ネタ的コミュニケーションはポストモダンを越えていく その1

ネタ的コミュニケーションはポストモダンを越えていく その1


ポストモダンを笑うネタ的コミュニケーション

「暴走するインターネット 鈴木謙介」 (参照 id:pikarrr:20040329#p1)に示されているポストモダン的現象である「アンソニー・ギデンズの近代的な再帰性」、「東氏のシミュラークルとデータベースの往復運動」は、私の言っている現代の記号組織化構造に近いようにおもう。

このような循環構造では、完全なる主体も、完全なる客体も存在しない。東京人は「東京」という記号に内包されている。そして東京人になろうとする。これは「東京」という記号のシミュラークルをつくる行為である。マスメディアの強力な複写力により拡散される記号は、大衆全体で同時に同一の記号体験することを可能にした。そして情報化が加速する中で、マスメディアも巻き込んで、主体と客体が入れ替わり、大衆の中で「物語」が作られていく。ここでは唯一の真理と正義に向かって進歩していけるという幻想は生まれ得ない。完全なる主体と客体という静的な構造としての「大きな物語」から、ダイナミックに変化し続ける「物語」へと変わっている。
(「エクリチュールの時代 その4 加速する記号組織化」 id:pikarrr:20040325)


しかし2ちゃんねるでの「ネタ的コミュニケーション」は鈴木氏のいうようにこれらと同じ構造で捉えることができるだろうか。

「ネタ的コミュニケーション」と「データベース的消費」の相似
ちゃねらーたちはあくまでデータベースの構成要素としてのコピペやアスキーアートや現実の事件などを捉え、「ネタ」として次のレスにつなげるための組み合わせを楽しんでいるのだ。それに対する非難自体もネタ的コミュニケーションの中ではひとつのデーターベースの構成要素になってしまう。
(「暴走するインターネット 鈴木謙介」 id:pikarrr:20040329#p1)

再帰性とはいわば、「鏡に映った自分」を何かの対象と信じ込んで振るまう状態。」であり、現代の記号組織化とは、虚像化過程である。それは記号と自己の反復の中で世界が虚像化する姿を現している。自己投影した「物語」をつくっていくのである。

それに対して、「ネタ的コミュニケーションはすべてがネタであるかのように振る舞うコミュニケーションの形式。」であり、ネタとはあえて虚像を演じてみせる。「鏡に映った自分」を何かの対象と信じ込んで振るまう状態」を自ら滑稽に演じてみせることである。再帰性を客観化し、意図的に再帰してみせるということである。たとえばオタクを演じてみせる。DQNを演じてみせる。ここではすでにポストモダン的な自己虚像を、面白く演じて茶化すという、「再帰性再帰する」姿がみえる。