(2ちゃんねる哲学板)ポストモダン論とシステム論  その2


6 :パレルゴン :04/04/24 13:55

疑問点を整理し、提出しておきますね。
1)差延脱構築について、脱構築はスローガンであり、意味がない と言った真意は。
2)現前の複雑な唯一性を全て情報処理するだけの記憶認識能力が人にはない と言う事は、逆説的には、認識能力があれば、人はモダンの状態で、 現前の掌握を(現前の定立を)いまだに進めていたと言う解釈でしょうか。
3)「システム論は何も指示しない、ただ世界を記述するだけ」と言う意味 をもう少し正確、詳細に述べてくれませんか。
4)「人間は因果関係を求め、ようは、複雑な世界を単純化したい、これは、人の知能的限界からくるイデア的 同一性を求める事  に繋がっている。」と言った発言と、ボンサンの自論である、デリダの「差延」  という概念が両立不可能に思えるんですが?
5)普遍性と絶対性の違いについて、コメント 願います。
6)「イデア同一性=動物全般から受け継いだ生理システム」と言う場合、動物の全てが生理的なプラトニズムなのでしょうか。同一性への憧憬 自己の・主体の回復がポスト・モダンであったと言えるのでしょうか


7 :ぴかぁ〜 :04/04/24 14:20

疑問点の整理、乙です。昨夜はいきなりシステム論に入りましたので、どうも強引に話を進めたような気がします。質問に答えながら、整理したいと思います。

一番大切なことを。システム論ってなに?ってことです。システム論といっても様々です。有名なものは社会学ルーマン、科学系の自己組織化、オートポイエイシスなどですが、実はどれも未完なものです。だから私が語るシステム論は、現在私が思考しているものであり、どちらかというと、自己組織化系からきています。ルーマンは現在お勉強中です。

システムとは要素還元論に対する非還元論です。たとえば近代思想の代表であるニュートン力学は、要素に還元していくほど、世界はより理解されるということです。そして究極的要素に還元されたときに、世界の絶対的真理に至る、そういう真理が存在するということですね。それに対して、システム論は、要素の関係性で作動しているのだから関係性について考えなければならない。さらに関係性は要素の総和以上の意味があるから還元できないと考えるのですね。そしてここにあるのが、世界は複雑なシステムとして作動しているということです。

システム論とポストモダン論はともに60年代に基点があり、おそらく互いに共鳴しながら同じ時代性を共有していると思います。大量消費社会はいかに生産するかから、いかに消費させるかに向かい、情報化社会は理性的で自立した男性的主体から、脱中心化された主体へ向かわせました。人々は時代が複雑化していることを実感したのであり、近代的単純な記述とのズレを感じたのです。ポストモダニストは、もはやこの複雑な世界は「大きな物語」=統一的な世界観として描くことは困難であり、動的な差異の体系として記述することを唱えました。システム論者は、もはやこの複雑な世界は近代的な還元主義的「大きな物語」としてでなく、非還元論的動的な「大きな物語」として記述することを唱えました。多くにおいてそれは似ている。静的単純な世界観から、動的複雑な世界観への転回です。


10 :ぴかぁ〜 :04/04/24 15:20

1)差延脱構築について、脱構築はスローガンであり、意味がない と言った真意は。

差延とは現象ですね。言語がコミュニケーション場を移動することにより、生み出される現象です。脱構築とは、読者がテクストを書かれたそのままでなく、読み込みこもう!という行為ですね。私が、人の情報処理能力に限界といったときには、行為には限界があるということです。たとえば、TVをみている。大量に情報があふれてくる。それをどれぐらい脱構築し続けることができますか?と言う問題になります。これはあなたはどれぐらい眠らずにおれますか?と同じ意味がある。生理への全面的な反抗は愚考です。


11 :ぴかぁ〜 :04/04/24 15:25

2)現前の複雑な唯一性を全て情報処理するだけの記憶認識能力が人にはない と言う事は、逆説的に、認識能力があれば、人はモダンの状態で、 現前の掌握を(現前の定立を)いまだに進めていたと言う解釈でしょうか。

たとえば、いまよりも、現前の複雑な唯一性を情報処理する記憶認識能力が人にあれば、イデア的同一性は必要なくなるかもしれない。たとえば、リンゴという言葉はいらない。現前するリンゴをすべて唯一性で記憶し、認識するわけです。たとえばうまれてから、千個のリンゴを見たきたとすれば、それ一つ一つの唯一な個性的なものとして記憶すればよい。それは名前をつけてもよい。さとしりんご、みかりんご、かずまさりんご・・・・ このようなことは、人は他者に対して行っていますね。知り合いの名前を忘れることが失礼なのは、知り合いの唯一性を認めないことになるからです。りんごと同じように、その人でなくとも、人であればだれでもよいということになるわけです。

話をもどすと、モダンであろうが、最初の人類であろうが、人はイデア的同一性として世界を記憶し、認識するものなのですね。そしてデリダ差延がしめしたものは、世界はたえず変化し、繰り返すことはない。世界には唯一性しかない。だからイデア的同一性は人の認識世界であるということです。そして、私はそれが生理システムであるので、脱構築という行為には人の生理能力上の限界があるといっているわけです。


