言語化する主体

言語化する主体



「野蛮」な2ちゃんねる

ネットにおいては、主体は多くにおいて言語として存在する。HPにしろ、日記にしろ、2ちゃんねるなどのパロ-リチュール(文字会話)において、書かれた論理的な主体として現れる。言語は「現実の主体」の内部を切り取り、断定することで出現する。そしてそれは書かれた瞬間にネットの向こうの「現実の主体」から切り離される。そして逆に「言語の主体」が「現実の主体」を規定する。書いてしまうことにより「現実の主体」は、それが自己であることを確認するのである。ネットにおいて、言語として存在する主体は、このようなエクリチュール性を持つのである。

ただ2ちゃんねるなどのパロリチュール(文字会話)においては、必ずしもこれに当てはまらないだろう。人は毎日、そうそう「書くこと」などない。2ちゃんねるの大量のテクスト(書かれたもの)は基本的におしゃべりであり、それはパロール(口頭会話)的である。それは「言語の主体」として構成するようなエクリチュール性に閉じておらず、コミュニケーションにより開かれる。主体は他者との会話により、闘争的に共生的に他者との関係により自己を確認し続ける。エクリチュール性の「言語の主体」はたえず解体され、再生産されつづける。2ちゃんねるにおいて、ある長文を書いたとしても、それは論理的に返答されると期待することはできない。無視され、大量のテクストの中に埋もれるか、ネタ的レベルで反応されるだけである。

2ちゃんねるイラク人質への誹謗中傷や自作自演説を、何らかの思想をもつ論理的な主張として展開されていると思うのは間違いだろう。それは野蛮な「蛮行」である。「暴力」は言語により論理的に断定されることにより、方向性をもち集中した力として行使される。「野蛮」と「暴力」の関係は、へーゲルのいう「欲求」と「欲望」の関係に近い。そしてコジェーブのいう「動物化」といえるかもしれない。2ちゃんねるの野蛮さは、社会になんらかの思想的主張があるわけではなく、パロリチュールでの発言の過激性をもとに欲求的に蛮行として行われる。そして彼等に論理的説得は意味をなさない。

イラク人質自作自演説はメジャーなマスメディアにとりあげられるにいたった。もはや2ちゃんねるはマイナーな存在ではない。2ちゃねらーと言われるへビーユーザーのみではなくとも2ちゃねるの利用者は社会に広範囲にわたっている。社会/2ちゃんねるの対立構造では表せなくなっている。そして2ちゃんねるの「野蛮」は、外部のエクリチュール(HPや日記やマスメディア)へと引用されることにより、「暴力」としての力を得るのである。これは、2ちゃんねるの発言には悪意がなく、引用するものが悪いなどという単純なことをいっているわけではない。これは「2ちゃんねるとその周辺」というシステムである。2ちゃんねるは「周辺」からエクリチュールを引用しながら、パロール的に解体する、はてなやマスメディアはそこから選択しエクリチュールとして組み立てる。



グローバル化するパロリチュール

NYテロのあと、2ちゃんねるでの被害者を誹謗中傷するネタがコピペされていた。それが誰かによって英訳され、アメリカの掲示板にコピペされたのである。それは波紋を呼び、アメリカのマスメディアにも取り上げられるに至った。「暴走するインターネット(鈴木謙介)」より

ここにおいても、2ちゃんねるは何らかの思想、主張をもっていたわけではないだろう。ネタ的レベルの「蛮行」である。それが引用されることによる「暴力」化する。そしてこれは「あくまでネタである」という説明ではすまされない。これは単に日本語が理解されないと言う言語差の問題ではない。日本語が理解できれば、このような2ちゃんねる的野蛮は理解できるかということであり、さらには、ネットコミュニケーション社会へ向かう中での決定的な問題を暗示しているように思う。すなわち言語圏間の決定的なコミュニケーション不全傾向である。

これは誹謗中傷の問題だけでない。言語の翻訳では言語意味のパフォーマティブは排除され、コンスタティブに行われる。パロール的なコミュニケーション場としてのコンテキストから引きはがされ、エクリチュールとして引用される。これは現在の言語圏間のコミュニケーションにおいても同じであるが、ネットコミュニケーションでは、言語圏間は空間性を越え、物理的に離れた異国からワンクリックで繋がる位置におかれ、より多くの情報が言語圏間を越えて流動する。そしてネットコミュニケーションでは、言語圏内に閉じた野蛮な世界が繰り広げられる。そして隣で行われている不理解が不安感の増幅を生む。言語圏間はたえず理解不可能、誤解、脅威な存在として位置づけられていく。経済、すなわちマネーコミュニケーションはすでに確実にグローバール化に向かっているのに対して、このような言語圏間の閉鎖性は、大きな歪みを生んでいく可能性が高い。


さらにいえば現在のイスラム圏との西洋圏の対立は、根底に宗教的対立があるとしても現代において言語圏の対立、コミュニケーション不全と考えられないだろうか。今回の人質問題の中での最も「理解できない他者性」を感じるのはなにか?顔?宗教的言説?過激さ?そのようなものは、いままでも多かれ少なかれ感じてきたし理解できる範疇である。「理解できない他者性」は犯行声明文のテクストではないだろうか。われわれはあのテクストの内容でなく、シニフィエをみたときに限りなく「理解できない他者性」を感じるのである。

今回の問題も日本語外はマスメディアのみにより情報が与えられる。だから2ちゃんねるは、日本語内=人質についての言及でみたされる。多量の日本語の情報内に善悪が閉鎖し、人質=悪のような過剰な反応が起こったといえるのかもしれない。