現代思想の冒険者たち デリダ 高橋哲哉 その1

デリダ (「現代思想の冒険者たち」Select)

第三章 言語・暴力・反復
2 反復と散種

プラトン
パロール 生の充実
外的・現実的コンテクスト(周囲の状況)、内的・意味的コンテクスト(言語文脈)もすべてオリジナルな状態で現前し、言語の理解の直接的地平として役立っている。
エクリチュール 空虚な死の言葉
オリジナルのコンテクストが失われた後で、別の状況や文脈において読まれるということが当然視されている。主体とオリジナル・コンテクストの不在という二重の空虚のもとで反復して機能する言葉。

デリダ
●反復可能性
パロールのそのつどの経験的出来事としての種しゅの変化、音声の強さ、抑揚、調子などの経験的・物理的特徴が厳密に同一性はないとしても、それらが失われたあとでも機能するのでなければならない。変化を貫いて同一の言語記号として再認される必要がある。そして表現形式の同一性はどこかに実体として存在するわけではなく、それ自身の反復可能性として構成されている。これはパロールエクリチュールを含む言語一般の可能性の条件である。

それは言語一般→記号一般→経験一般と展開できる。人間/動物の形而上学的二項対立を脱構築する。意味作用の反復可能性は人間にのみ固有ではない。ある種の動物たちが人間の言語を口まねし、身振りを模倣しうるのはなぜか?生命細胞内の情報のもっとも基本的な過程、遺伝子情報の書き込みについても言える。

反復可能性により、言語記号は主体の意識や生の現前をつねにすでに越えている。言葉と意識主体の間には、純粋な生の現前によって埋めることができない「本質的裂け目」が存在し、言語は常に意識的思考による充実が不必要な仕方で意味作用を行っている。主体の現前性の権威は、言語、記号、経験一般の意味作用に関して、主体が(主観性や相互主観性)がヘゲモニー(主導権)を握ることはできない。自己への現前の真理を言表するとされるデカルトのエゴ・スム(われあり)や、フッサールの超越論的自我についての命題も同じである。あらゆる主体はその「名」によって純粋な「自己の現前」を奪われる。固有名の本質的な反復可能性は、名で呼ばれるすべての主体の純粋な固有性を不可能にしてしまう原暴力である。

●引用可能性
言語記号の主体や指示対象からの断絶は、オリジナル・コンテクストからの断絶と一緒に、意味のイデア的同一性という理念を切り崩す。所与のコンテクストからから引き抜かれ、他のコンテクストに接ぎ木される可能性があり新たな意味を獲得し、新たな意味作用することが可能である。無数のコンテクストの変化を通して、つねに不変である意味など存在しない。意味のイデア的同一性は全否定されるわけではなく、反復可能性は絶えず一定程度のイデア的同一性を生み出す。

●他者性
反復可能性の論理とは、反復を他者性に結びつける論理、同一性と差異、反復と他化を同時に含む。差延としての反復は同一性の支配下から差異と他者性をに向かって開放しようとする。つねに自己同一にとどまるのではなく、絶えず変化し、他なるものとなり、多なるものになっていくこと。

*記号の反復可能性は、言語記号の同一性を構成する。そして引用可能性は自己の現前性、主体のヘゲモニー形而上学的二項対立を脱構築する。これはパロールエクリチュールを含む言語一般の可能性の条件である。


3 署名・テクスト・約束

オースチン 言語行為>
パロールが<語る主体>の現前によってみずからの「起源」に結びついているのに対して、エクリチュールにはそれが欠けている。エクリチュールにおけるこの「起源」の不在は署名によって補填される。
書かれたものに添えられた署名は、それがかつてたしかにある一つの「現在」において、純粋な現前性と自己同一性をもった一つの「現在」において書かれたのだと保証することによって、書かれたものをその「起源」へと「結びつけ」つずけておくのではないか?

デリダ
●偽造可能性
署名の権威は、エクリチュールをその「起源」の「現在」につなぎ止めておくものの権威である。しかし署名がそうした効果をもつための可能性の条件は、それが厳密な純粋さにおいて実現されることの不可能生の条件になっている。ある「起源」の「現在」における「本人」とは別のもの、一般的に他者によって模倣可能でないような署名は、そもそもその「起源」の「現在」においてさえ署名ではありえないのだ。署名の同一性がその反復可能性にあるということは、署名はつねにそれ自身の模倣、つまり<差異を含んだ反復>を呼び求めるということ。

●テクスト解読
テクストとは、本質的に他者のテクストであり、脱構築的読みの「対象」になる哲学、文学のテクストは、その一つ一つが他者の署名をもった特異なテクストである。テクストはまず、原エクリチュールの産物として、その産出の「現場」に結びつけられたあらゆる現前性のくびきから切り離される。テクストとして生み出された瞬間に、とどめようのなく必然的に反復と他化の運動を開始し、他者の連署を呼び求める。テクストを書くことと読むことの関係は署名の連署の関係に他ならないのであって、テクストを読むとは、テクストの呼びかけに新たな他者の署名をもって応答すること、連署することである。

他者の呼びかけへの応答としての解釈は、現前する主体の意識的決定の権威がもはや失われてしまったところで、それでもなおそうした決定=解釈の責任=応答可能性の構造のなかに私たちを位置づける。テクストが他者の署名を呼び求めるという本質的に開かれた構造をもっているから、読者は責任のうちに置かれるのである。

●「ウィ」の思想
「ウィ」はもとより、通常はフランス語で否定の答え(いいえ、否)を表す「ノン」に対立し、肯定の答え(はい、然り)を表す副詞である。それが「私」に対する「他者」との関係の先行性を決定的なかたちで確認するからである。「ウィ」の肯定は他者の肯定、言語としても他者の、さらには言語の他者の肯定にほかならない。言語以前に到来し、パロールであれ、エクリチュールであれ、語であれ文あれ、およそ何らかの発言がなされるときには常にすでにそれに伴い、それを可能にしているような「根元的」肯定である。なにを語り書くにせよ、この根元的な肯定があらかじめ言語の場を開いているのでなかったら、まったく不可能になってしまうだろう。<私>はつねにすでに他者によって呼びかけられているのであり、その呼びかけを無意識のうちに聞いてしまっているのである。<私>がエゴ・コギト、コギト・スム、われ思う。われ在り、などと語ったり、書いたりするとき、その沈黙のうちにそうするときにも、すでに<私>は他者に先立たれているのであって、自己は他者の先に行くことはできない。絶対的起源としての自己なるものは存在しない。「ウィ」の思想は、脱構築ニヒリズムに帰着する否定思想ではないというデリダの主張をはっきり確証するものの一つである。