はじめに

これは日記ではない。だからそう長くも続かない(と思う)。ここに書いていることは、2ちゃんねるの哲学板で思考したことをまとめてアップしたものである。

ではなぜここにアップしたのか。

2ちゃんねるは限りなく発散的であり、そこにある構造物はことごとく解体され、一瞬にして便所の紙のごとく過去ログとして流されていく。だから建設者には忌み嫌われる。2ちゃんねるでは、建設者はそのプライドを捨てて名もなきいち「名無しさん」になれはてなければならないし、そして書かれた有り難いお言葉は、訳のわからない厨房に馬鹿にされ、さらにはその人格まで誹謗中傷されたあげくに、一瞬にして便所の紙となりはてる。このような屈辱に耐えられるか。

だから建設者は、保護された自分の居場所をもち、じっくり建設する。しかしそれでも2ちゃんねるから逃れられたと思ってはいけない。そこはリンクされ、コピペされ、間接的に解体される可能性がつきまとう。しかしそれは間接的であり、無視すればいいだけのことである。しかし読者は多かれ少なかれ2ちゃねらーである。

このことは一つの事実を語っている。ネットでは2ちゃんねるが中心があり、建設者たちの場所はその周辺でしかないという事実である。私はこれは2ちゃんねるとその周辺」という構図で考えている。2ちゃんねるとその周辺は、一つのシステムである。2ちゃんねるはすべてを解体しつくす。そしてその周辺や2ちゃんねるがはき出したジャンクを拾い集め価値を建設する。そしてまた解体される。そしてまた建設する。これは建設者には納得いかない論理かも知れない。

そして私がなぜここに書いているのかは、「2ちゃんねるとその周辺」というシステムが存在するか確かめてみたいということである。

では、ここでの全体の構想を説明しよう。以下のように人類史ををとらえる。

①言語獲得前、②パロール(会話)時代(近代前)、③エクリチュール(書かれたもの)時代(近代)、④記号組織化時代(ポストモダン)⑤パロ-リチュール(文字による会話)(ネットスペース)

特にポストモダン的現象として、現代の記号組織化構造を考える。そしてこの記号組織化構造に対する構造主義以降の思想、それはソシュールであり、バルトであり、デリダであり、ラカンであり、ドゥルーズであり、ボードリヤールなどの思想を比較検討する。

記号組織化とは私がシステム論と記号から考えものであり、現代のポストモダン的現象をよく表していると思っている。そしてこれら構造主義以降の思想は、記号組織化に飲み込まれるのではないかと思っている。記号組織化の特徴は虚像化する大衆価値化である。そしてこれは東浩紀氏の「動物化」や斉藤環氏の「心理学化」などにも通じるところがあるように思っている。
この記号組織化という怪獣を退治するものは、ネットスペース(特に2ちゃんねる)ではないかを考えている。すなわちネットスペース(特に2ちゃんねる)はポストモダンを越えていくのか?とうことである。

と偉そうに書いたが、私は哲学の素人である。テクニカルタームもあまり厳密に使っていない。というのは、哲学を勉強するというよりも、そもそも私の中にある漠然とした考えを、哲学的枠組みにより表現したいということであり、哲学は道具でしかないということである。だからおそらく哲学の専門の方が見れば、意味不明な用法も多いと思う。とりあえず走れであり、あくまで楽しみでしかない。そして2ちゃんねるの哲学板住人に叩かれながら、日々勉強させてもらっているということであり、飽きればやめるし、構想も変化しいくということである。

*この文章のコピペ禁止します。2ちゃんねるにコピペしてネタにしないように願います。はずかしいので(w