記号論的、噂話的 さよならジャック・デリダ

記号論的、噂話的 さよならジャック・デリダ

しかし現代の記号はさらに複雑化しているのである。かつて幽霊(反復可能性)を作り出すことは権威の特権であった。だからデリダ脱構築形而上学や法に向かう。しかし現代において幽霊(引用可能性)は、複写可能性を導くということである。現代では複写技術の発達が、社会をドラスティックに変化させている。そしてここには複写技術の力が存在する。複写可能性においては、隠された意味を技術力が増幅している面である。そして幽霊を作り出すことはマスメディアを媒体として社会権力化している。さらにここではデリダは権力側に属しているという事実である。id:pikarrr:20040225

わたしは引用可能性は複写可能性につながり、そこではデリダは権力側であるといった。デリタに関する書物は世界でどれぐらい出版されているのだろう。この大量の出版物は何故大量に複写されえただろうか。これは経済性を抜きには語りえない。出版物を流通させるためにどれだけの莫大な費用がかかり、それに対する対価があるから出版は可能になっている。実はここには複写可能性と言う経済力権力以上の根源的でデリダがロストした問題が関わっている。

なぜデリダの出版物は、またプラトンの出版物は世界中にばらまかれたのか?それは単に時代の権力では語れないのである。権力の力だけではなぜデリタであり、プラトンであるかは説明つかない。なぜなら権力に都合がよければ、デリダでないだれかでも良いからである。
それは大衆抜きには語ることはできない。そしてなぜ大衆はデリダであり、プラトンを選んだか?これはもはや問うことはできない。ただ受け入れられたのがデリダであり、プラトンであったという事実しかない。そして本質的な問題は、「デリダ」はデリダ本人でなく、記号組織化しているということである。「プラトン」や「形而上学」と同じように。

記号意味(シニフィエ)が自己組織化的に成長する構造を、記号組織化構造(sign-organization)と呼ぶこととする。
たとえば大衆による「女子高生」という記号組織化を考えてみる。

①物語化
かつて女子高生は、社会的ルールにより高校に入れば高校生であった。マスメディアが「女子高生という神話」を複写する。「女子高生という神話」=たとえばあこがれ、性の対象、ふしだら。ここには女子校生と「女子高生」の間に記号的差異が生まれる。
②消費
女子高生と「女子高生」の差異は大衆の中で消費される。二次元などはオタクによる「女子高生」の消費行為であり、シミュラークルである。また女子高生自身も「女子高生という神話」を消費する。女子高生たちは、「女子高生の神話」のシミュラークルを生産する。「女子高生の神話」を演じようとする。女子高生は「女子高生」になる。
③再物語化
 「女子高生の神話」を演じる女子高生をみて、大衆が「女子高生という神話」を再物語化。そして②へ戻る 。

このような循環により「女子高生」はダイナミズムに自律的に成長していく。ここでは主体と客体の構造は崩れる。すなわち記号組織化は噂話的である。郵便的伝達不可能性において差延を生み出しながら、記号組織化する。ではデリダ脱構築しようとした「形而上学」とはなにか?「形而上学」はどこにあるのか?デリダの語る「形而上学」とはデリダの中にしかないのである。記号組織化し続ける「形而上学」という記号の断片を、瞬間をとらえた姿である。それはたとえば「女子高生」などどこにもいないのと同じである。

彼が幽霊と読んだ物は幽霊などではなく、怪獣化した記号であり、デリダも怪獣の腹の中にいたということである。記号はデリダがいう郵便的というよりも、噂話的である。噂話の虚像性、そして自律的成長性、生命的はもはや最初にプラトンがなんと囁いたかなど問題ではないのであり、そしてそして脱構築とは、記号組織化し成長し続ける記号にある意味を想定し、それに対峙する意味を考えることでしかない。それはどこまで行っても自己言及的行為である。