エクリチュールの時代 その2 加速するデリダ的対象a

加速するデリダ対象a その2




ラカン対象a

ラカン思想について。人は言語を獲得した。そして言語により、世界を認識する。しかし言語には、私とはなにか?という問いに論理的に答えられない根元的な自己言及の不完全性構造がある。これは東浩紀氏的表現でいえば「ゲーテル的不可能性」である。私とはなにか?がぽっかり空いてしまっているのだ。そして、「他者の中にある私」を見ることにより、その穴を埋めようとするのである。その「他者の中の私」がラカンのいうところの「対象a」である。ここでこれを「ラカン対象a」とする

他者が「他者の中の私」=「対象a」を欲望することにより、私の存在の有意味性が保たれるのである。これは「私が真に欲していることが実現されるときには、私の欲望は他者の欲望として実現される」のである。だから私は他者の欲望を欲望する。しかしその穴は、私が「他者の中の私」を見るだけではを完全に埋められない。それは「大文字の他者」の視点=神の視点によって、私が見られように、私が「他者の中の私」を見たときにのみ可能となる。そして「大文字の他者」に私が欲望されたときに、私の存在の完全な有意味性が得られる。

しかしこのような他者と自己の関係は、パロール(会話)的世界のものではないだろうか。そして他者たちとの差異の体系の中に自己の意味を見いだすことになる。

ラカンパロール的世界をもっとも的確に指摘し得たのは、ある種当然である。ラカン精神分析家であり、精神病患者に対する現前する他者であったのであり、転移される位置に立っていた。これはパロールを仕事にし、さらには記号未理解よりも心象未理解を積極的に消費しようとしたのであり、人格消費を仕事にしていたのである。
(「記号コミュニケーション史(構想)」 id:pikarrr:20040310#p1)

パロールによる現前する他者の情報が溢れる集団内では、自己は現前する他者とのソシュール的差異の体系として位置付けられる。すなわち他者でないものが私である。そしてソシュール的差異の体系は本質的に陣取りであり、権力闘争的である。
(「欲望するハニカムハーツ(蜂の巣状化する心たち) その1」 id:pikarrr:20040321)



デリダ対象a

このような構造主義的なラカン思想に対して、デリダは、「言語の反復可能性は、パロール的現前の他者の純粋性は保証されない」ということから反論した。それは、ラカンが「郵便物は必ず届く」言うのに対して、デリダは「郵便物はかならず届くとは限らない」ということで象徴される。これの意味するところは、言語コミュニケーションにおいては、現前の他者でさえも、私と他者の間には、コミュニケーションの不完全性=郵便がとどかない不可能性があるということである。私が「他者の中の私」を言語認識する場合には、絶えずこのような不可能性が存在する。これを東浩紀氏は「ゲーテル的不可能性」に対して、「デリダ的不可能性」と呼んでいる。そしてそれを考慮せず、大文字の他者を想定することは、否定神学的であるとデリダは反論した。

現代の複写技術時代、規格化という複写技術により同じものを大量に生産され豊かさが享受されている。ここでは自己さえも規格化され、社会には私が大量に溢れ、社会的に自己は均質化していく。それが大衆である。そうした均質化する他者の中で、パロールによる差異体系としての自己を確立することは困難になる。私の唯一性とはなにか、を模索しなければならない。すなわちそれは欲望すべき、されるべき唯一な他者が必要とされる。
そして唯一な他者は作られる。他者はデリダ的引用可能性を複写可能性に拡張し、エクリチュール的言語記号=他者記号として大量に複写される。自己はパロール的均質化した現前の他者との差異の体系からはみ出し、複写されたエクリチュールの中の虚像的な他者記号、非時間的、非空間的な超越論的シニフィアンとしの他者記号を唯一なものとして欲望する。ここでは現前する他者との権力闘争的関係は、回避される。
社会的に均質化し他者回避する外面的自己と、他者記号を欲望する内面的自己という二重構造がうまれる。自己が外層的に均質な殻をもち内部にこもる。このような状態をハニカムハーツ(蜂の巣状化する心たち)と呼ぶこととする。
(「欲望するハニカムハーツ(蜂の巣状化する心たち) その1」 id:pikarrr:20040321)

