2ちゃんねるはポストモダンを越えていく

2ちゃんねるポストモダンを越えていく



2ちゃんねるポストモダン社会を越えていく

2ちゃんねる場の大きな特長は、「匿名性」、「物理空間の非共有性」、「主体の言語化」ということになるだろうか。それは社会性の拘束から解放感と、また言語でしか存在できないという抑圧からのフラストレーションを表し、過激で、暴露的で、野蛮化し、かつ純化したコミュニケーション場である。これらはメディア技術要因から来ると考えれば、さらに付け加えるなら、ポストモダン社会で消失した他者=「動物化」した他者との再遭遇を考えなければならない。ここでは再び他者と出会えたことの喜びに満ち溢れているのである。

2ちゃんねるの成功はこのような出会いの場をうまく演出したことにある。過激で、暴露的で、野蛮化し、かつ純化したコミュニケーション場を許容する方法を確立し、他者と出会いの場を演出することに、さらにネットコミュニケーションの特性を引き出すことに成功したのである。

さらにそれは結果的にマスメディア的リアルの脱構築装置として機能しはじめている。2ちゃんねるがネタ的に向かう理由は、たえずマジとの相対化した位置に立とうとする他者の出現である。それは自己顕示しにくいが故の過剰な自己顕示ゲームである。たえず「〜といってみる」の次元でレスが発生する。荒らしでさえ、自己顕示であり、「議論する」の相対化した位置取りである。

それが便所の落書き的であっても、たえず差異を生み出すこの機構が、2ちゃんねる脱構築装置の駆動力である。本質的欲求が他者との差異化にあるとしても、言語としてしか出現できないということは、主張として出現することであり、理性は差異化のアイテムでしかないのである。すなわちポストモダン社会を支えた大衆的理性は、ちゃんばらごっこの刀のように振り回され、ぶつけられ、解体される。無限に繰り返される差異化による脱構築であり、多様性に意味がある。そしていまやプログを中心としたパーソナルな媒体は、巨大化した2ちゃんねるを補完する形で作動している。2ちゃんねるに対するプログの位置は、2ちゃんが放出する多様性からのマジ的の救済であり、2ちゃんねるとその周辺は一つのシステムとして作動しているのである。

2ちゃんねるのこのような特長は、加速された姿だとしても、ネットコミュニケーションの本質的な特長だといえる。2ちゃんねるポストモダン社会を越えていくのである。



2ちゃんねるとマスメディア

2ちゃんねるに関する本がいくつかでているが、どれもぱっとしない。2ちゃんねるはなにかといえば、多くの人が集まる場である。たとえばそれは東京、渋谷かもしれない。だから渋谷という場はなにかと問うのと同じ無意味さがある。しかし渋谷に関する本は成立する。なぜなら読む読者がいるからだ。それは多くの人にとって渋谷が「観光地」という価値を持ちえるからであり、「あこがれ」などの記号として商品化することができる。

しかし渋谷への訪問には空間的制約があるのに比べ、2ちゃんねるへの訪問はあまりに簡単だ。だから「観光」化されない。だから本にしてもせいぜい2ちゃんねるのなりたちや、ひろゆきインタビューぐらいである。本として読むよりもとりあえずおとずれるてみると、そのダイナミックな混沌にはどんな記号化も意味をなさないことがわかる。

2ちゃんねるはマスメディアのいうアングラな俗悪人の集まるところだろうか?おとずれてみれば、ただの掲示板である。社会転覆を企む悪巧みを計画がされているわけでもない。モラル的抑止なく、馬鹿みたいにおもったことをだらだら書かれて、くだらないことで言い合いし、なにがおもしろいのか絵を貼付けてるだけである。

しかしここに2ちゃんねるの本質がある。本というマスメディア、一人の主体の著者分析であらわせない場の出現。これは多くの先鋭的知識人たちが、2ちゃんねるについて語るときの歯切れの悪さ、あるいは見下した捨てぜりふしかいえないなど、彼等には語れないのである。彼らが語ることができない巨大メディアの出現の意味はかなり大きいだろう。

今回の人質事件にしても一部知識人が2ちゃんねるを非道徳的であると非難し、テレビなどのメディアも2ちゃんねるを意識している。しかし彼等の多くも潜在的ちゃねらーでしかないにも関わらず、公には無視を決め込んでいる。どれも2ちゃんねるを遠くに置くことに懸命である。ここにあるのは、2ちゃんねるはアングラとしてしまいたい現メディア権力とみることができる。しかし2ちゃんねるはネットコミュニケーションの先鋭形であり、それは新旧メディアの対立、さらにいえば乗り越えられる旧メディアの姿という構図でみなければ本質は見えてこないだろう。