リアルの暴露 (野蛮なテロリストと野蛮な2ちゃんねる)

リアルの暴露 (野蛮なテロリストと野蛮な2ちゃんねる



理性/野蛮

巷では、やはりイラク人質問題議論が盛り上がっている。だいたい、構図も見えてきたような気がする。思想家、ジャーナリズム系からの自衛隊撤退しないことへの政府批判。大衆では、どちらかというと、自業自得などの人質を非難する意見が多いように思う。さらに話題?になっているのが、2ちゃんねるの「自作自演」説や、人質バッシングである。


様々な意見の中で、テロリズムへの非難に向かう意見は比較的少ない。この「事件」の犯人はテロリストなのであり、感情的にイスラム罵倒に向かうこともできるのではないだろうか。たとえばこの犯人が日本人であれば、それは感情的な犯人非難がおこるだろう。これは問題をわたしたち内部の問題(アメリカも含めて)と考えていることだろう。結局のところ、イスラム圏とは遠い異国で、「他者」なのである。そしてこれらは内部で問題を処理しようとする傾向は、単に感情的に発言するのではなく、理性に処理しようとするスタンスといえるかもしれない。それは2ちゃんねるでの人質への誹謗中傷も含めてである。

イスラムのテロリストの思考の根底が宗教的なものであれば、われわれには理解できないところの、使命感で動いているのかもしれない。これが世界的な対立、戦争!であるということをテロリストたちが思っていた場合に、われわれの内部の問題として処理しつづけることができるのだろうか。日本で大規模テロが行われた場合に、それでもわれわれは、理性的に対処することができるのだろうか。

理性/野蛮は二項対立しない。テロリストがもつ野蛮は、われわれの理性の中にも隠蔽されている。そしてだから安易な博愛主義や平等主義は単なる野蛮の隠蔽でしかない。たとえば後進国にとって利己的な感情であっても、私たちは生き残りたい、繁栄したい、そのような野蛮を持っていることを否定してはいけない。これはテロリストを、後進国を、力により押さえ込むという安易なことではない。理性的であることが平和的であり、野蛮的であることが暴力的であるという対立も成り立たない。われわれは利己的な主体であることを認めながら、テロリストという「他者」と向き合わなければならないのではないだろうか。



リアルの暴露

イラク人質問題議論では、様々な専門家が様々な発言を行っている。それはTVであり、新聞であり、ネット上などで。しかしどれも今ひとつ説得をもって聞こえてこない。思想家、ジャーナリズム系の政府批判についても、今ひとつぴんと来ない。われわれはもはやある分野のみの専門性、テクニックでは問題の複雑性を説明し得ないことをしってしまっているし、マスメディアは危機を叫ぶことによりお金をもらっていることもしってしまっている。そしてこのような人々は、模範的な発言をすることが強いられていることもしってしまっている。逆に匿名の名無しの言葉の方がある種の説得力、リアリティを感じてしまう。これはネットにより多くの匿名の名無しの考えを知ることができるようになったということであり、かつての有名の専門家たちの発言が、同じ地平の中で埋もれていっているように感じる。

われわれは今まで複雑な問題を、多くの専門家の追ってきた。いまでもそうである。たとえば病気であれば、医者のテクニック頼ってきたのである。そこにどのような問題が起こっているのかわれわれには理解し得ない。われわれは医者を信頼することによって問題を解決しようとしてきたのである。しかし今回のような複雑にシステム化された問題において専門家とは誰だろうか。イラクの専門家、人質交渉の専門家、宗教の専門家、思想の専門家などなど。このような複雑にシステム化されている問題では、もはや細分化されたテクニックでは乗り切れなくなっている。専門家が示す「リアル」は、全体の一面でしかないということを知っている。

このような不安の中、われわれは2ちゃんねるへ向かう。2ちゃんねるの優位性は、たくさんの「リアル」か収集されていることではないだろうか。だれの言葉だろうが引用され、反復され、さまざまな解釈が与えられる。すなわち脱構築される。そしてこのようなリアルをアイテムにして、ネタ的に遊ぶことにより不安を解消しようとするのである。

ここで今回のような人質への誹謗中傷は、そのリアルの幅をしめしている。そのような遊びがリアルの幅を広げているのである。さらにそのスレがのびることは同意にしろ、同意しないにしろ、関心への「署名」である。ただの誹謗中傷だけでは多くの「署名」は得られない。2ちゃんねるのジャンクの中にすぐに埋もれてしまうのである。それがだれもが持つが「いってはいけない」内面的暴露であるから「署名」されるのである。もし2ちゃんねるの発言が不快ならば、それは自己の野蛮を暴露されたことの不快である。これは理性の中に隠蔽されていた野蛮さの暴露である。そして理性的主体の脱構築である。だから問題は近代以降、隠蔽することにより、なりたっていた社会秩序においてこのような暴露はゆるされるのかということである。

しかし現に、われわれは2ちゃんねるに向かうのである。そしてそこにあるシミュラークル(作り物)、ジャンク(クズレス)の多く含まれた海の中で、選択し、「署名」し、自分の考えを相対化するのである。もはやリアルはそのようにしてしか手に入れられないのかもしれない。