日本の政治には世間という魔物が住んでいる 保守とリベラル5

会社は世間のためのもの


日本の企業のワークシェアリング的な特徴に再配置がある。大企業の一つの事業部門が経営悪化で縮小することになると、その事業部門の人員配置は他の事業部門や子会社に再配置される。これは、従業員の正社員利権をまもるためだ。職の流動性が高く、能力主義の西洋なら、縮小する事業部門の人員は回顧され、他の事業部門で人員が必要なら、その場の賃金と能力に合わせた従業員を新たに雇うだろう。

日本企業の慣例である再配置は、日本企業が背負う社会的な責任である。日本では企業は収益に合わせた人員を雇用して、その職の安定を保障しなければならない。これを作動させるのは労働組合であるとともに、世間である。不当に労働者を扱う企業は世間圧により信用を失う。それは新卒の就職の回避や、ひどいときには不買運動にもつながるだろう。会社は誰のものかという問いがあるが、日本では株主のものであるとともに、従業員のものであり、また世間のものでもある。




なぜ日本の与党は野党と根回しを繰り返すのか


日本の政治では、法案を通すためになぜこれほどの根回しをするのか、という不思議がある。与党内、官僚、関係団体、そして政敵の野党とも合議を繰り返す。簡単に国会で多数だから、採決すればいいと言うものではない。特に野党との合議を繰り返す理由の一つが、世間との調整の意味がある。できるだけ合議を目指して討議する姿勢がなければ、世間から独断的と批判され、たとえ採決で法案が通っても、信用を失う。信用を失うと、次の選挙が困難になる。世間はその法案の内容そのもの以上に合議を目指し努力する真摯な姿勢を見ている。逆に言えば、与党に真摯な姿勢が見えないと世間にアピールすることが野党の重要な政治手法となる。これは日本に独的な現象ではないだろうか。

西洋では頻繁に政権政党が変わる。日本で、世界的に珍しい自民党一党の政権が続いて、偏った人々に優位で、国民全体の利害調整はできるのか、という不思議がある。その一つの理由が強い世間圧にある。自民党は、官僚、関係団体との関係が深いとともに、世間圧た敏感だ。それが長く政権を続ける理由の一つだろう。

一時期政権を担った民主党政権は、自民党の合議的な運営を嫌い、上層部のトップダウンで方針を決定し、官僚、関係団体との調整を重視しなかったと言われる。そして世間圧という右派的なものを好まずに、合理的と思われる判断で進めた。その空気の読めない嫌な記憶は今も世間の中に残っているのでないだろうか。




日本の政治には世間という魔物が住んでいる


モリカケ問題はまさに世間圧の世界である。おそらく安倍首相を弾劾する法的な根拠も、証拠も出てこないだろう。野党もそれはわかっていて、世間圧を煽る。「忖度」とはなんだろう。よくこんな言葉を使ったものだが、法的には全く意味がないが、なにか悪いことがあったように世間圧を誘導するには効果的なマジックワードだ。世間圧という空気の世界で、安倍首相はこれ以上何をすればよかったのか?特に連日マスコミがネガティブキャンペーンを繰り返す。

結果的に、解散総選挙は予想以上の大成功だった。まさか野党自ら崩壊するとは。野党議員は世間の空気の誘導に成功しながら、選挙では支持されないことを知っていた、その逃げ足はあまりに早かった、安倍叩きを先導したリベラル左派たちからいち早く距離をおく。自分たちのやっていることが下品であることの自覚はあったのだろう。しかしまたその逃げ足の早さも下品だった。




マスコミは日本最大の左翼団体


世間を操作すること、作り出すことが得意な人々がマスコミだ。マスコミが政治的な偏向報道に熱心な理由の一つは、小選挙区制になったことにあるだろう。いままでの中選挙区制では1つの選挙区で複数人当選するために必ず自民党員が一人は当選していたが、小選挙区制では各選挙区で一人当選者が決まるため、全国的な扇動に成功すると大量の当選が可能になる。まさにマスコミの扇動力が発揮されやすく、俄然やる気をだす。

小選挙区制を上手く利用したのが小泉政権だが、小泉は巧みに世間圧を誘導し成功した、その弟子の小池百合子も世間圧の誘導には長けていることは都政を見ればわかる。しかし今回は展開が早すぎて上手く乗りこなせていないが。

民主党政権の成立ではマスコミの誘導、自民党へのネガティブキャンペーンが成功した。マスコミが自民党は利権を隠しているよう報道し、民主党はそれを埋蔵金と呼び、口当たりのよい政策を並べ立てた。しかし結果は埋蔵金などなく、ほとんどの政策は実行されずに終わった。単に報道するのではなく、実際に政治を変えることができた。その成功体験が世間誘導を向かわせる。その意味で、マスコミは現在日本最大の左翼団体とていい。

