エクリチュールの時代 その1 欲望するハニカムハーツ

欲望するハニカムハーツ(蜂の巣状化する心たち) その1


デリダは言語記号の反復可能性によって、パロールエクリチュール形而上学的二項対立を脱構築した。反復可能性は、パロールエクリチュールを含む言語一般の可能性の条件であり、パロールでさえも純粋な現前性を保証しない。しかしそれでもパロールエクリチュールには、差があるだろうと私は行った。その差は反復可能性自身により要請される。反復可能性は私の純粋な固有性を失わせるために、私の同一性を保つには「他者」との関係性=他者の情報量が必要とされるためである。そして他者の情報量は一般的にパロールが多いということである。

パロールによる現前する他者の情報が溢れる集団内では、自己は現前する他者とのソシュール的差異の体系として位置付けられる。すなわち他者でないものが私である。そしてソシュール的差異の体系は本質的に陣取りであり、権力闘争的である。


現代の複写技術時代、規格化という複写技術により同じものを大量に生産され豊かさが享受されている。ここでは自己さえも規格化され、社会には私が大量に溢れ、社会的に自己は均質化していく。それが大衆である。そうした均質化する他者の中で、パロールによる差異体系としての自己を確立することは困難になる。私の唯一性とはなにか、を模索しなければならない。すなわちそれは欲望すべき、されるべき唯一な他者が必要とされる。

そして唯一な他者は作られる。他者はデリダ的引用可能性を複写可能性に拡張し、エクリチュール的言語記号=他者記号として大量に複写される。自己はパロール的均質化した現前の他者との差異の体系からはみ出し、複写されたエクリチュールの中の虚像的な他者記号、非時間的、非空間的な超越論的シニフィアンとしの他者記号を唯一なものとして欲望する。ここでは現前する他者との権力闘争的関係は、回避される。

社会的に均質化し他者回避する外面的自己と、他者記号を欲望する内面的自己という二重構造がうまれる。自己が外層的に均質な殻をもち内部にこもる。このような状態をハニカムハーツ(蜂の巣状化する心たち)と呼ぶこととする。



動物の欲求は他者なしに満たされるが、人間の欲望は本質的に他者を必要とする。…したがってここで「動物になる」とは、そのような間主体的な構造が消え、各人がそれぞれ欠乏ー満足の回路を閉じてしまう状態の到来を意味する。コジェーブが「動物的」だと称したのは戦後のアメリカ型消費社会だった…。アメリカ型消費社会の論理は、五〇年代以降も着実に拡大し、いまでは世界中を覆い尽くしている。マニュアル化され、メディア化され、流通管理が行き届いた現在の消費社会においては、消費者のニーズは、できるだけ他者の介在なしに、瞬時に機械的に満たすように日々改良が積み重ねられている。
東浩紀動物化するポストモダン』)

アメリカ消費社会は、大量生産の既製品による豊かさの社会である。ここでは人は均質化する。そして現前の他者を回避する。これが「動物化」であるが、ハニカムハーツはその内面で深く欲望している。自己の構築を模索している。ラカンの「人の欲望は他者の欲望である。」に対して、ハニカムハーツは「人の欲望は他者が欲望していると思われる記号(他者記号)の欲望である。」たとえば、他者が女子校生とセックスしているだろう状況(他者記号)に欲望する。しかしそこでは、他者はどこにもいない他者であり、どこにもいない女子高生であり、どこにもない状況である。だから実際に女子高生とセックスしても満たされない。


ブランド品などの消費を欲望することは、そこには他者がブランド品を欲望しているだろう、ブランド品は他者が欲望するだろう他者記号を欲望する姿である。コギャル、援助交際も同様な傾向が見ることができる。そこにあるのは他者に欲望されているという他者記号から欲望であり、自己証明行為という面がある。ひきこもりは他者回避により、他者との闘争を回避し、他者記号に埋没する。

またこのような他者記号の唯一性への欲望は、シミュラークルという疑似唯一性の作成へ向かう。それは疑似唯一性作成が容易なアニメ、マンガ、パソコンへ向かう。これがオタクだろう。これらのシミュラークルロリコン性が見られるのは、ロリータが大衆化(複写された私)となる前の他者記号の唯一性の象徴であるからだ。これはペットを溺愛する人たちにも言える。ペットとは野生の記号であり、複写された大衆でない唯一性の象徴である。