(2ちゃんねる哲学板)2ちゃんねるの負の要素 

223 :ぴかぁー :04/02/25 11:38

デリタ思想の重要性は引用可能性であり、デリダ脱構築ではない。引用可能性は言語意味の拡散により相対主義へ向かいます。それを慎重に扱うために考えられたのがデリタ流脱構築ですが、サイードジジェクなどに指摘されているように記号の引用可能性の力の前では真面目過ぎる。そしてわれわれは現にそのような相対主義的発散をのりこえて生きているわけです。
2ちゃんねるという解体装置に期待するのは相対主義そのものである2ちゃんねるがある種の秩序を持ち得て成長しえている事実です。そしてその核が人格消費ではないでしょうか。すなわちコミュニケートしたい、わかりあいたいという根源的欲求があるということです。解体するだけすればよい。だからといって発散はしない。なぜなら我々はそれでもコミュニケートしたいからです。これに対して、デリダの物言わぬ死者の書にのみ向かう姿勢は彼自身の閉塞感につながっていると思います。
さらには記号の引用可能性という幽霊は複写可能性により怪獣化している。そしてそれに対抗するのはネットにおける検索可能性です。記号検索され羅列された大量の記号群には価値の相対化がありません。くだらない言葉であろうが、権威者の言葉であろうが、まっとく並列に現れます。そこでは価値観は我々自身にゆだねられています。

228 :天才的電波 :04/02/25 12:49

「わかりあいたい」ですか?「わかった」つもりになりたいのではなく?名無しどうしで(コテを複数の人が使用する場合も)相互理解はありませんよ。過去の自分が無い(あやふやな)ために、自分の「理解」と言う行為、そしてそこから発生した行為も、主体にとって無かったものになるからです。過去の自分は現在の自分とは異なりますが、他者に干渉するならば、現在の自分は過去に対して責任を負わなければなりません。なぜなら、他者への干渉は他者に自分を確認させることだからです。

その逆が無視です。上記の「わかった」つもりというのも一種の無視で、これにより、主体は、主体にとって不可能な種類の他者への干渉を可能であると認識します。このことからくる自己満足こそが、2ちゃんねるの負の要素なのであって、だからこそ何かを論じるときにはコテが必要だ(番号などで呼ぶ、偽コテ禁止)、と暗黙の了解を得ているのではないですか?

229 :ぴかぁー :04/02/25 13:00

わかりあいたいという欲求とわかったつもりという理解は次元が違いぶつかりあいません。
過去への責任ですか。確かに「名無しさん」という幽霊(反復可能性)は非時間的ですね。しかしコミュニケートすると、「名無しさん」という発言者が実体化するこれは発言者とともに発言者の生きてる時間がリンクしてくるわけです。だから「名無しさん」に時間がなくとも発言者には過去はありますよ。どこにあるか?発言者の記憶の中です。それに責任を持つかは発言者のモラルにゆだねられます。あなたはだれもみていなけれは、どのような行動をしますか?という社会的モラルです。逃亡する殺人者はつかまる可能性に恐怖しながら、つかまらない可能性にも恐怖する…

さらにこれが2ちゃんねるの負の要素というときにはなににとっての負でしょうか?実はことが大切なことですね。悪名高きにちゃんねる!なににとっての悪?そしていまこれを問うているのですね。「正」、「負」とはなんであるか。これがにちゃんがポストモダンを越える最大の山場でしょう。

デリダ脱構築という主体なき過去へ向かいそこから社会的「正」を解体しようとした。しかしエクリチュールにより開かれた過去とは、プラトンデカルトなどのすでに社会「正」とされるものを辿るしかない。それは過去そのものでなくすでに価値をもった「正」でしかない。だからサイードの「社会的「正」の広報活動でしかない」というような指摘がでる。2ちゃんねるは今を徹底的に解体する。プラトンを解体するのでなく、現代のプラトン信者とコミュニケートし解体する。

