エクリチュールの時代 その4 加速する記号組織化

エクリチュールの時代 その4 加速する記号組織化



大きな物語


記号表現に対する記号意味が自己組織化的に成長する構造を記号組織化(sign-organization)と呼んだ。たとえば「東京」という記号意味(イメージ)を考えてみると。

  1. マスメディア(主体)が「東京」のイメージを大衆(客体)へ提示、広報する
  2. 大衆(主体)の中で「東京」のイメージが変化する。
  3. 大衆(主体)への受けを狙ってマスメディア(客体)が「東京」のイメージを抽出、創作する。→①へ

ここでは現代の情報の発信者としてマスメディアを想定したが、様々な人々を巻き込んで、記号意味(イメージ)が自律的に成長していくような構造であり、ここにおいては、その始まりはない。そしてこれは記号意味を作る根本的な構造だと考えられる。

リオタールはポストモダンを「大きな物語の失墜」といった。ここでの「大きな物語」とはかつて唯一の真理と正義に向かって進歩していける、と信じていた信念である。これは記号組織化構造において、この主体と客体の間に比較的明確な境界がある場合ではないだろうか。たとえばかつて自然現象(主体)から影響を受けて、人々(客体)の中に「神話」が生まれた場合、自然現象は人々から影響を受けない。自然現象は完全なる主体であり、人々は自然現象の前では完全なる客体化する。そして人々の中で記号組織化が起こる。封建的な社会では完全なる主体は権力者であった。それは地域的、宗教的、学問的権力者であった。そして完全なる主体と完全なる客体という静的な構造としての「大きな物語」という「神話」が生まれえた。



大きな物語」の喪失


たとえば大衆=東京人と考えた場合には、

  1. マスメディア(主体)が「東京」のイメージを東京人(客体)へ提示、広報する
  2. 東京人(主体)が「東京」人になろうとすることにより、「東京」という記号が変化する。
  3. 東京人(主体)からマスメディア(客体)が「東京」を抽出、創作する。→①へ

このような循環構造では、完全なる主体も、完全なる客体も存在しない。東京人は「東京」という記号に内包されている。そして東京人になろうとする。これは「東京」という記号のシミュラークルをつくる行為である。マスメディアの強力な複写力により拡散される記号は、大衆全体で同時に同一の記号体験することを可能にした。そして情報化が加速する中で、マスメディアも巻き込んで、主体と客体が入れ替わり、大衆の中で「物語」が作られていく。ここでは唯一の真理と正義に向かって進歩していけるという幻想は生まれ得ない。完全なる主体と客体という静的な構造としての「大きな物語」から、ダイナミックに変化し続ける「物語」へと変わっている。

このようなダイナミズムは、「女子高生」においてもみられる。女子高生は高校に入るから女子高生になるわけである。これは社会的なルールにより、自分の立場が決められるということである。従来は彼女たちはこのような社会的なルールによって女子高生になったのである。しかし現代において、「女子高生」になるということはもっと複雑である。記号組織化構造において、「女子高生」のイメージは作られる。大衆と女子高生が、主体となり客体となり、それらが関係しつつ「女子高生」の「物語」がダイナミックに成長していくのである。ここでは女子高生自身が客体として「女子高生」になろうと、「女子高生」のシミュラークルと作り出そうとしている。

記号組織化の加速は、記号間の移り変わりも加速する。記号は消費されるのである。かつて「女子大生」ブームがあった。しかし「女子大生」は記号組織化され、その差異がを解消されていった結果、「女子大生」は記号消費され、「秩序化」され、ダイナミズムを失う。大衆の興味は「女子高生」は向かった。さらには、「女子高生」の差異は消費されていく。大衆の記号への欲望は、女性が生産される起源(少女)へ向かう。すなわちロリコン化である。欲望はさらなる未理解な対象へ向かうのである。
人々は、差異を生む記号を欲望し、自己が内包されたダイナミックな物語を好む。たとえば日本における「政治」という記号は「死につつある記号」である。保守的な議員による当たり障りない決め事や、汚職や賄賂で捕まる政治家。ここにはいまだに政治という主体と、大衆という客体の構造がある。記号組織化のダイナミニズムが起こりにくい近代的な構造になっているのである。



