ネットコミュニケーション(2ちゃんねる)というゲーム

ネットコミュニケーション(2ちゃんねる)というゲーム

現前の相手とのパロールでは、相手についての情報は大量にあり、経験的に記号内容(心象)を推測することは容易になる。このために相手への適切なコミュニケーションが可能となると考えられる。しかし相手に対する大量の情報は、逆に伝えたい内容が、その他の過剰な情報に抑圧される面がある。相手が誰でなどの様々なことを考慮して伝えるということは、逆に言いたいことがいえない(コミュニケーション不全)に陥る危険性がある。すなわち相手を目の前にするとなかなか言いたいことが言えないものである。さらに社会的な立場による規定もある。

ある程度の心象差異が解消された(人格消費)された他者は限りなく、自己である。このために意味的差異の解消(記号消費)は「意をくむ、くんでほしい」のであり、「察する、してほしい」である。(参照 コミュニケーションという自己化認識 id:pikarrr:20040303)

ネット上のコミュニケーション(特にテキストベースのコミュニケーション)では、相手に対する情報はテキストのみという限られた状態にある。すなわちそれは限りなく「迷い込んだ手紙」である。さらに実社会では行為を起こさなくとも、存在を認識されるだけで、すでに情報は伝達されているが、ネットコミュニケーションでは、レスしなければ、存在しないというある種の極限状態にある。このような状態はコミュニケーション上の不安感を生む。
しかしネットコミュニケーションでは、情報が少ないという不安感が故に、そこに伝えたい情報を選別して込める、または心象をより適切に言語表現しようと、努力する面がある。すなわちネットコミュニケーションは、心象差異が純化する効果がある。

このような不安と「純化は二つの傾向を生む。
一つはコミュニケーション(議論)を激化させ、感情的にさせる面である。過剰に存在を示し、直接的な表現をしなければ伝わらないという不安感。そしてさらに相手の心象を理解しようと、相手の感情を揺さぶろうとする。ネット上の会話が感情的、欲望的、挑発的にになりやすいのは、このような理由からである。これは2ちゃんねるに限らず、ネットコミュニケーションの大きな特徴である。2ちゃんねるの煽りはこのように感情的、欲望的、挑発的になった姿である。しかし煽りにはまだコミュニケートが成立している時点で、ここにはまだ相手の記号意味(心象)を読みとろうとする姿勢があるともいえる。荒らしでは、さらに不安感がコミュニケーション放棄へ向かい、ただ自己存在を誇示するのみとなる。

もう一つの面は、不安感があるから、「純化」されるから、心象が直接的に伝わりやすい面である。これはネットコミュニケーションをやっているとだれでも一度は、実生活のコミュニケーションよりも強く共感しあえた喜びを味わったことがあるのではないだろうか。これは古くは、手紙であったり、現在ではメールであったりする。そして匿名性である故に、悩みや個人的な告白が可能になるなどである。そして出会い系などでは、これが悪用される。見せかけの共感を演出しやすいということである。
このような偶然的な満足というゲーム性が、人々を継続してネットコミュニケーションに向かわせているのではないだろうか。そしてコミュニケーションにはもともとこのようなゲーム性があるのであり、このために人はおしゃべりするのではないだろうか。

意味的差異の解消(記号消費)の中で、他者が実体化する。しかし現前せず心象構造が隠されている他者を自己化するために、積極的に心象差異を解消(人格消費)しようとする。ここの過程では偶然的に自己化する前に他者に逃げられる場合が多いが、ある低い確率で自己化が可能になる。ここにゲーム性、ギャンブル性が産まれる。id:pikarrr:20040303)