デリダってだりだ?・・・いやぜんぜん寒くないっすよ。



なぜデリダなのか?


私は前々から「言語記号の魔力」について考えていたわけです。そこでデリダの思想をしって、これだ!と思ったわけです。

デリダ曰く、ある人を名前で呼ぶことは、すでにして、その人の「唯一性、独自性、固有性」を抹消する社会的暴力である、ということです。ある人を名前で読んだり、認識するときに、認識する人はあるイメージをもってしまう。「こいつは面白いやつだな。」と思うと、たとえば彼が真面目なときに、彼らしくないとか思ってしまいます。しかし彼には様々な面があるわけです。そしてときどきで様々な面をみせることはある意味当然なわけですが、そのような彼の固有性をイメージとして規定してしまう。

これはデリダが指摘する名付けに続く、「形而上学的な暴力」に繋がります。名付けることにより善/悪、生/死、魂/物質、内面性/外面性などの単純な二項対立として、世界を認識してしまう。たとえば「広末涼子は悪い。」という社会的なイメージで彼女をバッシングしてしまうとか、「ユダヤ人は悪い。」ということで差別して、アウシュビッツのようなことに繋がる危険をはらんでいます。

デリダはこのような言語記号による規定は、様々な人によって認識される中で作られ、そこには勘違いしていることは避けられないという言語記号の特徴を暴露します。そしてそのようなイメージにとらわれずに、様々な面を考え、その判断には「責任」持とうと言うわけです。これが脱構築です。広末涼子だって様々な面がありますし、ユダヤ人にも様々な人がいて、様々な面があるはずです。

デリダの思想から私はこれこそ「言語記号の魔力」に繋がると思ったわけです。たとえば熟年夫婦で、妻の髪型が変わっても夫が気づかないというようなことが言われますが、ここでは妻は記号化しているのでしょう。そのとき"の"妻の唯一性は失われているわけです。しかしこれは単にデリダのいうような暴力か?と思うわけです。確かに妻にしてみれば、そのような変化にはたえず気づいてほしいとか、いつも女として意識していてほしいとか思うのかもしれませんが、そこには安心、安定、安らぎみたいなものもあるわけです。

逆にいえば人はこのような名付けや、世界の単純化によってしか、世界を認識できないのではないか。それは人の、さらには生物の知恵ではないのかなと思うわけです。これは本来のデリダ解釈からすると邪道なのかもしれませんし、デリダリアンの方々からすると疑問を持たれるかも知れません。しかしこのような発想から、私を、世界を、歴史を考えてみようということです。



デリダは死臭を嗅ぎつける」id:pikarrr:20040317、id:pikarrr:20040319


ここでは上述のようなことを言っています。デリダ自身はこのような脱構築思想を、特に西洋哲学、法へ展開したわけです。これらの西洋哲学、法、あるいは正義の問題はとても重要な問題です。それら「死につつあるテクスト」と考えました。デリダはそのような死臭を嗅ぎつけて、脱構築により再生しようとしている。ここでそれを「死につつあるテクスト」と呼ぶことには、反論も多いと思いますが、デリダのいう暴力が、「記号の魔力」と考えると、私が考えたい現代文化における流動的な「生」の言語記号との対比で「死」と言いました。(これもデリダ的二項対立的考え方ですが・・・・これは人の「サガ」ですかね。)

常識的に考えれば、言語は便利なものである。言語によって我々は大きな恩恵を受けているのである。固有な言語名称のない世界を考えた場合に、我々はたえず唯一性にさらされる。これは言語能力を持ち得る前に回帰することを意味するのではない。存在認識の問題である。まさに記憶が失われたような世界であり、そこで我々は生存することなどできるだろうか。我々は、唯一性から原エクリチュールへの転換によって生きることができ、さらにはコミュニケーションとしての言語記号そのものが脱構築構造を内包したシステムであるから、たえず変化し続ける世界に対応することができているのではないのか。デリダはなぜこのような「生」のシステムを「暴力」として断罪するのだろうか。
一つ言えるのは、「生」の中に潜む暴力性を暴露しようとしているということになるだろう。さらには暴力性が顕在化するもの、言語記号そのものが内包した脱構築機能が働かない「死につつあるテクスト」について警告を送ろうとしてのである。再び、デリダ脱構築はなぜ西洋的な形而上学や法にのみ向かうのかということは、そこにデリダは死臭が感じるからだろう。



デリダパロールにより欲望する」 id:pikarrr:20040320


プラトンは、話す人が目の前で生き生きと話すパロール(話すこと)と、書いた人が見えない死の言葉、エクリチュール(書くこと)という対立を示しました。それに対して、デリダは上述のように言語の暴力は言語一般の特徴であり、パロールでさえ、生き生きとしているわけではないと指摘しました。デリダはこのような言語の特徴を原エクリチュールを名付けました。これはまさにデリダの原点的な思想なわけです。

