情報様式論 THE MODE OF INFORMATION マーク・ポスター (1990) その3

第4章 デリダと電子的エクリチュール − コンピュータ−の主体 −

コミュニケーションと新しい主体
電子的メッセージ・サービスはユーザーに固定した情報を提供するのではなく、他のユーザーとの接触を提供する。・・・メッセージ・サービスのきわめて新しい点は、ある個人のユーザーが大勢の中でもつ唯一の同一性が名前か「ハンドル」であり、それはたいていの場合そう思った方がいいが、虚構のものかもしれないということである。・・・電話での会話は声や調子の中に個人の特徴を保持しているので、会話者は彼らの「真の」同一性が自分の気分の中に現れて出てしまうと感じている。メッセージ・サービスにおいては、そのような同一性の痕跡がまったく保持されない。匿名性は完全なのだ。同一性はコミュニケーションの構造の中で虚構化されているのである。

部族社会の小さな共同体においては、諸個人は誕生から「知られて」おり、日常の経験によって同一性を再生産するような広大な親族関係の構造の中に組み込まれている。こうしたコンテクストにおいて、主体は社会的であり、相関的な自己として構築され、再生産されている。都市においては、対照的に、諸個人はそのような同一性の再生産から引き離されているが、ここでの会話は、情報様式以前には対面状況的な位置を必要としており、それゆえ個人を特定する身体的な「署名」をされており、必要ならば実際の同一性は後から召喚することができるのである。書き言葉と印刷によって、同一性はコミュニケーションからさらに取り除かれるようになったが、著者性は、たとえ筆名であっても、同一性を固定する役割を果たした。コンピュータのメッセージ・サービスと共に、言語使用は根源的に伝記的同一性から分離されたのである。同一性はコミュニケーションの電子的ネットワークとコンピュータの記憶システムの中で錯乱したのだ。

コンピュータとメッセージ・サービスの媒介を通して、書かれた言語は社会的コミュニケーションから同一性が想像的なものとなる地点へと引き出される。この想像的というのは、すべての主体が常に脱中心化され、自己−疎外されるような、ラカンのいう発達の鏡像段階において生産される想像界とは違っている。コンピュータの会話者はエゴと欲望の間の差異、無意識によって構造化された自己の内部の裂け目を再生産させたりしない。そのかわりに書かれた会話は、通常のコンテクストのラッビングのないその生産過程の中で、(想像的な)主体を創出するのである。主体というものは常に想像的なものであって、統一されたエゴとはブルジョワ文化のイデオロギー的な幻想かもしれないのだ。だが、コンピュータの会話においては、一種の主体のゼロ度、あるいは空虚な空間が実践へと構造化されている。つまり、書いている主体は自分自身を直接他者として提出するのである。

コンピュータによるメッセージの匿名性は、コンピュータの会話者によって、社会的束縛からの解放として経験されているのであるが・・・コンピュータの会話者は「自由」なわけではなく、さまざまな形で限定されている。それはコンピュータ化されたシステムにつながれている。先行する主体の構成によって制限されている。つまり典型的にはそうした自己を束縛するものとして経験的に制限されており、その結果自己が隠されたり、宙づりにされると、違反しているという感覚が喚起されるのである。・・・私は、コンピュータのメッセージが日常生活で否定的な形態で構成されている主体の特定的の側面を強化するかもしれないと疑っている。私は、実際に電子的メッセージが何かしら「全体的」で「真実の」自己構成行為をしていると主張しているのではなく、その代わり、新しい制限や可能性をもった、自己構成のプロセスの再配置が作られつつあると言いたいのである。

電子的共同体
コンピュータ上のエクリチュール掲示板での会話は著者/テクストの関係に新しい限定をもたらしている。主体の新しい配置におけるもっとも将来性のある変化は、ロゴス中心主義的な現前性のテクストによる置き換えを通じた変化ではなく、著者/テクストの関係とは異なる発話のレベルにおける主体の散乱の形態による変化である。グラフィックなマークと対立する電子的なマークは、日常生活におけるエクリチュールと読解に関する時間/空間の座標の深いレベルでの再形成を可能にするのである。電子的マークは、ディコンストラクションがすべてのエクリチュールに固有であると論じた、反ロゴス中心主義的な傾向を急進化させるのである。グラフィックなマークから電子的なそれへの変化は、社会的空間全体に電子的エクリチュールを広く普及させ、前−電子的エクリチュールの時間的な限界を切り崩すのである。

ディコンストラクションと電子的エクリチュール
デリダにとって、エクリチュールはそれ自体がすでに反−ロゴス中心主義的な原理を含んでいるのである。・・・書物、手紙、葉書以上に、コンピュータのエクリチュールディコンストラクション主義者によって始められた分析の用語に挑戦し、それを急進化するのである。もし、痕跡や空間化やマークがロゴス中心主義的な主体を動揺させるとすれば、コンピュータのエクリチュールやコンピュータの会話のテクスト的効果によって、われわれは中心化された主体の認識論的権威に対する挑戦から、同一性それ自体を根源的に疑問に付すような形で同一性の再布置へと移行する。

コンピュータのエクリチュールはまさしくポストモダンの言語的行為の真髄である。主体の非−線的な空間−時間性の中への散乱、その非−物質性、その安定した同一性の粉砕などによって、コンピュータのエクリチュールポストモダン的主体の工場を設立し、非−同一的な主体を構成する機械を作りだし、西洋文化にとっての他者を西洋文化がもっとも大事にしてきた考え方の中に書き込むのである。それをわれわれは一つの怪物と呼ぶことができるだろう。



コメント

「同一性はコミュニケーションの電子的ネットワークとコンピュータの記憶システムの中で錯乱する。」これはもちろん、電子的エクリチュールが主体を精神的に錯乱させるわけではない。デリダエクリチュール論でしめされたロゴス中心主義的同一性の動揺を、電子的なエクリチュールは加速させる。すなわちコンピュータ・エクリチュールにはディコンストラクション的作用があると言うことである。それは時間的、空間的であり、現存するヒエラルキーであり、社会的主体の錯乱である。これは「社会的束縛からの解放である」が、「「自由」なわけではなく、さまざまな形で限定され」ながら、「新しい制限や可能性をもった、自己構成のプロセスの再配置が作られつつある」と暗示される。

私は電子エクリチュールの中のさらにパロリチュール(ネットコミュニケーションの文字会話)に注目している。これはエクリチュールにおける主体の反ロゴス中心主義ではなく、そこに疑似現前化する他者とのパロール的コミュニケーションに注目するのである。マーク・ポスター氏は「序章 何も指示しない言葉」等において、情報様式の区分の一つとして、パロール的現前の他者とのコミュニケーションを上げているのに、電子コミュニケーションは単にエクリチュールの延長線上としてしか扱っていない。

パロリチュールでは、リダのエクリチュール論の延長線上にある電子エクリチュール論ではなく、まさに疑似現前の他者により「ラカンのいうエゴと欲望の間の差異、無意識によって構造化された自己の内部の裂け目を再生産させる」のである。しかしこれはロゴス中心主義への回帰ではない、ここではもはやロゴスはコミュニケーションゲーム上のアイテムでしかない。そしてそれはディコンストラクション脱構築)である。すなわちここでしめされるのは、静的に電子エクリチュールに内在する反ロゴス中心主義的原理ではなく、パロリチュールにという動的なコミュニケーションの中で行われるディコンストラクションである。そして自己構成のプロセスの再配置が行われる。それはエクリチュールとしてのみ存在する主体であり、どん欲に他者との差異化により自己を再配置しようとする「野蛮」な主体である。