(2ちゃんねる哲学板)ポストモダン論とシステム論


822 :ぴかぁ〜 :04/04/22 23:39

コミュニケーションという自己生産

「他者」とは、自他同期性という、同種においては先天的に密接なコミュニケーションが可能である存在である。そして「コミュニケーションとは、主体が主体の内部に起こった心象を客体の内面(心象構造)に再現させよう(複写)しようとし、客体が主体の内部に起こった心象を、客体の内面(心象構造)に(複写)再現しようとする」こと、相互理解を深める行為、すなわち心象構造の同期行為である」と定義したい。

そしてここで「心象構造とは記憶である。記憶とは①先天的記憶、②後天的文化記憶、③後天的個体記憶でできている。」そして自他同期性は、記憶形成の時間長さから考えて①先天的記憶(遺伝子情報)がほとんどを閉めている故に、同種において可能となる。

しかし私と他者の心象を完全に同期させることは不可能である。「私と他者の間にはたえず未理解がある。そして心象構造の同期行為とはこのような私と他者の間の未理解を消費しつづける行為であり、そして他者との未理解を消費することにより、私の心象構造は絶えず書き換えつづけられるのである。すなわちコミュニケーションとは私を絶えず再生産されつづける行為である。」

ここで私と他者の間の差異を、記号論的に二種類に分けて考える。「デノテーション的な記号(言語)意味の未理解とコノテーション的な心象的意味の未理解である。そしてそれぞれを消費することを記号消費と人格消費と呼ぶ。」これらは独立したものでなく、コミュニケーションにより相補的に解消される。コミュニケーションは私と他者との未理解を駆動力として、未理解を消費しようとして、反復されるのである。

しかし記号論的にいえば、コミュニケーションの対象は他者だけではない。記号論存在論的にコミュニケーションするとは、世界を認識することであり、世界と心象同期化しようとすることである。さらに私が「私とはなにか?」と私に問う時にも、「私とはなにか?」と問う私とそれにより「意識された私」の間に絶えず未理解が生まれる。問う私はその未理解を消費しようとしているのである。そして意識された私は問う私にとって差異を持つ「他者」なのである。すなわち私は世界とコミュニケートションしつづけることによりつくられていると考えることができる。

「コミュニケーション自己構築論」 id:pikarrr:20040307#p1


827 :ぴかぁ〜 :04/04/23 09:02

たとえば目の前にテーブルの上のりんごがあるとする。この認識は主体側の読み込みにある。そして読み込みなしには「りんご」は存在しない。これはイデア的同一性をもった主体内の認識により「見られている。」これは主体とりんごとのコミュニケーションである。ここで考えるべきは、われわれの生理的認識機能はイデア的同一性方式を採用しているということであり、この機能は独善的な主体側の機能ではないということである。

りんごはその存在自体にイデア的な同一性をもち、さらに食べられたいが故にそのような形態をもつということである。それはコミュケーションとしての関係性により世界は構成されているということである。すなわちイデア的同一性とは認識方法であると同時な存在方法でもある。2ちゃんねるというコミュニケーションにおいても主体はイデア的同一性として認識しようとし、イデア的同一性として存在することを望む。それは言語そのものの特性として現れ「わたし」という言語により規定される。さらにこのような同一性は差異として位置付けなければ同一性を維持できない。


837 :パレルゴン :04/04/23 19:34

リンゴが人間に食べられたいが為に、赤い色をもつと言うのは、常識的には決してありえないことは明確である。 寧ろ、赤い色は毒の色とも考えられるからだ。赤いリンゴは食べられたいのではなく、我々人間の網膜に映る赤の波長が齎した物に過ぎないのだ。この我々の器官に映る赤とそのリンゴの香りと形によって、我々は、幼い頃からの経験に基づいて、それに食欲をそそられるに過ぎないのだ。イデーイ論と言うプラトンの理論がコミュニケーションと言われる。交渉・交流手段に関係するとすれば、それは、コード理論であり、ポスト・モダン的には全く成立しない考えである。