12 :ぴかぁ〜 :04/04/24 15:37

3)「システム論は何も指示しない、ただ世界を記述するだけ」と言う意味 をもう少し正確、詳細に述べてくれませんか。

システム論、特に私の指向する自己組織化系では、要素は偶然であり、それが全体としてシステムが自律的に作動していると考えるので、そのシステムの原因は語れないのですね。カオス論的に、大災害となった台風も蝶の羽ばたきが基点である可能性がある。すなわち因果関係は語れないわけです。逆に、原因を特定するのは、複雑なものを、単純化するという操作的な言説ということになる。人は語りえないことほど語りたがるので、私自身はいろいろ考察して単純化し語ってしまいますが。


13 :ぴかぁ〜 :04/04/24 15:42

4)「人間は因果関係を求め、ようは、複雑な世界を単純化したい、これは、人の知能的限界からくるイデア的 同一性を求める事に繋がっている。」と言った発言と、ぴかぁ〜サンの自論である、デリダの「差延」という概念が両立不可能に思えるんですが?

デリダ脱構築は、疑いつづけることをやめるな!正義は疑い続けることである!というメッセージですね。疑いつづけることは不可能なことはわかっているが、がんばろう!ということですね。雪山で遭難したときの「眠るな!死ぬぞ!」と同じことです。しかし人は眠くなってしまいます。でも眠ると死ぬ可能性が高くなるのです。このような世界の複雑性と、人の単純化性で世界を捉えないといけない。差延は、世界の複雑性の記述です。


14 :ぴかぁ〜 :04/04/24 15:46

5)普遍性と絶対性の違いについて、コメント願います。

ルーマンのシステム論がもとめる普遍性とは、より広い範囲(空間的、時間的)で適用できる法則性です。しかしこれは絶対性=世界の真理ではありえないことはわかっているということですね。


15 :ぴかぁ〜 :04/04/24 16:09

6)「イデア同一性=動物全般から受け継いだ生理システム」と言う場合動物の全てが生理的なプラトニズムなのでしょうか。同一性への 憧憬 自己の・主体の回復が ポスト・モダンであったと言えるのでしょうか。

たとえば、人工知能の問題でわかってきたのが、人の知能のすばらしさは「適当であること」ですね。それはフレーム問題として有名ですが、人はこのような問題を、適当に処理することによって、乗り越えている。脳にとって重要なことは、いかに少ない情報処理で、結果をだすかという経済性です。これは心理学的にもいろいろと示されていますが、人は結果オーライなのですね。だから、イデア的同一性信仰という「適当さ」は、とても経済的な認知方法ですね。これは人のみの特性でなく、動物から継承されてきた進化論的に進められてきた認知システムだと思います。

では、ポストモダニズムはなにかといえば、すでに書きましたが、科学技術の発展により、明らかにされてきた世界本来の複雑性の記述ですね。たとえば、近代はニュートン力学に代表される還元論、合理主義の時代といわれますが、近代において、非還元論、非合理論者は存在します。ただ社会でポピュラリティーを獲得していたのが還元論ということです。そして、現代はポストモダニズムがポピュラリティーを獲得してきたということです。それが大衆が情報化、消費社会により、世界を複雑に感じてきたからです。しかし実際に、その中で大衆はイデア的同一性、形而上学的認知システムにより毎日を生きています。ポストモダニズムとシステム論が違うとすれば、ポストモダニズムは大衆にしっかりしろ!イデア的同一性、形而上学的に物事をかんがえるな!と主体に、近代と同じような、理性的な主体であり続けることを強要します。実はこれは哲学そのものがもつ、強制力です。それに対して、システム論は、イデア的同一性、形而上学的に物事をかんがえることも、一つのシステムとして考えて、社会を記述します。まず、記述することを目的にします。そういう意味で科学的なのです。たとえば、それがかつての機械論→マルクス主義のように、思想的につかわれることは、別問題なのです。

61 :ぴかぁ〜 :04/04/25 00:11

システム論について簡単に解説を。
システム論は、古典物理学的世界への対抗として現れました。これは、生命が古典物理学で表せないということです。その基本になったのが、有機構成です。有機構成は、物質的要素が複合体をなすさい、要素の特定の配置が維持されているような、同一性を保つ構成化の水準を示している。」機械でない生命の記述としてこのような有機構成は、カント、シェリングなどですでに見られます。機械は壊れるとそのままであるが、生命は傷つくと自己複製する、すなわちある形態を維持しようとし成長するというような、生命的なものの記述がとして、システム論は発展しますが、このような非還元論古典物理学のような要素還元論に比べて複雑であるために、なかなか進みません。

その中で、第一世代としては動的平衡性システムです。これは自己維持システムです。ベルタランフィの一般システム論はここに分類されます。

第二世代は、動的非平衡システムですね。自己維持ではなく、成長するシステムになります。ヘーゲル弁証法はシステム論ではないですが、ここには弁証法的な論法が用いられます。そして実際に科学的に現象として示したのが、熱力学者ブリゴジンの自己組織化現象(散逸構造論)ですね。

第三世代では、自己的に境界を産出するシステムとしてオートポイエーシスが出てきます。これは神経生理学者マトゥラーナの神経システムをモデルにして発想しました。ルーマンはこの考えを社会システム論として取り入れていきます。他には、認知科学、環境科学、法理学、文学理論へと応用されています。オートポイエーシスはなかなか難しいのですが、作動することにより、境界を生成するシステムです。さらには自己言及システムでもあります。

参照 オートポイエーシス 河本英夫