デリダは死臭を嗅ぎつける・・・ その1

デリダは死臭を嗅ぎつける・・・その1


「意味のイデア的同一性」とは?

言語記号の主体や指示対象からの断絶は、オリジナル・コンテクストからの断絶と一緒に、意味のイデア的同一性という理念を切り崩す。所与のコンテクストからから引き抜かれ、他のコンテクストに接ぎ木される可能性があり新たな意味を獲得し、新たな意味作用することが可能である。無数のコンテクストの変化を通して、つねに不変である意味など存在しない。意味のイデア的同一性は全否定されるわけではなく、反復可能性は絶えず一定程度のイデア的同一性を生み出す。
現代思想冒険者たち デリダ 高橋哲哉  id:pikarrr:20040316#p1)

意味のイデア的同一性を生み出す反復可能性と、意味のイデア的同一性を切り崩す引用可能性。これはデリダ的には、反復可能性が形而上学幻想をうみ、引用可能性で脱構築することに繋がる。

デリダが提示した「意味のイデア的同一性」とはなんだろうか?言語の反復可能性の中では、言語記号意味は発散してしまわないのだろうか。デリダは「意味のイデア的同一性は全否定されるわけではなく、反復可能性は絶えず一定程度のイデア的同一性を生み出す。」というのみである。この反復可能性という言語意味の収束と、引用可能性という言語意味の発散というパラドクスを解消する言語が持つ構造は提示されていない。

ここではたとえば、デリダが「形而上学」批判をする場合に、そのデリダ的「形而上学」はそもそも在るのかという問題が生じないだろうか。それは果たして「意味のイデア的同一性」なのか、デリダが生みだした散種的意味ではないのかを、どのように判断することができるのだろうか。デリダのおこなった脱構築とは、無数の「形而上学」の意味から、まず一つの危機的「形而上学」意味を選び、もう一つの解決的な「形而上学」意味と対比させたのではないのか?



デリダは死臭をかぎ分ける・・・

ここでの本質的な問題は、反復可能性により言語記号意味が発散せずに、同一性をもち、主体のヘゲモニーは現れ、署名は作動し、テクストは機能し得るのはなぜか、ということではないだろうか。デリダ形而上学があったとして、それはどのように同一性を勝ち得たのか。

この解の一つの鍵が、「ウィ」の思想かもしれない。

「ウィ」の肯定は他者の肯定、言語としても他者の、さらには言語の他者の肯定にほかならない。言語以前に到来し、パロールであれ、エクリチュールであれ、語であれ文あれ、およそ何らかの発言がなされるときには常にすでにそれに伴い、それを可能にしているような「根元的」肯定である。なにを語り書くにせよ、この根元的な肯定があらかじめ言語の場を開いているのでなかったら、まったく不可能になってしまうだろう。
現代思想冒険者たち デリダ 高橋哲哉  id:pikarrr:20040316#p1)

言語以前に到来する「ウィ」の思想とは、我々はコミュニケーションしえる存在であるということではないだろうか。我々は限りなく同じであるということ=自他同期性を持ち得た存在であるということ。我々は言語に先立ち、限りなく同じなのである。そのような限りなく同じもの達の集団においては、コミュニケーションは可能となるのである。反復可能性の以前に自他同期性は到来する。(「コミュニケーション自己構築論」 他者とはなにか? id:pikarrr:20040307#p1)

これはデリダの思想は「他者の思想」であり、コミュニケーション論であるということである。

デリダ脱構築はなぜ西洋的な形而上学や法にのみ向かうのかという疑問がある。言語記号がそもそも、脱構築構造を内包したシステムであるなら、デリダの提示した脱構築は言語システムに内包されてしまう。プラトンのテクストはデリダ脱構築の前に、その書かれたときからすでに無数の脱構築が行われているのであり、さらに現代において、そのイデア的同一性を「信仰」している人がどれほどいるだろうか。

言語記号の脱構築構造を内包したシステムとはどのようなものであるか考えると、たとえば、ソクラテスの記号意味は以下のようになる。

ソクラテス【Skrats】 (前 470-前 399) ギリシャの哲学者。アテナイで活動。よく生きることを求め,対話を通して善・徳の探求をしつつ,知らないことを知らないと自覚すべく自己を吟味することとしての哲学により,自己の魂に配慮するように勧めた。しかし,この活動は反対者の告発を受け有罪とされ,獄中に毒杯をあおいで死んだ。著作はなくプラトン・クセノフォンなどの書物により伝えられている。(新辞林

しかし多くの人はこのような辞書的な記号意味を共有しているだろうか。社会知識として共有されているが、多くの人は、哲学者、昔の人、小難しい人と行った人、教科書の写真のイメージと繋がっているかも知れない。禿げたひげの人。それは近くの本屋の風景に繋がっているかもしれない。そしてさらに多くは、間違っているだろう。そしてこのような無数の散種的意味により、ソクラテス意味は心象的であり、成長し、変化し続けている。

デリダの思想においてはまずそこに明確な「イデア的な同一性」の存在するというようなテクストでなければならない、あるいは「イデア的な同一性」を提示できるテクストでなければならない。それは言語記号システムが内包する脱構築機能が止まったようにみえる、止まったように見せる「死んだ言語」である必要がある。そこにデリダ脱構築がなぜ西洋的な形而上学や法に向かうのかの理由がある。



脱構築を内包する「生」の言語システム

マクロな現象として明確に近くされる相転移を分子レベルで捉え直すと、ランダムで勝手気ままな動きをしていた多数の分子が、なんらかのきっかけで、あるいは偶然に、秩序だった強調した振る舞いを開始してしまうことを意味する。あたかも分子の動きを指令する「支配者」がいて、この支配者が、分子に協調的な動きを命じているかのように、分子の動きは協働現象を示す。もちろんこうした支配者は、たんなる説明のための比喩であり、現実には分子集合が、分子のそれぞれの関係において、協調的な動きを開始している。この点で、分子集合が自己自身を組織化するという内実をこめて、こういう現象が「自己組織化」と呼ばれる。
オートポイエーシス 河本英夫) 

ここに示す自己組織化という物理的現象は、ランダムからの自律的に秩序(意味)を組織化するシステムである。現在、これはさらに複雑な構造へ展開されながら、単なる物理現象にとどまらず、経済、都市、生命、進化の秩序(意味)の組織化現象として展開されている。

このようなことから私は、記号意味のイデア的同一性を自律的に生み出し続ける現象を「記号組織化」と呼びたい。記号表現を容器として、その内部で無数の意味作用の繰り返しの中で、記号意味が一義的な意味へ向かうことである。そしてこの記号表現の系の中では、主体、客体の関係性は崩れる。これは、デリダ的に解釈では、記号表現を容器として、引用可能性の中で意味が脱構築を繰り返し、「イデア的な同一性」をもつということになるだろう。
(「記号コミュニケーション用語」 記号組織化 id:pikarrr:20040309)

デリダは遺伝子情報においても反復可能性を見いだしている。森羅万象すべてのものは脱構築を内包したシステムであり、その意味は繰り返し変化しつづける。自他同期性というコミュニケーションを元にした、社会、大衆という集団における無数の脱構築からイデア的同一性を自律的に生み出し続ける力、「新陳代謝」的な「生」のシステムである。これは「生命力」と言われるものではないだろうか。

言語の引用可能性をこのような「生」のシステムと捉えた場合には、言語世界はデリダ的世界と違ったものが見えてくるだろう。

つづく・・・・