日本人の右翼思想のパラドクス


■古くはプラトン以前とプラトンとの違い、あるいはプラトンアリストテレスの違いにまで遡り、スコラ神学者においては神の存在の弁証可能性をめぐる対立として再燃した、「主意主義主知主義」の対立がある。厳密に、前者が右翼、後者が左翼である。

■色々な規定が可能だが、主知主義とは〈世界〉を知識で覆える(神を合理的に弁証できる)とする立場、主意主義とはそれを否定する立場だと考えるといい。主意主義がそれを否定するのは、意思を知識に還元できない端的なものだと見做すからである。

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日本人は自分たちのことを世界的に標準的な人間だと考えている


日本人の面白い特徴に、自分たちのことを世界的に標準的な人間だと考えていることがある。日本人が考える標準的な人間とは、どこかに偏った信念、信仰、思想、考え方を持たない人間ということだ。この日本人が考える標準的な人間のイメージは、無色透明だ。

これは何重にも間違っている。まず世界的に標準的な人間などいない。あえて世界的に標準的な人間を上げるとすれば、他者に対して、自らが帰属する文化や信仰などを自信をもって主張することができる人ということだろうか。日本人が考える偏った信念、信仰、思想、考え方を持たない人間とは逆である。世界的には、無色透明な人間はとても無気味な存在と考えられるだろう。




日本人は古代より清浄性を重視してきた


この無色透明なイメージは、日本人が古代より理想としてきた人間像である。日本人は古代より、人間の理想として清浄性を重視してきた。偏った信念、信仰、思想、考え方、自己中心的、私利私欲、強い欲望を、持たない存在。その象徴が天皇である。日本の天皇は古代より頂点に存在しきた世界的にも希有な存在であるが、それを可能にした一つの理由がこの清浄性にある。その時代時代に真に実力をもつ権力者がいたが、天皇が生き延びてこれたのは、権力闘争を超越した清浄な存在という位置を、日本人が尊んできたからだ。

たとえば戦前の軍国主義は、無色透明のイメージとはほど遠い。日本人を悲惨な戦争へ導いた汚れたイメージである。しかし軍国主義へ導いた満州事変や226事件などの青年将校たちによる「昭和維新」は、まさに清明性によって行われた。昭和恐慌もあり国民が苦しむ中で、権力や富を独占する政治家や財閥という汚れを、天皇の清浄性に基づく公平な国民国家を作るために、排除しようとした。この青年将校たちの清明性を国民も英雄視した。そして軍国主義国民国家を上げて進められた。




右翼でなかろうとするほど右翼になる日本人のパラドクス


最近、教育勅語が問題になっているが、ここにも清浄性が働いている。現代では教育勅語は過去の戦争をイメージする、日本人の清明性にとっては汚れでしかない。だから嫌悪する。戦争へ導いたのは教育勅語ではなく、日本人の多様な価値を認めない清浄性である。そしていまも日本人は基本的には変わっていない。きっかけがあれば、清浄性はまた聖戦へ向かうだろう。

日本人が考える標準的な人間、どこかに偏った信念、信仰、思想、考え方を持たない人間は、世界的な標準ではなく、日本人に偏った考え方である。そして日本人は世界的に標準的な人間ではなく、とても独特な文化をもった人間である。その清浄性によって日本人は右翼である。

右翼や左翼ではなく無思想であろうとする日本人に独特な古来からの伝統的な美学を、右翼という。右翼でなかろうとするほど、右翼になる日本人のパラドクス。日本人が目指す無思想は世間に支えられている。無思想とは島国日本人にみんなと同じであるということ。

Wiki 教育勅語
12の徳目

1 .親に孝養をつくしましょう(孝行)
2. 兄弟・姉妹は仲良くしましょう(友愛)
3. 夫婦はいつも仲むつまじくしましょう(夫婦の和)
4. 友だちはお互いに信じあって付き合いましょう(朋友の信)
5. 自分の言動をつつしみましょう(謙遜)
6. 広く全ての人に愛の手をさしのべましょう(博愛)
7. 勉学に励み職業を身につけましょう(修業習学)
8. 知識を養い才能を伸ばしましょう(知能啓発)
9. 人格の向上につとめましょう(徳器成就)
10 .広く世の人々や社会のためになる仕事に励みましょう(公益世務)
11. 法律や規則を守り社会の秩序に従いましょう(遵法)
12. 正しい勇気をもって国のため真心を尽くしましょう(義勇)

以上のごとく見れば、利福禍害を意味するヨシ・アシから進んで利福禍害を越えた善悪の価値を把捉していた上代人が、その同じ価値を清さ穢さの価値として一層に確実に把捉(はそく)していたゆえんが明らかとなるであろう。彼らは行為の祭事的団結において自覚したのである。天皇の神聖な権威への帰依が彼らにとって清明心であった。「私」を捨てて「公」に奉ずるところに、清さの価値は見いだされた。その同じ態度心構えが同時にまたヨシ心として是認賞讃せられるのであるが、しかしそこ自覚の地盤が天皇尊崇であったという理由によって、それは「善心」としてよりも一層明白に「清明心」として把捉されたのである。
かくして「清き心」の伝統は、天皇尊崇の立場の一つの顕著な特徴として、この後の倫理思想の潮流の中に力強く生きている。

日本倫理思想史(一) 和辻哲郎 P124-128 ISBN:4003811054