楽観主義的ネットコミュニケーション

楽観主義的ネットコミュニケーション


イデア同一性、形而上学の必要性、必然性を考えるときに、ハーバマスは確信犯的にそれらをコミュニケーションの合理性を、倫理性を守るために用いた。近代的民主主義では自律し、理性的な主体になるようもとめられている 。問題は現代社会がこのような近代的理性主義を脱構築しつづけているということだろう。現代では、それは「読み込み」と「暴露」の格闘になっている。主体は内的に対象に対して目的を読み込もうとするが、外的に相対化される。そのためにさらに過剰に読み込もうとする。このような読み込みの過剰は、理性的な人、理性的であるように教育された人に起こりやすい。哲学にはまる人などまさにそうだし、それは「なんのために生きるのだろう」、「幸せとはなんだろう」と考えた時点で、そのような格闘にはいってしまっているともいえる。読み込みが行き過ぎる、正しくあろうとすることは、意味/無意味の二項対立を短絡的に生/死という二項対立へと直結し、ニヒリズムへ至る。このような弊害は社会的にたくさんある。

ではどうすればよいか。私はネットコミュニケーションに可能性をみる。しかしここではハーバマスのようにコミュニケーション行為により理性へ向かうわけでない。理性主義は近代的エクリチュール的世界である。かつての書かれたもの世界では特権的思想家が筋をかき、みなが理性的主体となるよう求められる。それが現代、だれもが書けるようになり価値が相対化し、理性的であることとの間で葛藤している。そして記号の自己満足的読み込みの世界にこもる。

古典的資本主義の時代に意味作用の様式は、代行=表象的記号であった。社会的世界は、物質的事象を安定した指示対象とする記号による「リアリズム」という形で構成された。シニフィアンシニフィエを結合する交換の媒体は理性であった。代行=表象的記号をもっとも良く例示するコミュニケーション的行為は、書かれた言葉を読むことであった。書かれた言葉の安定性や線状性のおかげで、理性的主体、つまり自然科学の言説を最高理想とするような記号を用いてリアリズムの言語を話す、確信に満ち首尾一貫した主体が構成されたのである。

新しい情報様式がもっとも鮮明に見られるテレビCMでは、意味作用を行い意味を提示する言語の能力は、その慣習性を認知することによって認められるだけではなく、その能力がコミュニケーションの主題と構造をなすようになるのだ。つまり言語は作り直され、テレビCMの中で新しい結合が確定され、そのことによって新しい意味が生成するのである。ボードリアールの言葉を借りれば、現実よりもリアルなコミュニケーションのシミュレーションが伝達されるのである。ハイパーリアルなものが言語的に作りだされるのである。そしてそれは、消費者がユーザーになったとき、つまりそうしたコミュニケーションによって構成された主体が、商品対象への日常生活における関係の中で構成される別の主体となったときに消え去るのでだ。
「情報様式論 マーク・ポスター (1990)」 id:pikarrr:20040404


だから私がコミュニケーションというとき、エクリチュール以前のパロールへの回帰を想定している。現前の他者とコミュニケーションする不条理な「野蛮な世界」。失われた野蛮がネットで可能になった、ということである。いまさら自然回帰などできない。理性を求められるならその理性化を楽しんじゃおうというわけである。他者とコミュニケーションすることにより、理性を賭けてゲームをするその中で脱構築と構築を繰り返されることを楽しむ。これは「読み込み」と「暴露」の格闘ではない。「読み込み」とは自己言及的な行為であり、自己の閉じた行為である。それに対して、「理性」と「理性」の格闘では、過剰な読み込みは必要とされないし、自立した、理性的主体は必要とされない。それは「〜といってみるの」次元から始まる。

コミュニケーションは人の、生物の根元的欲求であり、理性よりも先にコミュニケーション欲が存在する。とりあえず話してみるところから始まる。そしてこのような他者とのコミュニケーションは過剰な「読み込み」を暴露する。人の泥臭い部分、いいかげんで、感情的な部分を暴露する。そして理性的であることへの強制を解体する。「なんのために生きるのだろう」、「幸せとはなんだろう」を議論することを楽しむということである。

では責任のレベルの問題をどうするか?議論し楽しむだけでは、責任回避ではないのか、という問題がある。しかし楽しむということと責任を取ると言うことは、対立しない。それは楽しみながら責任をとるということではなく、責任はコミュニケーションにおける他者との相対化された位置から始まるということである。

これはあまりに楽観主義的考えであろう。ネットコミュニケーションにおける発言の無責任さは現に問題視されている。それは匿名性である故に現れるものである。この匿名性は、誰もみていないということによる無責任さである。この点では、問題はネットコミュニケーションに限ったことではない。そしてネットが純粋な民主主義を実現するか?と考えた場合、それは難しいだろう。なぜならば、ネットコミュニケーションとは脱構築と構築が繰り返される相対主義的な世界であり、現前の他者とコミュニケーションする不条理な「野蛮な世界」であるからだ。すなわちネットコミュニケーションは、非合理性をなげくニヒリズムから、非合理性を楽しむ楽観主義的方向性を志向し、結局のところ、能動的な責任は、そのようなコミュニケーションの中で発生する多様な価値からの自己選択、自己責任ということに委ねられることになるのだろう。さらに開きなおれば、非合理性を乗り越えるのは、合理性ではなく、他者に開かれたコミュニケーションによる多様性に求められるべきであるということである。