リアリティーの喪失

「東京」の例では、たとえばイメージ(たとえば、あこがれ)が自分に跳ね返ってくる。これは自分で自分のイメージを作る(自分にあこがれる)というパラドクス構造を生む。それはイメージ通りの(あこがれの)「東京人」を演じなければならないというような自意識過剰や強迫観念的を生む。

現代では「私」さえも記号組織化の対象である。「私」は社会に所属している。家族の一員であり、学校に所属している。社会の中で「私」についてのイメージ(記号)が作られる。「私」はそのイメージを強く意識する。他者が自分をどのように思っているのか。そしてそのイメージから、自分自身のシミュラークルを形成する。すなわち自己演出していくのである。イメージ通りの「私」を演じなければならないというような過剰な自己演出から精神的疲労し、自己喪失や他者回避傾向を生む。

このような自己演出は、社会の劇場化、大衆行動の演技化につながる。女子高生、コギャルなどは、見られる、目立つことを前提にしている。彼女たちにとって、社会はある種の舞台であり、演技である。成人式であばれる若者は、反体制的な主張があるわけではなく、友達や見てる人へのパフォーマンスだろう。

記号組織化の加速は、虚像化である。そして欲望を元にして加速された記号組織化は中毒性が高く、依存症にいたることも考えられる。たとえばマスメディアが伝える情報に対して、視聴者はさらに過激なリアルを欲望する。そしてマスメディアは視聴者の欲望を満たすことが目的化とし、さらにリアルは虚像化する。これはマスメディアということではなく、加速された記号組織化の本質であろう。オタクが現実の女性よりも、二次元の女性という虚像にリアリティーを感じたり、SEXよりもAVにリアリティーを感じるというようなリアリティーの変容が起こることも考えられる。記号組織化という浮遊した虚像でしか価値観を産出できない。これは従来の社会的な価値とのズレを生む。



記号組織化消費

ボードリヤールは「もはや消費されないものは死しかないと言った。」が、現代の情報化社会では、このような加速された記号組織化による記号消費に溢れている。「恋愛」では、「恋愛」という記号を消費している。「恋愛」はTVなどのメディアを含めて、記号組織化している。彼/彼女達は、本来に意味での愛し合うという恋愛そのものではなく、「恋愛」という記号を消費している。そして消費することにより欲望を満たす。これはこれは自己満足的な行為である。「援助交際」についても、本来の売春ではなく、「女子高生」であり、「援助交際」という記号を消費している面が大きい。「女子高生」、「アイドル」、「ロリータ」、「ブランド品」、「アニメ」、「友達」、「家族」、「恋愛」、「夢」、「かっこよさ」、そして「自分自身」でさえも同じである。そして私は「死」も記号化されていると思っている。もはや欲望により消費されないものはないのである。

欲望は虚構の価値観の中で肥大している。そして社会は社会性という自制心を要求するが、欲望という自分の興味のあることに過剰な心による加速的な記号組織化消費は近代的な社会システムにおける規律を揺るがしている。

自意識過剰、強迫観念、過剰な自己演出、社会の劇場化、大衆行動の演技化、パフォーマンス化、虚像でしか価値観を産出できない。自己喪失や対人回避傾、依存症、リアリティーの喪失、これらは確かに悲観的な見方かも知れない。多くのひとが社会秩序をもち生活してるという事実がある。しかし現代においてはこのような傾向が露出していると言うことである。

そしてこれらにより、ハニカムハーツ化しているのである。欲望という自己の趣向が深まり、自意識過剰により外層で他者と深くつき合わない。このような心たちが密集するハニカムハーツ。 好き嫌いが大切で、幼稚化し、他者と深い交わりを避け、孤独になる。その反面、自分の好き嫌いが保たれる程度に浅く広いコミュニケーションを求め彷徨う。