コミュニケーション自己構築論

「私とはなにか?」
「私とはなにか?」それは人はどのように「私」を「発見」したかという事につながる。

言語獲得前、認識とは現前する存在を内的に心象に現すことであり、曖昧であったのではないだろうか。そして言語獲得することによって、存在をより構造的に、明確に認識することが可能になった。言語はその表現(シニフィアン)に対する意味(シニフィエ)を表現(シニフィアン)で表すというパラドクス構造をもっている。たとえば「りんご」という表現(シニフィアン)の意味(シニフィエ)は「赤く丸く甘い果物」という表現(シニフィアン)で表される。そしてさらに「赤い、丸い、甘い、果物」という表現(シニフィアン)の意味(シニフィエ)は?・・・・という無限循環システムであり、これは存在(言語)認識を存在(言語)認識するという、内的な方向性をもつ。すなわち言語は自己の内部を開拓する、構造化する機能をもっているのである。

「他者」を認識することは動物でもできるが、「私」を自己認識できるのが人だけだとすれば、このような言語認識能力の発達の中で、ソシュール的言語差異の体系として、「私」という言葉は、「他者」の言語的差異、「他者でないもの」、「他者」との相対化された存在として現れたのではないだろうか。


「私」という言語認識の破れ
言語的「私」は「無」と似たような構造である。言語は存在認識であり、世界を存在認識するということは、世界のすべては言語化されなければならないということである。「無」は「有」の言語的差異により生まれた。しかし同時に「無は有るか?」という言語的パラドクスを生む。「無」は「認識の破れ」である。「有」でない存在は塞がれなければならないが、「無」はなんであるか答えることはできない。そして「他者」でない存在=「私」も同じような「認識の破れ」である。

「私」は「他者」の言語的差異として生まれ、事後的に言語意味(シニフィエ)をつくりだすよう強制されるのである。なぜなら言語化されないものは「存在しない」からである。しかし言語は無限循環システムであり、ヴィトゲンシュタインが示した自己言及のパラドクス、論理的不可能性を持っているのである。これは「私とはなにか?」には言語的に答えられないと言うことである。

哲学はこのような「認識の破れ」を破れをふさぐために思考された。デカルト「我思う故に我あり」、すなわち「私」=「考える私」という言葉が考えたが、では考える「私」とはなにか?という「認識の破れ」を生む。そしてデカルトのコギト的「認識の破れ」を思考し続けた近代哲学一つの帰結が、独我論である。独我論とは、「私は世界であるということである。「私」という塞ぐことができない「認識の破れ」が「世界」そのものが飲み込んだのである。


「他者とはなにか?」
「私」に先立ち認識された「他者」とはなんだろうか。言語を獲得する以前、進化上の人以前から、「私」は「他者」を認識することができた。しかしこの場合の「他者」を認識するとは単なる認識ではない。世界の中での「他者」の特異性は、密接なコミュニケートが可能ということである。これは遺伝子構造がほとんどが同じである生物学的な同種同科であるということである。このような「他者」の存在を自他同期性のある存在とする。これは生命の種にとって根元的性質でないだろうか。同種は生得的に自他同期性を備えているのである。犬は、自分が犬であると認識していなくても、他の犬に対して、自他同期性を持つのであり、蜂は、自分が蜂であると認識していなくとも、他の蜂に対して、自他同期性を持つのである。


コミュニケーションという自己生産
「他者」とは、自他同期性という、同種においては先天的に密接なコミュニケーションが可能である存在である。そして「コミュニケーションとは、主体が主体の内部に起こった心象を客体の内面(心象構造)に再現させよう(複写)しようとし、客体が主体の内部に起こった心象を、客体の内面(心象構造)に(複写)再現しようとする」こと、相互理解を深める行為、すなわち心象構造の同期行為である」と定義したい。

そしてここで「心象構造とは記憶である。記憶とは①先天的記憶、②後天的文化記憶、③後天的個体記憶でできている。」そして自他同期性は、記憶形成の時間長さから考えて①先天的記憶(遺伝子情報)がほとんどを閉めている故に、同種において可能となる。

しかし私と他者の心象を完全に同期させることは不可能である。「私と他者の間にはたえず未理解がある。そして心象構造の同期行為とはこのような私と他者の間の未理解を消費しつづける行為であり、そして他者との未理解を消費することにより、私の心象構造は絶えず書き換えつづけられるのである。すなわちコミュニケーションとは私を絶えず再生産されつづける行為である。

ここで私と他者の間の差異を、記号論的に二種類に分けて考える。デノテーション的な記号(言語)意味の未理解とコノテーション的な心象的意味の未理解である。そしてそれぞれを消費することを記号消費と人格消費と呼ぶ。」これらは独立したものでなく、コミュニケーションにより相補的に解消される。コミュニケーションは私と他者との未理解を駆動力として、未理解を消費しようとして、反復されるのである。

しかし記号論的にいえば、コミュニケーションの対象は他者だけではない。記号論存在論的にコミュニケーションするとは、世界を認識することであり、世界と心象同期化しようとすることである。さらに私が「私とはなにか?」と私に問う時にも、「私とはなにか?」と問う私とそれにより「意識された私」の間に絶えず未理解が生まれる。問う私はその未理解を消費しようとしているのである。そして意識された私は問う私にとって差異を持つ「他者」なのである。すなわち私は世界とコミュニケートションしつづけることによりつくられていると考えることができる。


不完全性を共有するものたち
私は世界へコミュニケートしつづけることによりつくられている。しかしこれは生物学的帰結ではないのか?犬も、蜂も、世界へのコミュニケートしつづけることによりつくられているではないか。

これは記憶能力の問題になるかもしれない。コミュニケーションとは心象構造の同期行為である。心象構造がこれら3つ、①先天的記憶、②後天的文化記憶、③後天的個体記憶に分類できるとすれば、たとえば、犬、蜂、人は、①先天的記憶に対する②後天的文化記憶、③後天的個体記憶の割合が異なる。当然、人>犬>蜂である。人は物理的な脳の構造からより多くの③後天的個体記憶を持つことができる。そして言語により人と記録媒体との間で②後天的文化記憶をINPUT、OUTPUTを可能としたのである。さらにはそもそも言語が、②後天的文化記憶である。

言語は①先天的記憶による自他同期性をもとにした②後天的文化記憶である。そして動物と人との大きな違いは、②後天的文化記憶にあると言えるだろう。記録され、より正確に伝達されるという言語獲得により、重厚な②後天的文化記憶を獲得した。そこに動物ではない「不完全性を共有するものたち」としての人の苦悩がある。


コミュニケーションは不完全性を乗り越える
私は世界へコミュニケートしつづけることによりつくられているといった。これは私は「世界との同期の継続性による変化」である。完全をめざして、世界と同期し変化しつづける。ここには①先天的記憶=遺伝子と②後天的文化記憶=言語の対立の構図がある。人はその狭間で苦悩するのである。

しかしだからといって、いまさら②後天的文化記憶=言語を放棄し、①先天的記憶=遺伝子へ回帰することなどできない。そして②後天的文化記憶=言語は、①先天的記憶=遺伝子をもとにしているのである。だから私が私であるためには、世界とコミュニケーションしつづけ、「私」という「言語認識上の破れ」を埋めつづけるしか道はないのであろう。そして現にそうしているのであり、それは我々が限りなく同じであり、不完全性さえ共有しあえるからではないだろうか。