暴走するインターネット 鈴木謙介 (2002)
PART3 COMMUNITY 誕生するコミュニティ
010 インターネットは私たちを幸せにするのか?
- 「ネタ的コミュニケーション」
- ネタ的コミュニケーションとは、コミュニケーションそのもののテンプレートへの言及を重ねて行われる、すべてがネタであるかのように振る舞うコミュニケーションの形式。
- 例えばある書き込みにレスをつける際に、2ちゃんねるではまじめに返答することが必ずしも求められない。むしろ本来返答すべき解答とは微妙にズレた回答をすることでおもしろさを演出していこうとする。さらに興味深いのは、そのようなズレた回答へのさらなる(ズレた)言及が、全体としてコミュニケーションを切断させることなく続けていくという点だ。
- すべてがネタである「かのように」振る舞うネタコミュニケーションは、どんなに本気にコミュニケーションをしようとしても周囲から「ネタ」として言及される対象なる可能性をはらんでいる。・・・ネタと了解されるものを本気でレスを返すと、「マジレス」を揶揄される(そしてマジレス自体がネタとして消費される)ことになる。
- ネタとは元々お笑い用語で、芸人が客の前で見せる笑いの芸のことだ。・・・ネタか本気かと言う問題は、実は見るものと見られるものの相互関係の中で曖昧なままにされており、その曖昧さこそが笑いの源泉であるという、微妙な緊張関係にの中で起こるものなのだ。
- 「コミュニケーションのためのコミュニケーション」
- ネタ的コミュニケーションの本質とは、このよな再帰的な運動の中でコミュニケーションそれ自身を自ら構成していくということだそのことは自体はもはや自己目的化しており、ネタ的コミュニケーションが何かの目的に向かうということはあり得ないだろう。
- 「再帰性」
- (2ちゃんねるの)スレッドにおけるコミュニケーションはそれ以前の発言のズレた部分へ言及することで、元のテーマを巡ってというよりも、そのテーマに関するコミュニケーションそのものを巡って継続していく。このような、少しずつ変わっていく自分自身への言及のことを社会学では「自己言及」とか、「再帰性」と読んでいる。「再帰性」とはいわば、「鏡に映った自分」を何かの対象と信じ込んで振る舞う状態。
- 近代という時代は立ち上げ期には「国家」や「人間精神」などの大きな物語への言及を必要としていたが、いったん近代が立ち上がってしまうとその「国家」や「精神」への再帰的な言及だけで近代は再生産可能になっている。(アンソニー・ギデンズ)
- 「データベース的消費」(東浩紀 「動物化するポストモダン」)
- 「オリジナル/コピー」の関係の喪失
- データベース的消費においては、データーベースの組み合わせを操作するのは2次的創作の作者であり、消費者である。
解説 私たちは恐るべき困難な時代を生きている 宮台真司
近代社会を根底で支えている幾つかの振る舞いが、果たしてインターネット上のコミュニケーションでも実現しうるか。問題は、匿名性がもたらす、無責任な愉快犯的行為と、フリーライティング(ただ乗り)行為だ。
- リアル世界における「関係性の不全感」
- 情報量の多さやノイズがの多さが、リアル世界におけるコミュニケーションに自信を持つことを難しくし、責任を負おうという気持ちを萎えさせる。
- リアル世界における述語的なもの、属性的なものをめぐる、取り替え可能性の意識の高まり。「カワイイから君が好き」、「カワイイ子は他にもいるでしょ」
- 人間関係の過剰流動性は、「どうせ遠からず別れる」という未来の先取りにより、関係構築の動機付けが与えられない。別の相手でもあり得たという「出会いの相対化」をもたらす。関係の履歴の堆積を不可能にして、相手の唯一性(取り替え不可能性)が信じられない。
- ネットコミュニケーションにおける「私(わたくし)性の変容」
- 比較的としたネット・コミュニケーションを通じて関係の履歴を構築しようとする試み
- 二者関係に閉じておらず、関係の履歴の積み重ねに立ち会う第三者たちが、いわば証人のような機能を果たす
- 述語的なもの、属性的なものを、強制的に排除できるコミュニケーション