839 :ぴかぁ〜 :04/04/23 19:47

では、こういえば、女性の体は男を発情させるためにエロいのだ。


840 :パレルゴン :04/04/23 20:38

外界にあるとされる、物質は我々人間の活動に於いて有効かどうかで認識されるのである。つまり、食物や道具として有効かどうかは、我々人間の生息に意味あるものかどうかとして現われる事で分かるのである。つまりそこには互いに引き合うという関係性はない。つまり、人間が如何に利用しうるかによって、その意味は、人間の側から一方的に、現象学的にあるいは存在論的に現われるに過ぎない。ところが、雌雄については、そこに性別的な分離が発生するについて、既に、引き合い、互いに求め合い、子を宿すと言う、子孫繁栄的なプログラムが隠されているかもしれない。しかし、このプログラムを神が創ったとは言えないだろう。今はこの問題に触れないが、とにかく、外的物質(食物)への反応と異性への反応はまったく別の次元の問題として捉えうるのである。

つまり、異性的なものについては、参画的な欲望であり、一方的に欲望するのではなく、双方向の欲望、これは、道具関連や意味として現われるのではなく、欲望を欲望するのである。このことによって、「それ」は固有名をすり抜け、語りえぬものの欲望欲動となる。一方、外的物質が少なくとも、自分の子孫繁栄とならないで、一方的に利用され、食い尽くされると言う事考える時、そこにリンゴが食べられたいと言いうシグサがあるとは絶対に言えないのだ。ぴかぁ〜氏の言う論点は寧ろライプニッツモナドジーに近いものかもしれないが、そうであるならば説明が不十分な為に誤解を招いているとも考えられる。つまり、全ての存在者は他の全ての存在者を映し出していると言う、相関的な存在論の視点である。

それぞれの生物の有する肉体=器官=形状は、その生活環境の中で、生活する=生存する為に合理的な基準によって齎されていると考える時、はじめて、その生物が外界の全ての環境にマッチして、その器官をもちえたと考える事は否定できないであろう。つまり、肉体の器官はその環境を映し出していると言う事である。このことから、夫々の生物の器官は、自己完結的に進化したのではなく、外界の環境に即して、自己組織化したと言う事である。


844 :ぴかぁ〜 :04/04/23 21:09

では、こういえば、ある植物はある昆虫が存在しなければ、受精できない構造になっているのだ。ある細菌に感染しなければ、人は生存できないのだ。


860 :パレルゴン :04/04/23 22:43

ぴかぁ〜さん。844についての答は842に書いてありますよ。環境に即して、器官が発達していると言っていますよね。これは、花と特定の昆虫との共生関係を言っているのです。ただし、このような共生関係がダーウインの進化論(突然変異・適者生存)によるのかどうかは、今は述べない。私はその様な偶然性を信じないから。


862 :ぴかぁ〜 :04/04/23 22:50


突然変異・適者生存でなく、一つのシステムとしてみればいいのです。花、昆虫の個体性とはなにか。なぜ花+昆虫を個体と見てはいけないのかみたいなことですね。ルーマンは現在お勉強中です。複雑性の縮減により環境と境界をもってシステムができる。システムとは、複雑性が縮減されて発生するということです。私自身は、これにはまだなっとくしていませんが。


865 :パレルゴン :04/04/23 23:21

どうもシステムと言う言葉の響きがそのシステムの外に何か、神がかりな意識を感じるのですよ。自然界を大きなシステムとすると、そのシステムを意図するものが必要になる。ここのところが不明ですよね。運命論か目的論に舞い戻るんですかね。こう言う運命論・目的論を超えた所に、ポスト・構造主義はあるんですけどね。ポスト・モダンもそうでしょう。


868 :パレルゴン :04/04/23 23:27

システムの中で、どのようにして、その自分の帰属するシステムを証明するのでしょうか?つまり、「クレタ人はうそつきだとクレタ人が言った。」と言うパラドックスに陥るのでは?

つまり、システムAに帰属するaさんは、システムBについて語る時には、システムAの思考パターンを利用します。このことはシステムAの思考から見たシステムBです。しかし、システムAに帰属するaさんはシステムAについて、何も(相対的なものも含めて)語れないのです。

だからこそ、「差延」であったわけでしょう。つまり、自己言及的に再帰する反復性が重要になったって事ですよね。システム論はそこの所をどう乗り切ったのでしょうか。


879 :ぴかぁ〜 :04/04/23 23:58


これは基本なわけですが、偶然性からシステムは生まれるわけです。世界には偶然しかないわけですよ。

私が考えるのは、開放系ですから、システムA,Bというような境界は生まれない。たとえば、バレやんと、冥王星の物体もシステムとして連続性をもっているわけですね。

乗り切ったもなにも、それこそシステムですね。システムの自己言及です。私は差延は動的なシステムの基本動作だと思っています。システムは動的に変化しつずける。たえず差異を生み続けるわけです。たとえば、わたしが2ちゃんは脱構築装置であるというときには、2ちゃんはそのようなシステムとして作動している。というか、世界はそのように作動しているわけです。2ちゃんはネットワークというそれが加速されたかたちなわけですが。


