エクリチュールの時代 その3 絵本化する世界

絵本化する世界 その3


なぜ人は記号を信仰するのか?
デリダは「あらゆる主体はその「名」によって純粋な「自己の現前」を奪われる。固有名の本質的な反復可能性は、名で呼ばれるすべての主体の純粋な固有性を不可能にしてしまう原暴力である。」そして「反復可能性は絶えず一定程度の「イデア的同一性」を生み出す。」と指摘した。これは言語の差異の体系の中で、「「決定不可能」なせめぎ合いを一定の仕方で「決定」し、この「決定」を固定化する」形而上学、あるいは反形而上学に繋がる暴力と指摘した。ここからデリダ脱構築を提唱し、「「決定不可能なものの決定」を思考し、かつ実践する。そうした「責任」」を求めたのである。

しかしこのような「原エクリチュール暴力」であり、「形而上学、あるいは反形而上学的暴力」は、人の言語記号認識の根元的なものとも考えられるのである。そしてそこには、「なぜ人は記号を信仰し、形而上学を信仰するのか?」という問いが生まれる。これはデリダ思想の逆転の発想である。そして現代の記号消費社会は原エクリチュール暴力が加速された社会といえる。そのような意味でデリダの言語記号についての解釈は現代大衆文化を考える上でも有効なのである。



認識能力の限界説
このような「イデア的同一性」への欲求は、自己においては有機構成的生命の本質といえるかもしれない。

有機構成は、物質的要素が複合体をなすさい、要素の特定の配置が維持されているような、同一性を保つ構成化の水準を示している。物質的要素が複合性をなして、特定の水準を維持するようになったとき、そこには物質現象には見られなかった新しい現象が生じる。この独自の構成化の水準を指標するものこそ、有機構成である。有機構成こそ生命の特性を具現している。
オートポイエーシス 河本英夫

そして世界を認識することにおいても同じようなことが言える。すべてが「純粋な現前性」の世界では、そもそも世界を認識することなどできない。差異の体系が完全に消失した世界はまさに混沌である。さらに「イデア的同一性」は身体の物質的なデータ圧縮機能と考えることもできる。限られた記憶容量でいかに世界を「経済的に」認識するかということである。

たとえば目の前にりんごが百個あったとして、どれ一つとしてまったく同一なものはない。色、形、大きさが違う。仮にこれらすべてを純粋な固有性のものとして認識すると、われわれの記憶容量はあっという間にパンクするだろう。だからすべてりんごという「イデア的同一性」なものとして認識し、それが百個あると記憶する。このようにして、言語はソシュール的差異の体系により、世界のすべてを「経済的に」認識可能にしているのである。

デリダはこのような「イデア的同一性」が偽装可能性の上に成り立っていることを「発見」したわけであるが、これは人の認識上の癖を指摘したと言えるかも知れない。それでもわれわれは「イデア的同一性」として、さらには形而上学的に世界を認識せざる終えない。それはたとえば「脱構築」でさえも、デリダの意図を離れて、独り歩きし、形而上学的記号になってしまっている面からもわかる。




絵本化する世界

さらには現代は大量消費、複写技術、物質的豊かさの中で記号消費社会を迎えている。これを記憶容量で考えると我々を取り巻くあまりに膨大な情報の中で原エクリチュールの力に大きく依存しなければ、世界を認識できなきなっているのかもしれない。われわれはもはや「純粋な現前性」のものの中に限りない固有性を見出だすための記憶容量の余裕がない。他者から与えられる原エクリチュール力により加工された簡略化された記号をそのまま受け入れる。それは子供の絵本のようなものだ。絵本は子供のために世界についてわかりやすく、簡略化した、加工した記号である。まさにわれわれの世界は絵本化している。

近代化により現代に繋がる世界の絵本化は始まったといえるだろう。それは数量化革命であり、科学革命である。それは還元主義であり、「還元された同一性」の世界である。産業革命は、「限りない固有性」世界を単位に解体して、「イデア的同一性」=記号として世界を再生産する作業である。均質的に作られた記号はマスメディアの複写技術により世界にばらまかれたのである。そしてわれわれは物理的豊かさの世界を迎える。それは記号の世界である。




欲望をコントロールするハニカムハーツ

そこで立ち現れるのが他者である。この限りなく私である存在の「限りない固有性」を解体して、「イデア的同一性」へと再生産する行為は、苦痛を強いるだろう。なぜなら他者を限りなく私とは違う存在として規定できるような独裁者でもない限り、他者の「限りない固有性」を解体することは、自己の「限りない固有性」を失うことと同じだからである。しかし世界には他者が溢れすぎている。彼ら一人一人の「限りない固有性」を認識するほど我々の認識能力にはもはや余裕はない。だから他者を記号化する。そしてそれは自己を記号化することでもある。他者を回避し、他者の欲望も欲望しなければ、自己の欲望も欲望されないようにするのである。

しかしそれだけでは済まない。自己が自己であるためには、他者の欲望を欲望しなければならないのである。そして記号の向こうに、あるであろう他者の欲望するのである。ここでは他者は私の許しなく「限りない固有性」として現前することはない。私は私の認識能力の状況になわせて、記号を選別し、その向こうにいるであろう他者の欲望を欲望することができるのである。社会的に他者回避し欲望を隠す外面的自己と、他者記号を欲望する内面的自己という二重構造がうまれる。自己が外層的に均質な殻をもち内部にこもる。ハニカムハーツ(蜂の巣状化する心たち)の誕生である。




絵本の住人

現代人は疲れている。溢れる情報洪水の中で、認識し、選別し、記憶しなければ、生きていけない。似たものはなるべく同じものへ、情報は簡略化され与えられたままで、なぜなら限りある認識力、記憶容量は大切に使わなければならない。そして絵本の世界を泳いでゆく…

現代、私の許しなく「限りない固有性」として現前する他者は、拒絶される。そして社会はさらに記号化している。コンビニや、ファーストフードなどを筆頭にして、店員は、「限りない固有性」を隠した同じ制服を来た記号である。われわれはそれを望むし、われわれがそれを望んでいることをメーカーは知っている。

テレビや雑誌は大量の情報を放出する。しかしそれは絵本的でなければ、わかりやすい記号でなければ、受け入れることはできない。巨乳、コスプレ、かわいい、彼女たち自身がもつ「限りない固有性」は必要とされない。それは記号として絵本的記号として、わかりやすく提示されればよい。

わが子、この手間のかかる記号化されず、現前性、唯一性を迫ってくる他者。私はこのために私の限りある認識能力をそそいでもいいのか。世界にはもっと楽しい絵本に溢れている。そうテレビから流れる他者記号は呟く…恐れべき幼児虐待の心理はこのような心理かもしれない。

それでも私は、絵本化された世界の中で、自己という限りない固有性を見いださなければいけない。それは、絵本の中から私が他者記号を選別するのである。記号の向こうにいるだろう他者を選定するのである。それは私の興味のある記号であり、そこに唯一性の他者記号でなければならない。記号の向こうにいるだろう他者の欲望を欲望し、記号の向こうにいるだろう他者に欲望されるほどに、他者記号については、深く知らなければならない。唯一性を見いださなければならないのである。だからなおさら、その他の記号は絵本的記号であってほしいのである。