(2ちゃんねる哲学板)2ちゃんねるとイラク人質問題  その2


256 :ぴかぁ〜 :04/04/10 21:58

私は今回の問題にしても、2ちゃんねる脱構築的機能を評価しているわけですが、このような革新的な、意図的な、思想的なものを脱構築し発散させる作用があると考えます。イラク人質自作自演説はたしかにネタ的ではありますが、このようなマスメディアでは隠蔽される考え方のレベルも表現される。その多様性、複雑性を評価したいのです。


259 :ばかぁ〜 :04/04/10 22:10

それには基本的に賛成ですが、2ちゃんねるを単なる「超高度の速効性と参加性を持った週刊誌」的なものにしてしまうかも知れない。ちょっと前にGONという雑誌がありましたが、あれがもしもうちょっとだけ「革新的な、意図的な、思想的なもの」を戦略的に取り入れていれば、素晴らしい雑誌になったかもしれない。GONは結局廃刊(もしくは内容をさらに軽薄にして続いているのかな?)になった。ただのおしゃべり雑誌になってしまったからです。、それと同じ轍をこのままでは2ちゃんねるも踏むのではないか、という余計な心配もしています。


262 :ぴかぁ〜 :04/04/10 22:19

2ちゃんねるを評価するところは、そのダイナミズムですね。エクリチュールではないところに生まれるダイナミズムです。GONのことは良く知りませんが、私が2ちゃんねるというときには、これはネットコミュニケーションのもっとも活発な象徴的な存在として考えています。だから2ちゃんねるがつぶれれば、すたれれば、新たな2ちゃんねるが生まれる。本質はより多くの人が、多様な発言するネット上の場所です。だから、一雑誌と比べてもいみがないと思いますし、ネットコミュニケーションと雑誌媒体との差は大きいと思います。


264 :ばかぁ〜 :04/04/10 22:26

そうですね。でもそうすると「ネットコミュニケーション」と「友達とわいわい」の差異はどうなのかな?単なる量的差異か、それとも質的差異があるのか。


266 :ぴかぁ〜 :04/04/10 22:36

これは、パロールとパロリチュールの違いですが、パロールとの違いは、パロリチュールの中のエクリチュール特性を考える必要がある。それは、人は言語表現としてのみ存在するということではないでしょうか。言語表現は意識しなければ現れない。何かを意図し書き込むことによって存在する。友達同士のわいわいでは、話さなくても存在することができます。黙っているだけで、他者にコミュニケーションすることができます。言語的他者とは意図を持った他者です。だから、パロリチュールでは、友達わいわいよりも、そこにテーマ=目的が存在するのではないでしょうか。2ちゃんねるの構造はカテ、スレッドと目的別に分類されているのはそのためです。雑談スレという場合にも、そこには雑談する目的があると考えられます。友達わいわいは、意図、目的が必要とされません。


276 :パレルゴン :04/04/11 07:35

よく読んでなかったけど、マルクス主義はとうして単純なエクリチュールなのですか?デリダの考えでは、エクリチュールパルマコンが薬と毒の意味を持つように)とは複数の解釈に開かれているのでは?そこからどのように解釈が発展したのでしょうか?


277 :ぴかぁ〜 :04/04/11 16:01

パルマコンが薬と毒の意味を持つように複数の解釈に開かれているということをデリダ脱構築として提示したわけですが、これを逆に考えてみると、エクリチュールというのは、形而上学的、論理的、単純なものとして表現する特性をもつコミュニケーションであるということではないでしょうか。エクリチュール的コミュニケーションにおいては、自己内の曖昧で、複雑な内容を、文字というブロックを積み上げることによってのみ、再現しなければならないのです。形而上学的、論理的、単純なものとならざる終えない。デリダのある時期の文章が、散文的で曖昧なものになったのは、エクリチュールを批判しながら、エクリチュールを書くというパラドクス故と言われたりします。パロールとの対比でいえば、エクリチュールは他者の不在により、他者の情報量(声の調子、態度、顔色などなど)が決定的に少ない。これは言語の特性の問題ではなく、コミュニケーション上の情報量の問題なのですね。

情報量の問題ということは、これは言語論の問題というよりもメディア論の問題になります。エクリチュールを中心とした文化は、論理的に何らかの断定を行い、それを組み立て、完結された物語が作られていくと考えられています。これはまさに近代思想、近代的な世界観に成るわけです。そしてマルキシズムとは、このような形で作られた理性的な世界観ではないでしょうか。たとえば、ニュートン力学などもそうですね。