880 :パレルゴン :04/04/23 23:58

どうも、システムと聞いただけで、ヒエラルキーを感じてしまうなぁ。何か目的をもって、組織化されている感じがするよ。と同時にコミュニケーションにつぃても、ある発言内容Aはある受取人にも同じAとして正確に伝わると言う確信みたいな物を感じちゃうんだよね。勿論、コンテクスト論の多様性を踏まえてぴかぁ〜氏は述べているんだろうけど。ルーマンのシステム論と言うか、システム論と聞いただけで、「ウッ」となちゃうんだけどね。

せっかく形而上学から逃れたのに、また、システムというものに捕らわれたって感じ。たとえ、偶然でも、その偶然のシステムに捕獲された人間像って想像できないな。それよりも、逃走でしょう。あらゆるシステムこ構造からの逃走。その手段として、PC,引きこもりがある。

では、システムに境界がないというシステムと言う事でしょうか?開放系について、もう少しコメント欲しいな。それにしても、システムは内部があってこそシステムなわけでそこには、一定のルール 価値観みたいな共通性を必要としているのではないの。冥王星と「わて」のシステムの連続性って、つまり、相対的に存在しているって事なのかな。つまり、冥王星があって、人類もその影響を無視できない、こんな感じ。


885 :ぴかぁ〜 :04/04/24 00:10

>せっかく形而上学から逃れたのに、また、システムというものに捕らわれたって感じ。

実はこれをいいたかったわけです。デリダ脱構築の矛盾は、脱構築という「意図」は、それ自体がイデア的同一性がないと成立しない。脱構築とは、理想的なスローガンであって、人の生理能力的な限界があるわけです。さらにいえば、脱構築はシステムを解体できない。なぜなら、イデア的同一性として世界を認識することが人の生理だからです。

脱構築は論理を心理へと展開しても生理を越えられないということはそういうことです。イデア的同一性という制約は、人の知能(+記憶容量)の制約という生理から来ているのです。

境界はあります。開放系というのは境界が開かれているということですね。たとえば太陽系システムのレベルで、冥王星と「わて」はひとつのシステムとして作動しています。冥王星で風がふけば、バレやんが儲かる可能性は確実に存在します。連続していますので。


892 :パレルゴン :04/04/24 00:18

いやそれはないでしょう。確かにイデアと言う共通項みたいなものが必要な事もあるでしょうが、それが、反復されるにつれて意味が(イデア)が崩れてくる。つまり、アウラの崩壊なのです。常に、固定的なものは反復に耐えられないと考えるべきで、そこの所を再度、イデアを復活させるのは無理がある。と言うか、では、イデアという不動の同一性と言う理念をどの様に復活させ、証明するの?コンテクストの多様性を反古にして。


895 :ぴかぁ〜 :04/04/24 00:23

いっていることが矛盾している。反復されるにつれて意味が(イデア)が崩れてくるのならば、システムが形而上学と考えるのはおかしいですよ。システムの動的性とは、作動されるにつれて意味が(イデア)が崩れてくるということですから。しかし生理システムは、それを崩れないようにしようとしているわけです。崩れるしかないが、崩れないようにしようとして、人の認識システムは作動しているわけですね。差延とは、そのようなシステムの動作のことをいっているわけです。

それと差延脱構築は違いますね。脱構築の「意図」の矛盾を指摘しています。私がデリダに引かれたのは、デリダの反復可能性、差延がまさに言語システムについて記述しているからですね。そして脱構築は、スローガンであり、意味がない。

イデア的同一性とは、現前の唯一性をすべて情報処理するだけの記憶、認識能力が、人にはないからですね。


900 :パレルゴン :04/04/24 00:28

つまり、この説の背景に、類似的運動として、地域通貨論みたいな柄谷の言っている事が係っているのかも知れませんね。つまり、分裂、逃走、欲望、差延、コンテクストの豊穣と言っても所詮人間は帰属社会でしか生きられない、それならば、大きな組織よりも、地域組織に属することで、帝国(国家)のようなより大きな支配=強制統一価値観から離脱した、辺境地にいて、マイナー的な生活(独自性)をしようと考えている。このことと、システム論には共通性があるのでは?


