現代思想の冒険者たち デリダ 高橋哲哉 その2

第二章 形而上学とはなにか
1 テクストとしてのプラトン

デリダ脱構築は「プラトン以来」の存在論の歴史の「解体」というハイデガーのモチーフを継ぐものであり、両者の哲学観に大きな影響を与えたニーチェにとって、哲学とは「プラトン主義」形而上学の別名であった。

デリダにとっては、厳密にいえば、プラトン形而上学の起源とするのはそれ自身、形而上学の想定に過ぎない。「起源」の観念は、典型的な形而上学的観念である。デリダによるプラトンの読みは、むしろ、想定されたこの「起源」がじつはけっして単純なものではないこと、「起源」は「起源」ではなくすでに「反復」であったことを明らかにする。起源(アルケー)と終末=目的(テロス)とに両端を画された一つの歴史的連続体という形而上学の表象は、それ自身、形而上学についての形而上学的表象なのだ。脱構築はしたがって、形而上学と反形而上学に共通の「起源」の神話を解体するものとなる。

プラトン哲学の脱構築とは、プラトンの思考やテクストを全否定することではない。一つの歴史的連続体としての西洋形而上学なるものが存在しないように、一枚岩の同質的な「プラトン哲学」なるものも実は存在しない。プラトンのテクスト自身のなかで、形而上学の構築の欲望とそれを脱構築する契機とがせめぎ合っていること、(プラトン主義)形而上学とはじつは、この「決定不可能」なせめぎ合いを一定の仕方で「決定」し、この「決定」を固定化するところから生じたものしたにすぎない、ということである。脱構築的な読みとは、読みの「対象」たるテクストに、たとえそれが形而上学のテクストであっても対立したり、敵対したりするものではなく、当のテクストがあたかも自分自身を脱構築するかのような解釈を示してみせる読みなのだ。

デリダ形而上学批判を行っているのではない、形而上学的表象(形而上学)に対する、形而上学テクストの別の読みを示すものである。果たして、形而上学的表象はあったのか?


第三章 言語・暴力・反復
1 原エクリチュールの暴力

ある人を固有名で呼ぶことは、すでにして、その人の唯一性、独自性、「固有性」を抹消する社会的暴力なのだ。

「絶対的に固有な呼称は、言語において他者を純粋な他者として認め、他者をあるがままのものとして要請するが、この呼称の死はまさに独自なものにとっておかれた純粋の特有語の死である。派生的な、ふつう言われている暴力の[・・・・]偶発性に先立って、その暴力の可能性の空間として、原エクリチュールの暴力、差異の暴力、クラス分けの、また呼称体系の暴力が存在する。」(「グラマトロジーについて」)

狂気の自由な主観性を排除し、客観化することによって理性が構成されているさいの決定こそ、まさに歴史の源泉であるとしたら、それが歴史性そのもの、意味と言語の条件、意味の伝統の条件、作品の条件であるとしたら、排除の構造が歴史の根元構造であるとしたら、この排除の「古典的」な瞬間、つまりフーコーの記述する瞬間は、絶対的な特権も原型としての模範性ももたないものになる。それは模範ではなく、見本の一例であることになる(「コギトと「狂気の歴史」」)

フーコーが「狂気の歴史」で問題にしたのは、西欧の古典主義時代(十七世紀)における狂人の分割、いいかえれば理性と狂気の分割という意味での「決定」にほかならなかった。ところがデリダは、そうした決定はフーコーがいうように古典主義に始まったものではなく、言語(ロゴス)が「理性の他者」を排除するあらゆる決定において生じるもので、フーコー自身の歴史記述(「沈黙の考古学」)においても必然的に反復される。

この決定は排除という構造をもつ。この観点から、さまざまな歴史的決定の異同を問うだけでなく、理性一般(ロゴス)とその他者への根元的な分割・決定を問題にしなければならない。暴力的決定はロゴスと非ロゴス、意味と無意味、存在と非存在の分割として、「つねにすでに始まっており、終わることのない」「危機」の瞬間において反復される、と論じる。

非暴力を追求する行為それ自体が暴力となり、暴力の構造に回収されてしまうような運動、あるいはそういう暴力の偏在の一般的システムをデリダは「暴力のエコノミー」と呼ぶ(エコノミーとはこの場合、内部に回収する法則という程度の意味だろう。)

固有名の呼称システムを存在させるのは、名前の登録=書きこみという原エクリチュールの働きである。したがって、「暴力のエコノミー」は次のように記述される。

「実際、名づけるという第一の暴力が存在したのである。名づけること、場合によっては口に出すのが禁止されるかもしれない名前を与えること、これが言語の根元的暴力であって、これは絶対的な呼びかけ符号を差異のなかに書きこみ、それをクラス分けし、宙づりにする。独自なものをシステムのなかで思考すること、それをシステムに刻みこむこと。これが原エクリチュールの所作である。つまり、原暴力であり、固有なものの、絶対的近接性の、自己への現前の喪失[・・・・]なのだ。この原暴力は、第二の暴力によって禁止されており、それ故に確認される。第二の暴力は修復的、防御的なものであり、「道徳」を設定し、エクリチュールの隠蔽を命ずる。原暴力から第三の暴力が、悪、いさかい、秘密の暴露、レイプなどと呼ばれているものとして、場合によって出現したりしなかったりする(経験的可能性)(「グラマトロジーについて」)。

*「暴力のエコノミー」・・・3つの暴力
第一の暴力   名付けること=原エクリチュールを元にした原暴力
第二の暴力   形而上学的暴力、「プラトン主義」形而上学
第三の暴力   反形而上学的暴力、フーコーの「狂気の歴史」

あらゆる言葉、あらゆるパロールも原エクリチュールの働きを受けるのだから、顔の呼びかけ、「なんじ殺すなかれ」というパロールも、必然的に原暴力に汚染されていることになる。他人との顔との関係は「根底的に平和的」なものではありえない。それが言葉であり、呼びかけであるかぎり、たとえそれが殺人の禁止の呼びかけであったとしても、純粋な「非暴力」ではありえないのだ。

「原暴力」が最後の言葉ではないのは、まず、それを知るのは「みずからの有限的な哲学的言説の責任の問題」を提起するためだからである。哲学的言説、あるいは一般的に言説(ディスクール)を組織しながらそのことの暴力性に無知でいることは、デリダによれば無責任なのである。なぜ、自分の言説の暴力性に無知であってはならないのか?デリダの答えは、おそらく、ここでは暴力と戦うことが問題になっているからだと、というものではないだろうか。

「決定の、決断の、絶対的な決断性の、しかしまた脅かされた共同体。問いはまだ、それが探求しようとして言語を見いだしていないし、共同体の内部でのそれ自身の可能性を確信してもいない。問いの可能性についての問いの共同体。それはまことに微々たるもの、ほとんど無である。だがそこにこそ今日、決定の尊厳と打ち消しえない責務、打ち消し得ない責任が潜んでいるのである。」(「暴力と形而上学」)

脱構築ニヒリズムではない。すなわち、すべてを破壊し無(ニヒル)に帰着せしめる否定の思想ではなく、ある無制限な「肯定」の思想だと言うことははっきりしている。デリダがここでプラトニズムとその道徳とは別の仕方で、「決定不可能なものの決定」を思考し、かつ実践する。そうした「責任」について語っているのは間違いないと思われる。

*このような暴力に対して無知であってはならない。暴力と戦わなければならない。それは「決定の尊厳」と「打ち消しえない責務」、「打ち消し得ない責任」である。