情報様式論 THE MODE OF INFORMATION マーク・ポスター (1990) その2

第2章 ボードリヤールとテレビCM

メディアと情報様式
話し言葉は個人間の結びつきを固定することによって、共同体の一員としての主体を構成する。印刷物の構成する主体は理性的で自律的なエゴであり、それはたった一人の線的なシンボルを論理的に結合する、文化の安定した解釈者である。 メディアの言語は話者の共同体にとって代わり、理性的なエゴにとって必要な言説の指示性を掘り起こしてしまう。脱文脈的で、モノローグ的で、自己指示的なメディアの言説によって、受け手は自己構成のプロセスと戯れ、言説の多様な様式と「会話」することによって絶えず自己を作り直すように促されるのである。

社会的出来事としてのテレビCM
テレビCMは美的効果には格調がなく、それが伝達する情報には真実味が乏しく、それが表現する道徳的態度は模範的とは言えず、それが喚起する欲望はリビドーのダイナミズムをすり抜けてしまう。ハーバマスのいうコミュニケーションの普遍的語用論のどれにも当てはまらない。というのも、テレビCMは本気で受け取られることはなく、そもそも世界の何物も表象しない、つまり妥当性の要求を満たすことがないからである。・・・にもかかわらず、それは出現しつつある新しい文化にとって、決定的に重要な記号論的指標となる、と私は主張したい。

広告は消費の手段と関係の両方に重なることによって、経済の中で中心的な構造的位置になる。資本主義経済の主要な問題は、一九二〇年代以来生産から消費へと移行した。希少な資源を求める人類の長年の自然との闘争は、効率的な生産という問題から最大限の消費という難問に変化したのである。

人がテレビCMを見ているとき、彼または彼女はテレビの中にいるのであり、コミュニケーションの主体であると同時に客体となっている。

テレビCMを見ている人は同時にある言説に監視されているのであり、その言説はみずから科学と称しながら、実は消費する主体を合理性と利益という目的に添うように規律づけているのである。・・・また別な事態も生じている。

イデオロギーとしてのテレビCM

テレビCMに関する批判的論文に常に現れる一つの中心的主題は、それが視聴者を非合理な仕方で操作するものだという断定である。・・・テレビCMの目的は買い手に残っている合理性を突き崩し、交換の道具的合理性を、不必要な消費への欲望の鋳型へ変えることにある。こういう見方は、多くの自由主義者マルクス主義者とに共有されている。テレビCMのこうしたネガティブな読みを否定することはできないものの、そこには適切に述べられていない深刻な困難が生じている。

広告の歴史家たちは、理性的な消費者を想定していた告知的なCMから、批判の対象となっている非合理な操作への移行を発見した。この移行は二〇世紀の初めに起こったのである。それは、広告業者たちが、主たる消費者は女性であることを意識した結果である。広告業者たちは女性を非理性的であると考え、広告を観る女性をたちにもっと製品を宣伝するために、社会的不安やロマンティックなあこがれに訴えるような広告を作り直した。批判者たちは広告をしつこく攻撃する中で、道徳的責任をそのコミュニケーションの発信者から受信者に移すことによって、広告の犠牲者である女性を暗に非難しているのである。

アルチュセールは、イデオロギーの主たる効果は、生きている個々人を主体として構成することだと論じる。したがってテレビCMを見る人は、CMによって自分自身を消費する主体として認知するように構造化されているわけである。CMのイデオロギー的効果とは、個人を資本主義社会の「主体」、つまり合法的に自由で自律的な労働者かつ消費者とするような条件を再生産することなのである。・・・主体は実は構造によってその担い手として構成されているのに、自分を行為者だと信じている意味において。「歪曲された」関係である。しかしアルチュセールは、イデオロギー装置は中心化された主体を構成するが、それは錯覚だと論じる。それに反してテレビCMは、錯覚と現実との区別を浸食するような非中心化された主体を育てる。テレビCMは科学とイデオロギー、真理の意識と虚偽の意識、現実的なものと想像的なものとの区別を掘り崩すのである。それらは直接的指示対象のない構造であり、現実と虚構との区別に自ら挑戦する作られた現実モデルであり、自分自身以外何も報償しないような言葉やイメージの束なのである。

記号のシステム

ボードリアールの議論は、人々がCMを「信じている」ということでも、CM自体が(マルクス主義的)代行=表象的論理、つまり原因−結果の分析にしたがう論理を前提とするものでもない。CMが視聴者の無意識に作用し、非合理的な操作を前提とするフロイト的に反転された表象の論理でもない。CMの社会的効果とは、テレビの視聴者はあるコミュニケーションに参加しているのであり、新しい言語体系の一部となっているのである。それだけのことである。だがそれは、ある社会形成を立派に構成しうる条件である。・・・かつてソシュールが示したように、記号の二項対立構造、意味を構成する記号論的差異の体系が理解可能なものになるためには、発話主体を作用者としてではなく言語構造の結果として設定しなければならないのである。話者が「私」という語を発するとき、私とあなたとが区別された言語学的位置を示すように差異化された言語によって<語らされて>いるのである。

