哲学とはなにか。「ポピュラリティー」という選択圧

哲学における創造性と知のアナーキズム
哲学と科学における創造性について考えてみよう。科学において創造的なある考えを提案したとする。そのとき求められるのはその考えに対する科学的事実、検証である。そして科学的事実が提示されると、それは他者により再検証される。このようなに科学においては、創造的な考えに対して検証されるという審査システムが存在する。このために科学は創造性に対してオープンである。事実、科学では課題は細分化され、その一端ではわずかに研究すれば何らかの新規事項を考えるが容易に行われている。

それに対して、哲学では、兄氏のいうところの以下の文につながる。

哲学にはこれだって答えがあるわけでもない。だから個々人が好き勝手に言っていいように一見見える。でも哲学はポエムとは違うし「本を読め」という言葉が出る。そして以下のように続く。哲学というのは長い対話の歴史にそしてこれからも続く永続的な対話の流れに参加するということなんだ。だから、自分勝手の意見の垂れ流しは哲学では好まれない。そこには対話の相手である誰かなり問題なりがあり、それを整理しながら場合によっては自分の意見を付け加える。(兄)

はたしてそうだろうか。哲学においての創造性は、このような「対話史」においてのみ得られるものだろうか。確かに哲学には明確な審査システムは存在せず、兄氏のいうところの知のアナーキズムにおちいる。可能性が非常に高い学問である。しかし兄氏の示している創造性に対する警告、または「教え」は、これはある種の偏見、閉鎖性を陥る可能性が高い。それは哲学の創造性は一定量の知識を有得したもの、それは往々にして哲学的権威者であるが、のみにしか開かれない。そして哲学知識がそれ以下のものは、ただ勉強しろ。過去を拾得しろ!と。

進化、および進歩を促進する方法にはある特徴がある。それは選択を増やすということである。より多様なものから選択することにより、より発展が望めるというものである。これに鑑みると、哲学の発展において、このような封建制は取り払われるべきであり、知識の量にかかわらず、創造性は開かれるべきなのである。

ではこの場合に哲学は知のアナーキズムに陥らないのか。私の考えは、歴史主義、および道具主義に近いものであるが、それはそして進化、進歩同様に選択は、時代が決めるのである。その時代のポピュラリティーを得られるかどうかということである。この世界、および社会には、そのような選択作用が存在するのであり、哲学も同様なシステムがすでに組み込まれているのである。そしていままでの哲学史の実体であり、知のアナーキズムなどに陥ることはありえないのである。このために、本を読み、知識を習得することは、ポピュラリティーを獲得するという意味で重要ではあるが、創造性を限定するものではないのである。

だから私は言いたい創造しろ。自分の意見を信じて、創造しろ。

「ポピュラリティー」という選択圧について
ここで私が提示した、知の審査システムとしての「ポピュラリティー」について考えたい。一般的には、ポピュラリティーとは、 「人気, 評判, 大衆性」のことを示すわけであるが、私が提示した「ポピュラリティー」とは、「より広く認知されること」を示す。そういう意味では、知の審査システムそのものが、「ポピュラリティー」ではなく、結果として、「ポピュラリティー」を獲得することが、正しいとされるというシステムということである。

ではこの「ポピュラリティー」を決めているものはなにか、ということだが、それは「時代性」ということになる。「時代性」とはまた漠然とした概念であるが、実際、歴史において、生き残っているものは、なぜ生き残っているのか。それは、哲学のみでなく、科学でも、技術での、美術でも、宗教でも良いが、何らかの選択が行われているのは確実である。なぜ、カントであり、アインシュタインであり、エジソンであり、ゴッホであり、キリスト教であるのか。

時代性とは、それは気候であり、人口密度であり、過去の影響であり、人為的な意志であり、そして偶然性を含めたその時代の環境要因のすべてである。たとえは、私は俗に言われる「太陽の活動周期と社会性の関係性」をを支持している。人の社会性をそのような一元論だけで説明するつもりはないが、我々が認識している以上に、特に科学技術が発達するまでの社会において、太陽の活動から我々が無意識に受けている影響は、多大なものがあると考えている。このような構造で、すべての進歩といわれるものは、「時代性」による選択圧という、審査システムが行われているのである。

ただ哲学もこのような審査システムをもっているために、知のアナーキズムに陥らないというのはある種の楽観的な見解であることも認める。この審査システムは、進歩において決定的ではあるが、時間がかかるという問題がある。たとえば、芸術であり、宗教などでは、このような審査システムは問題がないにしても、学問がこのような長期的で、曖昧な審査システムのみで成り立つのか、という問題である。兄氏の見解は、過去に「ポピュラリティー」を獲得した哲学を世襲せよという、審査システムであり、曖昧ではあるが、短期的に発散しない議論を導く方法であるように思う。

それは哲学史というのは対話史だからなんだ。本を読むと言うのは、本を通じて自分とテクストとが対話を行うという作業なんだ。哲学というのは長い対話の歴史にそしてこれからも続く永続的な対話の流れに参加するということなんだ。だから、自分勝手の意見の垂れ流しは哲学では好まれない。そこには対話の相手である誰かなり問題なりがあり、それを整理しながら場合によっては自分の意見を付け加える。(兄)

哲学とはなにか。これは20世紀の「哲学」の最大の課題だったのではないだろうか。ルネッサンス以降の宗教的呪縛からの解放以来、人は進歩を革新するに至った。そしてその機運は、19世紀後半に頂点に達し、様々な思想の理想が、結果的に楽観的に世界大戦へ導き、大きな挫折へ至る。時を同じくして、知の探求も多くの挫折を経験する。物理学での不確定性理論、数学での不完全性理論、哲学での論理学の失敗。そして今世紀、哲学は相対主義と合理主義の対立、「哲学」は歴史的に相対的な優位性しか獲得しえないのか、時代性に関係なく強固な学問的基盤を獲得しえるのか。と論争を続いているである。

大げさに言えば、兄氏と私の「哲学」に対する見解の相違は、この問題に還元されると感じている。そして私は、相対主義の立場を語っているのであり、兄氏の発言は、哲学が明確な方向性のもと進んでいる。進歩している、積み上げられているというという合理主義的な立場に思考に基づいていると感じているのである。そしてこの20世紀の哲学の最大の議論は、いまも行われているのである。

ローティーはいう、「哲学はもはやすべての真実の特権的アクセスから切り離された、そしてどこへ行くにも勝手な「会話」の一形態にすぎない。もし哲学が生き残るとすれば、それは文学のジャンルとして、その読書が美的快楽を感じることを許すものとしてなのである。」これは極論かも知れない。必ずしも「ポピュラリティー」獲得をしえていないかもしれない。

相対主義の元では、知だけでなく、倫理、道徳でさえ確立し得ないではないか。何を根拠に我々は生きていけばいいのか。しかしそうやって我々は生きてきたのではないか?それは人類史を越えて、生命史において。だから私は、いいたい。相対主義ニヒリズム)を恐れるな。相対主義ニヒリズム)弄べ。我々には「超人」などいらない。生きていることが、すでにニヒリズムを乗り越えている。認識、意識、論理からはみ出す生の余剰を肯定しろ。今を肯定しろ。