私は、他者の欲望でなく、他者記号を欲望する現代の大衆をハニカムハーツと読んだ。そして現代においてデリダ的引用可能性が複写可能性に拡張され、ハニカムハーツが欲望するのは、「他者記号」である。そして「他者記号の中の他者の中の私」が「対象a」に相当するだろう。そして「他者記号の中の他者の中私」=「対象a」は、デリダラカン批判における、デリダ的不可能性に大きく関係する。いわば、「デリダ対象a」である。

デリダ対象a」が、ゲーテル的な不可能性を根元にしている点は、ラカン的「対象a」と同じであるが、「デリダ対象a」における「唯一性の他者記号」の向こうの他者は、ラカン対象aの他者と比べ、他者情報が少ない上に、デリダ的不可能性によって、存在自体も不確かな他者である。



記号組織化

たとえば、アニメオタクはアニメを他者記号として、アニメの向こうに「デリダ対象a」を見ている。そして現代ではたとえばエヴァンゲリオンという「デリダ対象a」に対しては、多数の人たちが他者記号を共有している状況がある。このような状況でなにがおこるのか?

多数の人たちはエヴァンゲリオンという他者記号の向こうに多数の他者がいて、エヴァンゲリオンに対して欲望していることと考えている。そしてそこに他者との差異=唯一性を見いだそうとする。それはどこにもいない他者であるかもしれないが、いるだろう他者に対して、少しでも違う位置に立ちたいと欲望する。他者より深くエヴァンゲリオンをしらなければならない。それはたとえば、調べるということだけでなく、エヴァンゲリオンのシミューラークルを作り出すことにより、自分だけのエヴァンゲリオンをいう唯一性をつくろうとしたりする。

ラカン対象aを欲望することは、社会=差異の体系の中で自己の位置を規定することであったが、デリダ対象aを欲望することは、物質的、社会的規定、現前する他者という規定がない。このようにエヴァンゲリオンの記号意味は多くのひとの欲望を内在し、自律的に、ダイナミックに変化することになる。大衆の中で自律的にエヴァンゲリオンの物語世界が広がっていくのである。これは記号意味の記号組織化が加速された姿がある。そして現代はこのような記号組織化が加速された虚像記号で溢れているのである。

ロリータを欲望する、欲望されたいのは、ロリータが虚像化した他者記号であるかだ。それは大衆化する前の「唯一性の他者記号」である。ペットも同じだろう。それは野生という記号であり、大衆化しない「唯一性の他者記号」である。また他に虚像化する他者記号として、ブランド品や、タレント、ファッションなどがある。これらの共通点は流行の変化が早いということである。それは記号組織化の中でより情報の先端を欲望しあう見えない他者たちとの競争が加速させていると考えることができるのではないだろうか。



踊らされるデリダ対象a

しかし現代における他者記号の特徴として、そこに意図性がみえる。他者記号のほとんどが、マスメディアと中心として企業により作られているということである。それはキャッチに記号を切り取り、資金力をもとに、大量に複写しばらまき、大衆に浸透させるか。それは必ずしも意図したようにうまくいくとは限らないが、それがうまくいけば記号意味は大衆の中でかってに記号組織化する。これはデリダのいう「原エクリチュールの暴力」をいかにうまく活用するかのコマーシャル戦略である。

このような複写技術社会で、我々はキャッチな記号をただ提供されることになれてしまっているのではないだろうか。現前を現前として認識することができなくなり、現前の欲望を現前として欲望する力が失われていっているのではないだろうか。唯一性を求めるが、それさえ記号としてである。われわれは記号にしか欲望できなくなっているのかもしれない。ロリコン、アイドル、二次元、ブランド品、恋愛、ペット、あゆ…などの「唯一性の他者記号」を欲望する。その中で自己自身も虚像化している。それはリアリティーの喪失と言われるものかもしれない。