(2ちゃんねる哲学板)2ちゃんねるとイラク人質問題


168 :ぴかぁ〜 :04/04/10 01:13

「さあ、ゲームの時間です。今日のおだいはイラク人質問題です。みんな自分なりの「意味」は用意したかな? 理論武装してないとすぐに論破されちゃうぞ。本を読んで自分の「意味」を強化させる。論理的に構築するもよし、固有名詞を積み上げて博識で勝負するもよし、ただただ話術で言い含めるもよし、笑いでごまかすもよし、ルール無用の、「意味」ゲームです。

レディーゴォー!!!」


これは、おふざけでなく、ポストモダンを越えていく真面目な姿勢だと思っているわけです。マスメディアを乗り越えて、マスメディアを利用するテロリストを乗り越えて、2ちゃんねるは言いたいことがいえる。たとえば、不謹慎であると言われようが、それを「楽しむ!」。最終は自己判断ですね。



171 :ばかぁ〜 :04/04/10 01:21

いずれにしろ「ポストモダンを越えていく2ちゃんねる」というこのスレにふさわしい問題であることは確かだと思いますよ。テロリストも政府も自分の側に有利な記号論的(いわば勧善懲悪的な)対立に持っていきたがっている。しかし、両者の記号に回収しきれない野蛮な身体性、現前性が常に噴出し続ける。それを記号としてではなく、現前性としてそのまま伝えるメディアは可能なのか(これも既に語義矛盾か?)という問いは、 スレタイの「ネットコミュニケーションにより再び現前の他者と対峙したわれわれ」などと言っている僕らを甘いと笑いとばすか、それとも逆か。

この事件は2chというメディアがそういう野蛮な他者を扱えるものなのか、それともやっぱりただのおしゃべりの場なのか、ということを問われる試金石であることは間違いない。



184 :ぴかぁ〜 :04/04/10 01:49

まず、おしゃべりな場ですね。ここからなにか運動が起こるとか、考えるのは勘違いです。むしろそういう統一的な運動が起こらないところにすばらしさがある。というのが私の考えです。

2ちゃんねるが、野蛮な他者を扱えるか?という意味はよくわかりません。野蛮な他者を扱うとは、どういうことでしょうか。


194 :ばかぁ〜 :04/04/10 02:03

野蛮な他者を扱うというよりは、対話という形態は、野蛮な他者性を排除して秩序立てられた記号体系の一項としての記号を使用していながらも、排除されたものの回帰、またそれだけではなく、新たな野蛮な他者性をも産む、ということですかね。



197 :ぴかぁ〜 :04/04/10 02:11

現前の他者との対話は、差異体系の陣取りであり、それは闘争であると同時に共生ですね。ここでは論理的な、または分かり合えるということでなく、不条理な力の関係によるバランスを取ります。

ここで野蛮な他者とは二つ考えられます。2ちゃんねるによる対話という野蛮性、ポストモダンイスラム圏との対話という野蛮性。

ポストモダンは、現前の他者を回避することにより、野蛮性を回避してきましたが、イスラム圏が他者として、現前化してくる以上、その差異として、ポストモダンは野蛮化します。

人質問題では、現在テロリストの姿が見えません。韓国人が身代金二より解放されたことが本当ならば、メディアを利用した盗人でしかない。ここでヒステリックに正義論や、優先順位論をすることはテロリストの思うつぼです。マスメディアは、おうおうにこのような単純化を望み、報道しそれが世論の単純化に繋がります。ここで2ちゃんねるは、このような単純化を解体します。対話の中の不条理性、残酷性も含めて、単純化に向かいません。

形而上学的な単純化は、エクリチュール的幻想ですね。一部の偉大な思想家が、文章にまとめるときにのみ単純な形而上学が成立します。たとえばニュートン力学は、エクリチュールでのみ成立する世界ですね。一人で思考する故に、人の根源的な不条理や野蛮はうまく隠蔽されるのですね。そして、偉大な思想家のみが、知を想像する特権をもっており、民衆は、それの筋書きを信仰することしかできない。このようにして「大きな物語」は成立してきたのですね。