234 :天才的電波 :04/02/25 14:24

2ちゃんねるの負の要素とは、非生産性の拡大です。過剰すぎると、脱構築を通り抜け、構築自体を否定してしまう点です。名無しと他のHNとの違いは、名無しだけは何もしなくてもHNとして表示されると言うことです。これは、AとB両者の意思疎通の上で、AがBにAを確認させる(またはその逆の)義務を怠っていることを、名無しが示すということです。だから、(番号による呼称やトリップなどで)コミュニケートしている時点で、本来は、その名無しは名無しではないのです。

スレは議題が無ければ成り立ちません。しかしそのスレの参加者が名無しだけならば(情報提示者のぞく)、名無し同士には理解が成り立たないので、議題について考える点で2ちゃんねるに来るメリットはありません。また、情報提示者としての名無しは、情報を教えてくれるというメリットを持つようですが、議題について考える点では、何のメリットも持ちません。名無しだけの2ちゃんの生産的な面は、結論を導くための情報の集合体をうみだすだけで、結論は各自にゆだねてしまうのです。

上記のことから、2ちゃんねるは情報源として有益であると言えそうですが、ここでコテハンの魔の手が忍び寄ります。(スレの流れもコテハンと同じ役割をします)つまり、結論を与えられた情報源から導き出そうとしてしまうのです。結果、情報源は、干渉するコテハンの思考の複製に近いものになってしまいます。これでは、2ちゃんは、不特定多数の主体が利用できる有益な情報源ではなくなってしまいます。

236 :ぴかぁー :04/02/25 14:40

いや、「負」という価値観はどこからきたのか?ということです。誰にとっての「負」かということです。局所分析に入りすぎると見失いますよ。

237 :考える名無しさん :04/02/25 14:42

ゲームは、勝ち負けの結果で楽しむのではなく、そのゲーム過程がたのしいんだよね。2ちゃんねるも結果無視、なし「ゲームの過程」だけが、づ〜とつづく。

238 :ぴかぁー :04/02/25 14:45

脱構築を通り過ぎて構築を否定?脱構築とは解体のことですよ

239 :天才的電波 :04/02/25 14:58

すいません、構築の否定とは、真理(真の真理は、真理はありえないということを示す真理以外にありえないという真理でもいい)の無条件否定という意味で使ってしまいました。負と言う価値観は、利用者にとって、という事です。

240 :ぴかぁー :04/02/25 15:04

そうですね。2ちゃんねるの素晴らしさはかぎりなき相対化、絶対化幻想を生まないところですね。「名無しさん」は非時間性の中で無限に解体ゲームをし続ける。私たちは時に「名無しさん」となりゲームをたのしむ。人格消費とは、価値の断片を広い集めて価値を作り、「どうよ?」と提示しまた解体される。これは「社会的には」非生産行為かもしれない。しかしニヒリズムを徹底し繰り返しつづけることにより「超人」?になれるのです。というのはギャクですが、「超人」でなく「チョージン」にはなれるかもしれません。「チョージン」とはへーゲルの「人間」を乗り越え、「動物化」を乗り越えたところの人です。

241 :ぴかぁー :04/02/25 15:11

とうとう記号消費されましたね。お得意の真理主義ですか。真理がないという真理ですか。ニヒリズムですね。残念ながら真理があるかないかもわかりません。真理がないことも解体されますから。ご愁傷様です。真理がないと食事も喉が通らず、夜も眠れませんか?と人格消費へ向かう…

しかし2ちゃんねるは真理を否定しませんよ。ただ解体するだけです。あることも、ないことも。そして人格消費に向かう。「真理はある」という記号のパフォーマティブな意味は、「真理に救われたい」であり、コノテーションはたとえば「だれか助けて」です。人格消費をこれを暴いていくのです。なにが不安なんだ?。裕福な家庭はいいが、それはまた圧力だから自立してみれば・・・「名無しさん」だから話せることもある。パロリチュールにはコミュニケーションを相互理解を、純化する面もあります。