その中でボクは、安倍首相は比較的世間という空間の誘導よりも、結果重視に実直に政治運営をしていると思う。世間を操作するより、真摯な向き合いことで理解を求めるという姿勢を大切にしている珍しいキャラクターではないだろうか。




日本人は世間の空気を読めない原理主義が嫌い


日本人は法そのものを理解できない。法は、利害が対立する両者の利害を調整するものだ。多民族、多宗教の間の決して分かり合えない関係の社会から生まれた。それに対して、日本人は法を真実を明らかにするためのものと考える。日本人にとって真実は必ず一つであり、全員が納得する真実があると考えている。桝添叩き、安倍叩き、タレントの不倫叩きでは真実を求める。しかしそれは法ではなく世間の道徳だ。

世間にとって、血筋、家柄、国家権力、独裁者だろうが、関係ない。彼らも日本人であり世間の一人でしかない。そして真実は一つであり、何者も逃れられない。いかなる法が作られようが、それが真実を違うなら法を変えればよい。なぜなら日本人なら真実は一つだから。だから自民党がずっと与党でもなんの問題もない。彼らも世間の一部でしかなく、世間を見ながら政治を行う。

ただリベラルが面倒なのは、西洋かぶれで真面目で、世間の空気をよめない。だから日本人をやめて国際人だとかほざいて、調子にのって世間と対立する可能性がある。日本人はキリスト教や左翼など、原理主義的なものが大嫌いだ。なぜなら同じ日本人なのに、世間の空気を読まず、世間に対抗する。世間とは異なる真実を作ろうとする。




世間の成立


世間が政治へ大きな影響力をもつのはなにも最近のことではない。

武士と世間 なぜ死に急ぐのか 山本博文 中公新書 ASIN:B00LMB0A5Q
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20160316#p1


「世間」が人の行動の是非を判断するものとして立ち現れてくる。元禄期には一般に成立。
藩は事件の処置について世間の評価を神経質なまでに気にしていた。
世間を騒がせたこと自体が重い罪状になりえた。
武士の名誉が世間が認めるものだった。
武士は戦闘者であり、支配者階級であったため、死を怖れない強い精神力が必要とされ、武士にふさわしくない行動をした場合は自ら死を選ぶ倫理と能力をもつとされていた。
支配身分である武士には、その身分に伴う厳しい倫理が必要であり、威厳が保てない。
社会が安定してくると、幕府の権力者や将軍までもが、世間の評判を気にするようになる。配慮しなければ悪い評判がたち、ひいては自らの権力や地位・立場を左右する可能性があった。
町人は「世間」に背を向けて利欲や恋愛に生きることが許されたが、武士にそういう自由はない。
「世間」の評判こそが「武士道」の規定となった。武士の「世間」は、他の階級の「世間」に比べてはるかに厳しい倫理を要請した。
自分の親や子供までが武士社会から爪弾きにされる。先祖の名字は傷つき、家は断絶することになる。

権力史観では、応仁の乱のあと、戦国時代の混乱に入る。それを、信長、秀吉、家康によって、江戸時代の統一へ至る、と考えるが、一方で民衆史観を考えなければならない。戦国時代、国が混乱する中で、平安時代からの荘園制が崩れ、イエが集まった自治惣村が成立してくる。むしろ自由に豊かになっていく。ムラは中に、武士、商人、お寺を持ち、治安、司法、経済を内包した。

秀吉が行ったのは、全国のムラムラを統治することだ。太閤検地は管理するだけでなく、中間搾取を排除し、より直接、ムラから効率的に税をとる。刀狩りは、ムラから暴力を一掃する。代わりに秀吉が治安を守る。さらに家康は檀家制によって、すでにムラムラにある寺を整理して、農民の住人台帳を作らせて、管理する。

ようするに、すでにあるムライエと対立するのではなく、それを活用し統治するよう進めた。だからムライエのもつ自治や生産性向上は任せた。いわば、日本の荘園制に近い体制が残り続けた西洋の農奴制とは違う。左翼は、すぐに西洋の農奴をもとにした差別史観をそのまま、日本の農民にも展開するが、それが大きな間違いである。

江戸時代以降も、ムライエは自立的な大きな力を持ち続けた。その具体的な現れが一揆であるが、一揆は単なる反乱でもましてや革命ではなく、正統な法を越えた武士層への訴える方法であった。日本で近代革命が起こらなかったのは、ムライエは自治権をもち革命を起こす必要が無かった。明治維新でも、戦国時代、江戸時代、明治、そして現代まで、日本の基盤としてのムライエは変わっていない。世間はそのようなムライエをもとに、江戸時代の平安と豊かさの中で生まれてきた日本の公平性の倫理である。