デリダもパロールにより欲望する

デリダパロールにより欲望する


エクリチュールの力

この世界には反復可能など存在しない。すべては絶えず変化し続けている。すべては唯一性の連続である。しかしデリダはすべては反復可能性であるという。それは認識という行為に置いてである。我々は言語記号の反復可能性=原エクリチュールにより世界を認識しているのだ。

ここには二つの面が見いだせる。一つはデリダのいう原エクリチュール=原暴力である。それは唯一性を失わせる。

反復可能性により、言語記号は主体の意識や生の現前をつねにすでに越えている。言葉と意識主体の間には、純粋な生の現前によって埋めることができない「本質的裂け目」が存在し、言語は常に意識的思考による充実が不必要な仕方で意味作用を行っている。主体の現前性の権威は、言語、記号、経験一般の意味作用に関して、主体が(主観性や相互主観性)がヘゲモニー(主導権)を握ることはできない。あらゆる主体はその「名」によって純粋な「自己の現前」を奪われる。固有名の本質的な反復可能性は、名で呼ばれるすべての主体の純粋な固有性を不可能にしてしまう原暴力である。
現代思想冒険者たち デリダ 高橋哲哉 id:pikarrr:20040316#p1)

もう一つの面は、我々はこのようにしてしか世界を認識できないということである。反復可能性が失われた世界では、私は絶えず変化し続け、唯一性にさらされて、私の同一性は失われる。我々の同一性はこのような力により支えられてはじめて可能になるということだ。反復可能性とは、コミュニケーションである。世界へそして他者へ開かれることによって、私の同一性は保たれるのである。

反復可能性の論理とは、反復を他者性に結びつける論理、同一性と差異、反復と他化を同時に含む。差延としての反復は同一性の支配下から差異と他者性をに向かって開放しようとする。つねに自己同一にとどまるのではなく、絶えず変化し、他なるものとなり、多なるものになっていくこと。
現代思想冒険者たち デリダ 高橋哲哉  id:pikarrr:20040316#p1)

エクリチュールは、私の「純粋な固有性」を不可能にし、私の同一性を保つ。すなわち私が独我的そのものであることを不可能にし、私を世界との関係性による私とするのである。



「他者」の特殊性

この「世界との関係性による私」とは、ラカンの言う「人の欲望は他者の欲望である。」ことに繋がってくる。

「ウィ」はもとより、通常はフランス語で否定の答え(いいえ、否)を表す「ノン」に対立し、肯定の答え(はい、然り)を表す副詞である。それが「私」に対する「他者」との関係の先行性を決定的なかたちで確認するからである。「ウィ」の肯定は他者の肯定、言語としても他者の、さらには言語の他者の肯定にほかならない。言語以前に到来し、パロールであれ、エクリチュールであれ、語であれ文あれ、およそ何らかの発言がなされるときには常にすでにそれに伴い、それを可能にしているような「根元的」肯定である。なにを語り書くにせよ、この根元的な肯定があらかじめ言語の場を開いているのでなかったら、まったく不可能になってしまうだろう。
現代思想冒険者たち デリダ 高橋哲哉  id:pikarrr:20040316#p1)

これは、私を相対化する世界の中での他者の特殊性を表すのである。だから人は「他者」の欲望を欲望するのである。ここに示されている世界に中の「他者」の特殊性とは、私の定義した自他同期可能性である。

「私」に先立ち認識された「他者」とはなんだろうか。言語を獲得する以前、進化上の人以前から、「私」は「他者」を認識することができた。しかしこの場合の「他者」を認識するとは単なる認識ではない。世界の中での「他者」の特異性は、密接なコミュニケートが可能ということである。これは遺伝子構造がほとんどが同じである生物学的な同種同科であるということである。このような「他者」の存在を自他同期性のある存在とする。これは生命の種にとって根元的性質でないだろうか。同種は生得的に自他同期性を備えているのである。犬は、自分が犬であると認識していなくても、他の犬に対して、自他同期性を持つのであり、蜂は、自分が蜂であると認識していなくとも、他の蜂に対して、自他同期性を持つのである。
(「コミュニケーション自己構築論」id:pikarrr:20040307#p1)

「この世界には反復可能など存在しない。すべては絶えず変化し続けている。すべては唯一性の連続である。しかしデリダはすべては反復可能性であるという。それは認識という行為に置いてである。我々は言語記号の反復可能性=原エクリチュールにより世界を認識しているのだ。」
このように言うときに、そこに現れる「他者」の特殊性とは、私と限りなく同じように、「言語記号の反復可能性=原エクリチュールにより世界を認識しえる存在」、「「ウィ」という「根元的」な肯定をがあらかじめ言語の場を開いている存在」。それが「他者」の特殊性である。すなわち「私を世界との関係性による私」とするときの世界の中でも特別な存在が「他者」なのである。



デリダパロールにより欲望する

パロールのそのつどの経験的出来事としての種しゅの変化、音声の強さ、抑揚、調子などの経験的・物理的特徴が厳密に同一性はないとしても、それらが失われたあとでも機能するのでなければならない。変化を貫いて同一の言語記号として再認される必要がある。そして表現形式の同一性はどこかに実体として存在するわけではなく、それ自身の反復可能性として構成されている。これはパロールエクリチュールを含む言語一般の可能性の条件である。
現代思想冒険者たち デリダ 高橋哲哉  id:pikarrr:20040316#p1)

エクリチュールパロールエクリチュールを含む言語一般の可能性であり、プラトンの示したパロールの現前性=生の充実が失われたものだとしても、プラトンの示すパロールエクリチュールの差異が解消されたわけではない。

「私を「他者」との関係性による私とする」=「人の欲望は他者の欲望である。」ために、私は他者を必要とするのである。そしてパロールエクリチュールには、他者について得られる決定的な情報量の差がある。すなわち、パロールエクリチュールでは自己同期可能性の差があるのである。原エクリチュールによりパロールによる「他者」(主体)の現前性が「純粋」でなくとも、「他者」(主体)を失ったエクリチュールに比べて、パロールでは「他者」(主体)の情報が豊富である可能性があり、自他同期可能性が高いのである。これはパロールエクリチュールという形而上学的二項対立ではなく、コミュニケーションにおける情報量の問題である。

パロールエクリチュールには他者に対する情報量の差が存在し、それが私が私であるために必要とされる自他同期性なのである。すなわち原エクリチュールは、形而上学的なパロールエクリチュールの二項対立を解体し、コミュニケーション上のパロールエクリチュールの差、自己同期性の差を露わにするのである。私はこのような「限りなく純粋な」パロールで現れる現前する「他者」の欲望と自他同期することにより、「限りなく純粋な」私たり得ようとするのである。


だからデリダパロールにより欲望するのである。