2ちゃんねるという怪獣バスターズ

「名無しさん」という幽霊
2ちゃんねるの「名無しさん」は匿名であるが、「名無しさん」という一人ではなく、複数人いると考えている。これはなぜだろう?

「名無しさん」という言葉は、反復可能性があり、コンテクストにより様々な発言(散種)を生む。ここでは「名無しさん」という言葉の同じもの性が匿名性を支えているといえる。このためにすべて同一人物の発言か、すべて異なる人物の発言か特定できないのである。しかしコミュニケーションが発生すると、「名無しさん」という発言者間に差異が生まれ、「名無しさん」という発言者が姿を現す。それは同じもの性(発言者)の継続の可能性が、反復可能性により様々な発言(散種)をしていると考えることができる。すなわちコミュニケーションが成立しているということが、匿名性の中に発言者の姿を浮き彫りにするのである。

ソシュール言語学においては記号の意味はつねに差異の体系により規定される。これに対して、デリダは記号の「引用可能性」により、記号の同じもの性はもともと指示していた意味と切断されうる、すなわちコンテクキストにより無限の意味をもつとして、ソシュールの差異の体系を否定している。

そして上述の「名無しさん」の例が示すのは、デリダ的記号意味からソシュール的記号意味への移行である。これはコミュニケーションに拘束されたときソシュール的差異の体系は現れ、拘束されないときデリダ的に差異は消えるというまるで量子効果!?的な記号の姿である。すなわち言語(記号)は引用可能性であるために無限の意味へ発散するが、コミュニケーションの深度(コミュニケーション可能性)において差異の体系へと収束する。

これはパロリチュール(書き言葉による会話)の特性であろうか?パロールでは発信者の同じもの性は現前として現れている。エクリチュールでは、たとえば著者として発信者の同じもの性は保障される。しかしほんとうだろうか?たとえばパロールにおいて相手が双子で変わられたら?エクリチュールにおいて共著、または編集者により書き換えられていたら?

幽霊化から怪獣化する記号
デリダ脱構築は西洋の評価が確立したテクストに限られるという批判がある。また「テクストの外はない。」という記号の解体(記号消費)に限定する姿勢がある。ここに示されるのは、もはや主体とコミュニケーション不可能なものへコミュニケートする方法の提示であるとも考えられる。

コミュニケーションの深度(コミュニケーション可能性)により主体へのコミュニケーションの方法が変わるのならば、パロールエクリチュールということではなく、コミュニケーションの深度(コミュニケーション可能性)により脱構築の方法論か変わるはずである。そしてパロールまたはパロリチュールにおいては、積極的にコミュニケートしょうという脱構築方法は有効ではないだろうか。

しかし現代の記号はさらに複雑化しているのである。かつて幽霊(反復可能性)を作り出すことは権威の特権であった。だからデリダ脱構築形而上学や法に向かう。しかし現代において幽霊(引用可能性)は、複写可能性を導くということである。現代では複写技術の発達が、社会をドラスティックに変化させている。そしてここには複写技術の力が存在する。複写可能性においては、隠された意味を技術力が増幅している面である。そして幽霊を作り出すことはマスメディアを媒体として社会権力化している。さらにここではデリダは権力側に属しているという事実である。

さらには記号は、このようなマスメディア権力だけでもない。記号は高度情報化により大衆を巻き込み、記号組織化(記号の自己組織化)し、世界が記号虚像化しているのである。もはや幽霊は主体を離れ自立的に成長している怪獣化している。そして怪獣をあばくことは主体にコミュニケートすることだけでは困難である。「女子校生」という幽霊を暴くために女子高生とコミュニケートしてもそこに主体はいない女子高生も客体でしかないからだ。

怪獣はデリダ派という仮面ライダー群による脱構築では不可能である。現代においてもっとも大きな記号解体装置はネットスペース(2ちゃんねる)ではないだろうか。そしてその「暴露」、「解体」性は欲望であり、さらに徹底的である。2ちゃんねるは社会的幽霊を暴きながら、みずから幽霊を作りだし、さらにそれを暴こうとする。そしてこの怪獣を脱構築しえるのは、ネットスペース(2ちゃんねる)という徹底的な記号解体装置ではないだろうか。
「怪獣ってどうよ?」