902 :ぴかぁ〜 :04/04/24 00:29

システム論は、なにも指示しませんよ。ただ世界を記述するだけです。


905 :899 :04/04/24 00:35

現前のすべてを同等に受容したら、大量の「音」の中から特定の個人の話を聴くことができなくなりますね。「選択」が働いて「対象」を把握しているわけでしょう。


906 :ぴかぁ〜 :04/04/24 00:35

人は因果関係をもとめ、未来への方向性を求める。ようは複雑な世界を単純化したいのですね。それはまさに、人の知能的限界からくるイデア的同一性を求めることに繋がるわけです。システム論の弱い?ところは、そのようなものを排除する。複雑性を記述しようとするので、そこに因果関係であり、思想的な方向性は現れません。ただ世界を記述するだけです。あなたが苦悩しようが、それがいわば偶然でしかないのですね。究極的な脱構築とは、このような偶然性の世界に帰結します。

おそらくこのような偶然性への発散を回避する?ためにルーマンはオートポエイシスに閉鎖性=イデア的同一性の構造を求めたのではないでしょうか。わたしはまだ納得していませんが。


909 :パレルゴン :04/04/24 00:39

895については、理解できないので、もう少し詳細な説明を求む。多分、ぴかぁ〜さんは組織を運営する必要性を重視しているのでは?だから、システムの崩壊を生理システムが守ると言う事を強調している。その先に、イデア崇拝?がある。私は、イデアの崩壊は国家=構造=言語がしっかりとしている間は壊れないのであり、だから壊そうとしている運動が、ポスト・構造主義であると見ているのです。だから、大きな構造を壊す過程が今だと考えているのです。この辺の前提(現状認識)の違いでは? 生理システムって何なのでしょうか?

全くルーマンは時代を誤読してますよ。いまは、開放なのですよ。大きな物語と言う、国家による組織化価値の統一化への反動期なのに、既に回収に回っているのですよ。


914 :ぴかぁ〜 :04/04/24 00:45

大きな構造を壊すのなど、地球、生命、進化、人類システムではどうでもよいことですね。

違いますよ。ルーマンが求めたのは、普遍性です。(絶対性ではないです。)いわば、人類システムなのですね。現代的な大きな物語などたいした問題ではないのです。

たとえば、イデア的同一性という人の癖は、動物全般から受け継いだ生理システムです。ということです。これはルーマンでなく、私の言葉ですが。


918 :パレルゴン :04/04/24 00:50

どうして?どうでも良いの。構造主義 ポスト・構造主義の暴いた事それは、構造に縛られている人間であったのだし、その解放だったんですよ。


921 :ぴかぁ〜 :04/04/24 00:53

それは正確には、「暴露」であったと考えた方がいいですよ。「解放」がどこで行われたのでしょうか。


923 :899 :04/04/24 00:56

認識が世界像を構築しようとするとき「経済原則」がはたらくわけでイデアルなものを用いるのが「経済的」なわけです。しかし、恒常不変というわけにはいかない。代表的なイデアルなものは例えば「アトム」とかですね。


924 :パレルゴン :04/04/24 00:58

組織からの逃走・解体は確かに組織を必要としています。つまり、壊すには壊す物が、逃げるには逃げる対象を必要としているこの事はぴかぁ〜さんの言っている事は正しい。つまり、ドゥルーズの言う、領土化と脱領土化の事です。前者は既存組織であり、システムです。後者はそれから外への運動です。しかし、この二項は循環していると考えています。つまり、資本主義なのです。新たな商品、価値をプロパガンダして既存価値を壊しますが、その新たな価値を捕捉し、組織に組み込んでいくこの事を彼は認めていますね。言葉を変えると、新商品の開発と言う差異は、運動としては反復になると言う事でしょうか。

逃走は、開放は、政治運動ではありえません。単なる運動です。政治運動が国家の政策変更に訴えかけるのに対し、運動は、権力に反対なのです。一般的な固定観念への反動であり、大きな組織への反対行為です。逃走は=ドゥルーズの哲学創造であり、マイノリティの逃走であり、グリンピースであり、反国家、ジェンダー、ポスト・コロニアル理性批判ですよ。


925 :ぴかぁ〜 :04/04/24 00:58

たとえば、メディア論的にいえば、形而上学主体を支えていたのは、「本」であり、ポストモダン的に主体を脱中心化しているのは、TVであり、PCであるということです。それはポストモダニストが起こしたわけではない。いわば、ポストモダニストはそのような時代の変化を記述しただけですよ。ソ連を崩壊させたのは、ラジオから流れたロックミュージックであってもポストモダニストではない。

その当たりもシステム論者系からはいろいろ指摘が出ています。グリンピースであり、反国家、ジェンダー、ポスト・コロニアル理性批判の結局、反理性主義という理性主義ということですね。大きく見れば、何らかの主張を行うということは、そこに価値=意味をもつということ。それは複雑な世界からの単純化という逃避でしかない。


926 :899 :04/04/24 01:01

主体はあらたに「囲い込まれ」つつあるのではないの?