ローラン・バルトは、大衆社会が記号を「自然化」しており、それがその言語的特質をなすと論じる。プレモダン社会は自然を「読む」だけなのであるが、モダンな社会は自然を「説明する」。しかしながら説明の言語は記号を「合理化」し、それを恣意的であると同時に自然なものとする。近代社会は、記号本来の言語的性質を曖昧にしながら、商品とは記号以上のものでないとする。テレビCMは商品を「自然化する」どころか、商品の意味と戯れているのである。それは商品のさまざまな「意味」を身に帯びることによって、自分のアイデンティティと戯れるような主体を構成する。

シミレーション、あるいはハイパーリアルとしての社会

古典的資本主義の時代に意味作用の様式は、代行=表象的記号であった。社会的世界は、物質的事象を安定した指示対象とする記号による「リアリズム」という形で構成された。シニフィアンシニフィエを結合する交換の媒体は理性であった。代行=表象的記号をもっとも良く例示するコミュニケーション的行為は、書かれた言葉を読むことであった。書かれた言葉の安定性や線状性のおかげで、理性的主体、つまり自然科学の言説を最高理想とするような記号を用いてリアリズムの言語を話す、確信に満ち首尾一貫した主体が構成されたのである。

新しい情報様式がもっとも鮮明に見られるテレビCMでは、意味作用を行い意味を提示する言語の能力は、その慣習性を認知することによって認められるだけではなく、その能力がコミュニケーションの主題と構造をなすようになるのだ。つまり言語は作り直され、テレビCMの中で新しい結合が確定され、そのことによって新しい意味が生成するのである。ボードリアールの言葉を借りれば、現実よりもリアルなコミュニケーションのシミュレーションが伝達されるのである。ハイパーリアルなものが言語的に作りだされるのである。そしてそれは、消費者がユーザーになったとき、つまりそうしたコミュニケーションによって構成された主体が、商品対象への日常生活における関係の中で構成される別の主体となったときに消え去るのでだ。

テレビCMと情報様式

記号システムとしてのテレビCMの両義性
テレビCMは主体を依存的な視聴者として主体自身の内に統合し、消費者としての主体を構成している。だが、そうすることによってそれは自律的な主体、理性的で男性的なブルジョアの主体を溶解させる。・・・資本主義的な生産様式や家父長制や自民族中心主義と結びついていたようなタイプの主体を解体する。それに代えて視聴者/消費者としての主体を置くとともに、中心化されたオリジナルな行使者としての主体を脱構築するのである。非同時的なモノローグという条件のもとでメッセージを受けてに伝達するためにテレビCMは、受け手を指示対象の位置のおくような言語/世界として自分自身を構成する。受け手/消費者は、テレビCMが「作用する」あるいは「意味」を持つことを保証する神なのである。
メッセージ受容者の二つの役割
一つは操作され、受動的で、消費を目的とした、言説の<対象>の役割であり、もう一つは審査し、認可を与える、指示対象としても言説の<主体>のそれである。対象と主体、事物と神の両方として構成されていることによって、視聴者は主体の位置の不可能性、主体の基本的な非実体性を突きつけられる。
支配の言語に対する批判の可能性
テレビCMが(そして傾向としてはメディア一般が)主体を自己構成者として構成する度合いに応じて、自己構成のヘゲモニー的形態は疑問視されるようになる。主体を従属させるとともに固定するような、非民主的な構造を会話、上役と労働者、男と女、白人と非白人、大人と子供との間の対話は、自己構成のヘゲモニー的形態を強化するようなものである。したがってテレビCMはこうした言説/実践への脅威となるこである。この脅威は現段階では政治的影響はほとんど持たないかもしれないが、それでも支配の言語に対する批判の幕開けとなるかも知れないのである。


コメント

まとめると、テレビCMを象徴とする現代のメディア一般は記号論的意味作用で考える必要がある。そこでは視聴者を非合理な仕方で操作するものだというマルクス主義的な断定は意味をなさない。テレビCMはたえず新しい意味が生成され、視聴者はコミュニケーションの主体であると同時に客体となり、差異化された言語学的位置として絶えず書き換えられる。それは近代的な理性的で男性的なブルジョアの主体を溶解させる。

このような構造は、私の示す記号組織化構造と同じものであるが、しかし現代において記号を操り、同時に、大量に複写し、大衆に体験されることができる現代のマスメディアの権力を、(マルクス主義的)代行=表象的論理、またフロイト的に反転された表象の論理でもないと切り捨てることの危険性も感じる。現代の記号消費では、記号組織化はマスメディアも単なる発信者の位置に居れないが、マスメディア側に大量に情報を発信する権力が存在することには代わりがないのであり、そしてほとんどに置いて作られていくリアリティの基点は、マスメディアの発信をもとにしているのである。それはテレビCMという「本気で受け取られることはなく、そもそも世界の何物も表象しない、つまり妥当性の要求を満たすことがない」メディアよりも、本気で取られ、世界の何物かを表象している、つまり妥当性の要求を満たしているように振る舞うジャーナリスティックなメディアにおいて、さらに問題視すべきだと思う。