意味信仰から意味ゲームへ

意味信仰から意味ゲームへの



エクリチュールからシミュレーションへ

わたしはマルキシズムニュートン力学などを、エクリチュール的特性をもった近代的思考であるといいましたが、現代はこのような理性的な合理的な大きな物語は成立しがたい。大塚氏のおたく論などではこのような大きな物語が現代、ガンダムエバなどのフイクションの世界に移り消費されているということです。こう考えるなら2ちゃんねるマルクス好きもそこにフイクション性、ネタ的に、ガンダムと同じ次元でマルクスを読み込んでいるともいえるかもしれない。

たとえばかつてのエクリチュール的なニュートン力学(古典科学)が現代どのように変化しているかといえば、コンピューターシミュレーションによるものですね。もはや科学の世界もエクリチュール的な単純な記述の限界から、コンピュータのアルゴリズムの記述、そしてそれのコンピューターによる繰り返し計算にむかっています。アルゴリズム自体はある種のエクリチュールといえますが、いままでのエクリチュールと違うのは一つは書き換え容易性、書き換えられることを前提としている。またそれはコンピュータ上で走らせて完結させることを前提としているいわば、動的なエクリチュールです。これはまさにポストモダン的ではないでしょうか。

だから思想もこのようなアルゴリズムエクリチュールにむかわなければ、世界の変化に対応できないのかもしれません。社会学や、経済学などはシミュレーションを取り入れられていますが、マルキシズムシミュレーションなどだれかつくりそうです。デリダ脱構築などはアルゴリズム的ではないでしょうか。脱構築ブログラムなどはつくれそうです。さまざまなテキストをインプットして、脱構築されてアウトプットされる。リオタールの大きな物語の消失は科学信仰批判がベースになっています。マルクス主義機械論の古典科学の神聖化に対してこのようなエクリチュール思想の限界を提示したものです。まさにエクリチュールからシミュレーション。静から動への転換です。

シミュレーション的世界を指摘したので有名なのが、ボードリアールです。リアルがシミュレーション、シミューラークル化するポストモダン世界を指摘し、ここでもマルクス主義的価値形態、生産様式世界からの変容を指摘されています。これもエクリチュールからシミュレーションへのポストモダン世界の移行を示していると考えられます。


シミュレーション的形而上学

エクリチュール世界からシミュレーション世界への移行、ポストモダン的シミュレーション的世界への移行は、二つの要素があると思います。一つは科学技術の発展が、先ほどのようにデジタル化の分解能を上げたということ。元々世界は、シミュレーション的複雑な世界であるわけです。たとえば気象などから、身近な物理現象まで。より精密に記述するには、古典力学ではなくシミュレーション記述が必要です。これはアナログをデジタル的に再現する場合の分解能の問題になります。分解能が荒い場合は、エクリチュール的数式により近似的に記述が可能であった。それが分解能が上がることにより、エクリチュール的数式記述では、荒すぎる。より精密な記述が必要になり、それがシミュレーションなわけです。これにより人々は世界の複雑性を知るようになったということです。

二つ目は、科学技術の発展による複写技術により、人間社会が高度に情報化されてきたということです。このような中で人は、近代的なエクリチュール的世界像が解体された。エクリチュール的世界像とは、権力者(宗教的、政治的、学問的)のみが思考し、大著として合理的な世界像を人々に提示し、人々がそれを信仰する形態です。情報化はエクリチュールの氾濫をまねき、大先生の合理的言説も、情報の海の中に埋もれさせ、解体します。そのような複写物の氾濫は、近代の大きな物語的価値観を解体し、様々な価値観を演出していきます。すなわち人々に統一されたリアルを描けないのです。

しかしここで考えなければならないのが、人の形而上学信仰性です。人は言語により認識しなければならない。イデア的同一性として世界を認識しなければならない。これは人の能力、シミュレーション処理能力といってもいいかもしれませんが、の限界によります。複雑なものを複雑なままには認識できないのです。ポストモダン的シミュレーションとは人の知能の補完であるともいえる。コンピュータシミュレーションとは複雑な世界を人間のかわりに処理し形而上学的に提示することとも考えられます。

さらに問題がコミュニケーションの問題です。複雑なものはわれわれはコミュニケーションすることが困難です。だからポストモダン社会において露呈された的きた複雑性は単純化され提示されなければならない。それを商売にするのがマスメディアです。マスメディアとは本質的に世界のマニュアル化づくりです。複雑な世界を単純化し商品にする。リアルをつくり売る。

リアルは商品ですから当然ニーズが存在する。マスメディアは売れるリアルをつくろうとします。だからといって、われわれはマスメディアに操作されている!という単純な図式はなりたちません。リアルは大衆とマスメディアのコミュニケーションの中で作られていくのです。これが記号消費社会です。それでもマスメディアの物量作戦の力は巨大です。われわれはマスメディアとのコミュニケーションを中心にリアルをつくっています。リアルはマスメディアから与えられたリアルを核として各個人の中で熟成されます。人々はオタク化していますが、これらはマスメディアからのリアルへの過剰な読み込み=熟成です。


