毒たちは、そうは考えませんでした。「こんなに働いても貧しいのだから、もっと働こう」と考えたのです。ここは、イタリア人に学んでも良かったのかも知れません。しかし、悪いことばかりではありません。少子高齢化が進んだので、団塊の世代が定年退職したのです。「人口の10分の1が定年になり、毎日が日曜日になった」ので、「国民全員が年の1割をバカンスで過ごす」のと同じことが起きたわけです。