しかし私はこれらを「言語の魔力」と考えるときに、「一般的に」やはりパロールエクリチュールよりも生き生きとしているだろうと指摘しました。それは発信者に対する情報量という点に注目するということです。目の前でそのまで話された時には、文書で与えられるよりも、発信者に対するより多くの情報が得られるだろうということです。そしてこれは「一般的に」ということです。

パロールエクリチュールには他者に対する情報量の差が存在し、それが私が私であるために必要とされる自他同期性なのである。すなわち原エクリチュールは、形而上学的なパロールエクリチュールの二項対立を解体し、コミュニケーション上のパロールエクリチュールの差、自己同期性の差を露わにするのである。私はこのような「限りなく純粋な」パロールで現れる現前する「他者」の欲望と自他同期することにより、「限りなく純粋な」私たり得ようとするのである。

なぜこのような考えが必要であるのか、ということは、デリダの思想にかかわります。デリダの思想では、私が私を呼ぶ「私」という名前は、様々な人によって認識される中で作られると考えるからです。他者がいなければ、私は私を私と認識することはできない。ここでは他者から情報量が重要になるのです。そこに勘違いが避けられないとしてもです。



エクリチュールの時代」 
 その1 欲望するハニカムハーツ id:pikarrr:20040321
 その2 加速するデリダ対象a id:pikarrr:20040321
 その3 絵本化する世界 id:pikarrr:20040321



「記号の魔力」、すなわち人の認識の変化を考えた場合に、以下のような時代区分を考えています。

ここで人類史を、「私という言語認識上の破れを埋めるために世界へコミュニケートしつづけるもの達」の歴史として以下のように分類したい。

  1. パロール(会話)時代 (言語獲得〜前期近代)
  2. エクリチュール(書かれたもの)時代 (前期近代〜ポストモダン
  3. パロ-リチュール(文字会話) (ポストモダン〜現代、ネットスペース〜)

ここでいうパロールエクリチュールの対比はデリダの示した概念的なパロール(音声言語)/エクリチュール(文字言語)の対比をもとにしている。そしてパロ-リチュール(文字会話)とは私が作った造語であり、ネットスペースでの文字会話、たとえばメールや2ちゃんねるのような掲示板などを示している。
(「記号コミュニケーション史(構想)」 id:pikarrr:20040310#p1)

そしてそのうちのエクリチュールの時代について考えています。ここでは特に「記号の魔力」が複写技術により、マスメディアにより増幅された世界における人の認識の変化です。大量の複写された記号、情報、そして他者さえも溢れる。ここでは人は生々しい現前の他者を避け、人は「記号の魔力」により簡略された絵本化しれた世界を生きる。そして私が私であるために、記号を通して大衆という虚像的な他者を見るようになる。というよなことです。

それでも私は、絵本化された世界の中で、自己という限りない固有性を見いださなければいけない。それは、絵本の中から私が他者記号を選別するのである。記号の向こうにいるだろう他者を選定するのである。それは私の興味のある記号であり、そこに唯一性の他者記号でなければならない。記号の向こうにいるだろう他者の欲望を欲望し、記号の向こうにいるだろう他者に欲望されるほどに、他者記号については、深く知らなければならない。唯一性を見いださなければならないのである。だからなおさら、その他の記号は絵本的記号であってほしいのである。




野蛮の復活id:pikarrr:20040315


これは「記号の魔力」による時代区分を、イメージ的に考えた原案です。そしてエクリチュールの時代につづく、パロ-リチュール(文字会話)の時代を「野蛮の復活」と読んでいるわけです。これはこの日記の題名「2ちゃんねるポストモダンを越えていく」に繋がります。まだまだ構想段階ですので、ほんとうは「2ちゃんねるポストモダンを越えていく?」となるのでしょうが。
2ちゃんねるというものの不思議さには、新たな「記号の魔力」を感じます。エクリチュールの時代で考えれば、これだけ人が集まるメディアならば、渋谷ではないですが、大型店舗が乱立し、タレントがプロモーションにきてもおかしくない。しかし2ちゃんねるは、エクリチュール時代の「記号の魔力」の主体たち、資本権力、マスメディアは遠巻きにみるだけですし、評論家もモラルが低いとか、最近の若いやつは的な批評しかできない。だからといって2ちゃんねるにかつての全体主義的権力があるわけでもなく、実体さえない。なんなんだと、この2ちゃんねるなるものは?確かにプライバシーやモラルなど多くの問題があるのはわかりますが、それだけではない力があるように思うのです。それは明らかにエクリチュールの時代の「記号の魔力」とは違う。これは、記号越しでも、他者が「現前する」、他者が「唯一性、独自性、固有性」をもって迫ってくる。すなわち「野蛮の復活」ではないのか?みたいな感じです・・・この件はこれからぼちぼち考えていきます。

HPを作ると言うこと、日記を書くと言うことも同じである。しかしネットコミュニケートの本質は、他者が現前化することである。会話できることである。それが非時間的で、非空間的で、非物質的他者あっても、私だけにコミュニケートする他者が存在する。
「他者の欲望を欲望する。」
虚像の解体。実体欲望への回帰。人格消費の復活。野蛮の復活。