デリダは死臭を嗅ぎつける・・・ その2

デリダは死臭を嗅ぎつける・・・その2


形而上学とは

プラトンのテクスト自身のなかで、形而上学の構築の欲望とそれを脱構築する契機とがせめぎ合っていること、(プラトン主義)形而上学とはじつは、この「決定不可能」なせめぎ合いを一定の仕方で「決定」し、この「決定」を固定化するところから生じたものしたにすぎない。
現代思想冒険者たち デリダ 高橋哲哉  id:pikarrr:20040318#p1)

これはテクストにおける主体と客体の関係においていえることだろう。主体としてのプラトン自身の中の「決定不可能」と、そしてそれを読むことにより起こる客体の中の「決定不可能」。すなわち言語記号そのものが脱構築構造を内包したシステムなのである。

デリダ脱構築は「プラトン以来」の存在論の歴史の「解体」というハイデガーのモチーフを継ぐものであり、両者の哲学観に大きな影響を与えたニーチェにとって、哲学とは「プラトン主義」形而上学の別名であった。
現代思想冒険者たち デリダ 高橋哲哉  id:pikarrr:20040318#p1)

このような立場にたてば、デリダ形而上学とは、客体たち(ニーチェであり、ハイデガー)の中の「決定不可能」に対する決定であり、デリダ形而上学脱構築とは、客体(デリダ)の「決定不可能」の提示である。そしてそれは、客体たち(ニーチェであり、ハイデガー)により「決定」された形而上学に対峙するものである。しかしこれはまた別の面ももつ、ニーチェハイデガーを主体とした場合に、彼らのテクストを読む客体としてのデリダは彼らのテクストにおける「決定不可能」を「形而上学」として「決定」しているということである。

さらにさらに、デリダを主体とし、その読者を客体とした場合にもこのような決定と決定不可能の問題が起こる。これはどこまで発散してしまう。それはこのような脱構築構造が、コミュニケーションとしての言語記号そのものが脱構築構造を内包したシステムだからである。これは言語記号システムに内包された私たちは相対化によってしか、自分の位置を決めることができないためである。


暴力という死臭

「原暴力」が最後の言葉ではないのは、まず、それを知るのは「みずからの有限的な哲学的言説の責任の問題」を提起するためだからである。哲学的言説、あるいは一般的に言説(ディスクール)を組織しながらそのことの暴力性に無知でいることは、デリダによれば無責任なのである。なぜ、自分の言説の暴力性に無知であってはならないのか?デリダの答えは、おそらく、ここでは暴力と戦うことが問題になっているからだと、というものではないだろうか。
(「グラマトロジーについて」)

だから決定の問題は、「哲学的言説は暴力である。」だから無知であってはならないのであり、戦わないとならないのである。すなわち、そこに「暴力はある!」のである。しかしそれはなぜ暴力なのだろうか?

ある人を固有名で呼ぶことは、すでにして、その人の唯一性、独自性、「固有性」を抹消する社会的暴力なのだ。(現代思想冒険者たち デリダ 高橋哲哉  id:pikarrr:20040318#p1)
「絶対的に固有な呼称は、言語において他者を純粋な他者として認め、他者をあるがままのものとして要請するが、この呼称の死はまさに独自なものにとっておかれた純粋の特有語の死である。派生的な、ふつう言われている暴力の[・・・・]偶発性に先立って、その暴力の可能性の空間として、原エクリチュールの暴力、差異の暴力、クラス分けの、また呼称体系の暴力が存在する。」
(「グラマトロジーについて」)

常識的に考えれば、言語は便利なものである。言語によって我々は大きな恩恵を受けているのである。固有な言語名称のない世界を考えた場合に、我々はたえず唯一性にさらされる。これは言語能力を持ち得る前に回帰することを意味するのではない。存在認識の問題である。まさに記憶が失われたような世界であり、そこで我々は生存することなどできるだろうか。我々は、唯一性から原エクリチュールへの転換によって生きることができ、さらにはコミュニケーションとしての言語記号そのものが脱構築構造を内包したシステムであるから、たえず変化し続ける世界に対応することができているのではないのか。デリダはなぜこのような「生」のシステムを「暴力」として断罪するのだろうか。

一つ言えるのは、「生」の中に潜む暴力性を暴露しようとしているということになるだろう。さらには暴力性が顕在化するもの、言語記号そのものが内包した脱構築機能が働かない「死につつあるテクスト」について警告を送ろうとしてのである。再び、デリダ脱構築はなぜ西洋的な形而上学や法にのみ向かうのかということは、そこにデリダは死臭が感じるからだろう。

そしてデリダの思想(原エクリチュールであり、反復可能性であり、脱構築であり)は暴力への警告という面の裏に、「生」の力という面があるのである。

つづく・・・・