理性のアイテム化

そこにインターネットが登場してきます。インターネットはメディアの発信を大衆に開放しましたが、本質はホームページや日記づくりにありません。個人のホームページは物量的にマスメディアの脅威ではない。問題はこのような大衆内のコミュニケーション、パロール回帰です。エクリチュール的欲求とは、複雑な世界への不安からかつては大先生の言説信仰であり、現代はマスメディアからのリアルのマニュアル販売だったのが、このような大衆内のパロール的コミュニケーションは、複雑性への不安を解消してしまう。パロール的世界とは、差異体系の陣取りであり、それは闘争であると同時に共生です。ここでは論理的な、または分かり合えるということでなく、不条理な力の関係によるバランスを取ります。このようなバロールの不条理で野蛮な世界そのものが複雑性に同化してしまいます。

またパロリチュールでは、パロールの中のエクリチュール特性を考える必要があります。それは、人は言語表現としてのみ存在するということではないでしょうか。パロールは話さなくても存在することができます。黙っているだけで、他者にコミュニケーションすることができます。しかしパロリチュールの言語表現は意識しなければ現れない。何かを意図し書き込むことによって存在する。だから、パロリチュールでは、パロールよりも、そこにテーマ=目的が存在するのではないでしょうか。そしてここでは、エクリチュール的価値が、自己と他者の差異化のアイテムでしかなくなる。

2ちゃんねるで行われていることがなにかといえば、リアルで遊ぶということです。特にはマスコミでつくられたリアルをネタにしてもて遊ぶ、あるいは各人のもつリアルを戦わせる。こればパロール的コミュニケーション上でエクリチュール的価値観がアイテム化していることをしめします。

文字としてしか存在しないわれわれは、文字、すなわちイデア的同一性であり、形而上学的存在、論理的存在としてしかネット上では存在しえません。ここには実社会の主体とネット上の言語キャラの二重構造があり、それらは同一ではありえません。実社会の主体はすべて言語化されせんから、エクリチュール特性により実社会の主体の曖昧な心象を断定し、言語化しなければならないからです。それは必然的に目的化されたキャラ的にならざるおえず、レスはネタ的になります。察してほしいのレベルは排除され、たえずなにか意味あることを言い続けなければならない。しかし書簡的、日記的ならまだ可能ですが、他者とのパロールの中では、「〜といってみる」のレベルで発言しなければ、存在しつつけることは難くなります。さらにはそれでも存在し続けたいのです。そしてそれはエクリチュールをアイテム化し遊ぶスタンスにいたります。

たとえばポストモダンにおける自己喪失がエクリチュール的価値の消失、生きる意味の喪失であるなら複雑性の世界ではそれは帰ってきません。それはもともと近代的形而上学的世界の幻想でしかない。ポストモダン世界とは、近代的な理性主義が崩壊し、複雑性の海の中で、アニメという記号であり、宗教という記号であり、過剰な読み込みを行い、複雑性の中で形而上学的価値を求める姿です。そして神話、思想という大きな物語から、フィクションとわかっていても、エヴァであり、オウムであり、大きな物語を読み込もうとする姿です。

パロリチュールではこのような意味喪失をゲームとして遊ぶ。お互いの生きている意味を戦わせて遊ぶ。意味信仰から意味ゲームへの転換により、不安感の解消を行う。さらには期待できるなら、ネット上のコミュニティーに参加し、差異の体系としての自己を見つけることができます。ここではポストモダン的過剰に読み込まれた価値はアイテム化し、ネタにされ、消費されます。


理性と野蛮

たとえば、いま行われているイラク人質問題のスレをみてみれば、またまたいつもの悪評な、残忍なネタが繰り広げられています。これらは、この複雑な問題への不安と、それを解消しようとして存在しつづけるために「〜といってみる」のレベルで、レスを繰り返しているのです。そしてそれは単に独りよがりに、レスをしているだけでなく、不安の共有を呼びかけています。マスメディアによるリアルでは解消されない不安を、マスメディアによるリアルをもてあそび、コミュニケーショとし続けているのです。しかしこれらを単に醜悪な姿と見るのは間違いではないでしょうか。そこに人間が本来もつ稚拙さ、醜悪さ、野蛮さが露呈されているだけのことです。

そして、理性、真理さえも、このような人の本来性の創造物です。これらは同じ地平で存在する人間性であり、自然な姿と考えられます。そしてこれらを隠蔽し続けることにエクリチュール的な理性は存在し、そしてイラク戦争は起こったのではないでしょうか。権力闘争とはいつも理性信仰の戦いであり、単に残忍なだけでは、戦争は、大量殺戮はおこらない。ならば、このような人間の稚拙さ、醜悪さ、野蛮さの露呈、複雑性への不安の解消もそう悪くはないのではないか。現代の情報化による複雑性の社会の中で、有用な選択視の一つではないでしょうか。