929 :ぴかぁ〜 :04/04/24 01:04

「囲い込まれ」つつあるとは、どういうことでしょうか。たとえば、記号に囲まれた記号消費社会のために人は「動物化」しているとかそういうことでしょうか。


931 :899 :04/04/24 01:06

現前から記号へ、かな?


934 :パレルゴン :04/04/24 01:10

確かに豊かになった物質文明が、開放を齎したといえるでしょうが、だからと言って、物質・暇 だけが ポスト・モダンを齎したのならばポスト・モダンを謳歌する我々は、資本主義的な物質文明の産物?それはないでしょうね。


935 :ぴかぁ〜 :04/04/24 01:11

>>931

パロールからエクリチュールへ、さらに電子エクリチュールですね。そして私のパロリチュール論に繋がるわけです。 本→TV、PC→2ちゃんねる

>>934

暇、物質というか、情報化すなわち、反復可能性の増幅=複写可能性ですね。たとえば、TVの視聴者になることは、近代的な理性的な主体=男性的な理性的で自立した主体が脱中心化される。とメディア論的には考えられます。このような消費社会の消費者は、主体を脱中心化された存在なのですね。

940 :899 :04/04/24 01:19

>>935

そして「野蛮の復活」?


941 :ぴかぁ〜 :04/04/24 01:21

もういちどいうと、私はポストモダンを否定しているわけではないのです。それは現代社会を記述している。しかし人の生理システムは、イデア的同一性、形而上学的認識をするものである。それがなければ、世界を認識できない。そしてモダンからポストモダンへは、主体が脱中心化されたのであって、主体自身が解体されたわけではない。時代にあった、イデア的同一性、形而上学的認識へ変化しただけ。それを記述したのがポストモダンであり、システム論は、さらに根源的な人類の生理システム、社会システムの普遍性を記述しようとするものなのです。だからポストモダン的な差延、反復はシステム論に内包されるのです。

>>940

野蛮のフッカーツ!2ちゃんねるは野蛮人の小躍りですね。


955 :899 :04/04/24 01:28

主体の脱中心化は客観化・客観視でもあるが、自己の「希薄化」でもある。


956 :ぴかぁ〜 :04/04/24 01:39

自己の「希薄化」ですか。そうですね。主体の個体性という境界の希薄さですね。たとえば、昆虫などは、集団性に対する個体性が希薄ですね。1個体の形態までが、集団の一機能化(働き蜂など)しています。これは封建主義、全体主義でみられますね。これもまた個体性の希薄かもしれませんが、現代の消費社会では、自己が肥大、すなわち記号との境目が薄れて、個体性が希薄化している。それが2ちゃんねるでは、他者が疑似現前してくることにより、個体性が明確になっていると考えます。野蛮とはこの他者との境界の、陣取り合戦です。


958 :955 :04/04/24 01:43

「擬似現前」、これがね「圧縮空間」におけるものなわけです。何でもが大容量化して行くから。現前の代替の場として「擬似現前」の場が提供される。居酒屋的な現前の場に比べ、リアルさは乏しくなるが大容量化・高速化により格安・利便的に「場」を作ることが出来る。


966 :ぴかぁ〜 :04/04/24 02:03

リアルというのが、難しいですね。なにがリアルか。私が考えているのが、リアルの近い者が集まるということでしょうか。そういう意味で「圧縮空間」という表現はおもしろかもしれません。リアルが近い者が集まるということは、複雑化を意味しますね。たとえば、アニメヲタと哲学オタがいれば、差異化は単純ですが、カントヲタとポスモダヲタ、さらにはデリダヲタが二人あつまると差異化の境界がより複雑になります。近いほど、細かいところで差異化を進める必要があるので、システムとしては複雑になりますね。このような意味で「圧縮空間」という表現はおもしろいとおもいました。このような「圧縮空間」場によって、主体の同一性は規定されるのかもしれません。