201 :ばかぁ〜 :04/04/10 02:21

うーん、「イスラム圏」と一括りにされるとちょっと・・・。2ちゃんねるにおける対話という野蛮性についてはともかく、「ポストモダンイスラム圏との対話という野蛮性」という意味がよくわかりません。ここで言われてるポストモダンとはヘゲモニーを持っている側の世界(高度資本主義、高度情報化社会、などを持ついわゆる先進国)と取ってよいのですか?


202 :ぴかぁ〜 :04/04/10 02:22

ポストモダン社会とは、物質的な豊かさを享受する記号消費社会ですね。たとえば最近TVでみるイスラム人民(一部でしょうが)の野蛮さ。これは人が本来もっている野蛮さですね。記号消費社会では、このような野蛮さは隠されるのですね。結果的に、いまはポストモダン社会が国際的なヘゲモニーをもっています。

冷戦時代のように、ポストモダン社会で閉じていた場合には、その中では理性的物語が存在していた。だから核兵器を大量に保有して危機感がたえずあっても、NYテロのようなことは本当には起こらないだろうという幻想が成立し得た。しかしテロリストは、本当は起こらないだろうという閉じたポストモダン社会の暗黙のお約束を平気で破った。

だからといって、先進国がポストモダン社会へ至る過程でもっとひどいことは行われてきたわけで、ポストモダン社会はただその野蛮さを封印していただけですね。イラク戦争は、イスラム圏の野蛮の差異の体系として、隠蔽していたアメリカの野蛮が噴出したともとれますし、それでも結局、アメリカは最新兵器でポストモダン的戦争をしようとしていた。絶対的な兵力の優位で、クリーンに勝利しようとしていた、できると幻想していた感がありますね。しかしいざやってみると、野蛮さとはそのようなクリーンなものではなかった。占領しても、イラク内で噴出しつづける野蛮さ、不条理さが現前化し襲ってくる。



208 :ばかぁ〜 :04/04/10 02:35

ああ、ちょっと意見が違いますね。僕は、形而上学的な単純化パロール=音声中心主義、ポストモダンな単純化エクリチュール=差異主義、ポストポストモダン(?)=パロリチュール=???という便宜的な区別をしてます。



210 :ぴかぁ〜 :04/04/10 02:42


形而上学プラトンに始まりますね。プラトンは音声中心主義をソクラテスに語らせますが、形而上学自体は、プラトンエクリチュールにより生まれます。そして私はポストモダン=記号消費社会は、複写技術により加速されたエクリチュールの時代を考えます。学者によっては、ここをエクリチュールと電子メディアに分ける人もいますが。そしてパロリチュールいついて、語った学者はみたことがありません。インターネットの普及が最近ということもありますが、電子メディア(TV,電話など)の一部と考えられます。それは違うだろうというのが、私の考えです。だからパロリチュールは脱ポストモダンですね。



224 :ぴかぁ〜 :04/04/10 03:54

私の考えは、自衛隊の派遣をどう考えるかは別問題として、国の判断が、テロリストの脅しで簡単に覆るようでは、今後の外交政策、対テロに対して、支障がきたす。よって自衛隊の撤退はすべきでない。しかしこれを、3人を見殺しにするのかという見殺し論、優先順位論、撤退/非撤退=生/死という考えのように単純化し、パニックになるのはテロリストの思うつぼですね。選択肢は多くあり、なんとか、救出する方法がないか、最善の努力をするしかない。

そして2ちゃんねるがこのような問題に意味が見いだせるとすれば、多くの人がそれについて意見をいう、当然そこに結論がありませんが、これによってマスメディア、世論のヒステリックな単純化を解体しつづけることだと思います。