野蛮の復活

野蛮の復活


●野蛮なコミュニケーション

他者とは自己を写す鏡である。私が誰かは他者との差異によって現れる。かつて私は「誰でもない私」だった。村一番ののっぽであり、村一番の力持ちであり、村一番の愚か者、村一番のお金持ちであった。ここでの価値観は他者との相対化で作られている。彼のようにのっぽになりたい。

(((背の高い私)を見る他者)を見る私)= 欲望=他者相対化価値観の解消行為

「他者の欲望を欲望する。」実体の他者がいるから、実体の他者に欲望されているから自分でありえる。他者の人格消費する。



●虚像なコミュニケーション

現代、差異をもてなくなっている。無数の他者の中で、ある時は、集団ののっぽであって、次の瞬間一番のチビである。他者を介在しない生理的な欲求は満たされていく。(欲求=自己完結的価値観の解消行為)。私は何であるのか?自分探しが始まる。それは相対化できる他者の欲望探しである。しかしそんな私もかつては誰でもない私であった。家族というコミュニティーの中の子供という「誰でもない私」であった。それが社会へ出ていくうちに、差異は解消されていく。「誰でもある私」へなっていく。私は誰?

大衆の豊かさは、大量生産、大量消費に支えられている。同じものを大量に生産するから生産コストが下がる。大衆は物質的豊かになるために必然的に同じであることを要求される。複写されていく物質。それは複写されていく自己である。街に溢れた無数の複写された自己。もはや私が誰であるか、いえない。

しかしなぜ私はだれでもない私でありたいのか。他者との差異をもとめるのか。言語の差異の体系?言語ができないものは存在しない。差異化されないものは存在しない。存在証明?

他者と交わるとは、人格消費である。私が消費される。しかし私には消費される私がない。そして私は部屋にこもる。しかし他者なき世界でどのように自己を確立するのか。記号越しの他者を消費するのである。人格消費から記号消費へ

「他者が欲望しているだろう記号を欲望する。」

他者に欲望されている「記号を持っている」から自分でありえる。しかし他者は現前しない。記号越しに現前しているだろうという推測。虚像化した他者たち=虚像化した大衆。みなが仮想的な他者と競争している世界。それはシミュラークルを生む。誰々になりきる。小説家気取り、評論家気取り、タレント気取り、クリエーティー気取り。・・・オタク化

書くと言うこと、あるいは創造物は自己投影である。投影された私がそこにいて、それを読む。書かれた瞬間にそれは他者となる。自己という他者。そしてそれを公開するということは、それを読んだ他者を想像する。創造物の記号の意味付加が無限に他者の中で繰り返される。虚像化する意味。それは本質的には、自己内の循環でしかない。

((書かれた、きどった私)を見る私)
(((書かれた、きどった私)を見る他者)を見る私)
((((書かれた、きどった私)を見る私)を見る他者)を見る私)・・・・・・



●野蛮の復活

HPを作ると言うこと、日記を書くと言うことも同じである。しかしネットコミュニケートの本質は、他者が現前化することである。会話できることである。それが非時間的で、非空間的で、非物質的他者あっても、私だけにコミュニケートする他者が存在する。

「他者の欲望を欲望する。」
虚像の解体。実体欲望への回帰。人格消費の復活。野蛮の復活。